神論の非論証的・問答法的性格 Berti (1963) "Dimostrazione e metafisica in Aristotele"

  • Enrico Berti (1963/2012) "Dimostrazione e metafisica in Aristotele" in E. Berti (2012) Studi Aristotelici, Morcelliana, 51-56.

積んでいた論文集を少しずつ消化する.


APo. が理論化する論証手続きが形而上学に (どの程度) 適用できるのか,という問題がある.

全ての項が単一の類に属することは論証の要件である.さもなくば命題が自体的なつながりを表現できず,普遍性と必然性を欠くことになろう.したがって,諸項がある特定の類に属するような前提だけが,論証手続きの真にして固有な前提の役割を果たしうる.その一方で,共通の原理は全ての類に共通であるために論証の前提の役割を果たしえず,むしろ規則を構成する.

形而上学的議論 (il discorso metafisico) では,上記の条件に照らしていくつかの困難が生じる.アリストテレスによれば,形而上学 (σοφία, (第一) 哲学) とは,経験に現れる〈あるもの〉どもを,ある限りで (あるものどもとその諸規定の総体において) 考察する学知である.この定義は「第一原因の学知」という定義と符合する.何かの学知を持つとはその原因を知ることであり,総体において考えられた〈あるもの〉の原因とは,第一原因に他ならない.また,この定義は「実体の学知」という定義とも符合し (実体は〈あるもの〉どもの第一の類だから),「不動の実体の学知」という定義とも符合する (不動の実体は第一の実体であり,「第一」は第一原理という意味を持つから).それゆえ,アリストテレスにとって形而上学は〈ある〉(essere) の学知だと (いくらか単純化して) 言うことができる.

だが〈ある〉は類ではなく (自らの種差に述語づけられるから),むしろ多くの類 (カテゴリー) を含む.したがって,形而上学においては,項が一個同一の類に属さず,論証の要件を満たさないように思われる.さらに,〈ある〉と共外延的なのは (無矛盾律に還元可能な) 共通原理だけであり,共通原理からはいかなる結論も引き出せないように思われる.だとすれば,いかにして形而上学的な議論は論証形式で構造化されうるのか.

形而上学が最初に置かれるのは,多様な〈あるもの〉が生成する経験であり,この経験は〈ある〉の概念を通じて考察されるものである.この超越的 (trascendentale) 概念は,経験とは別の内容を持つものではなく,経験そのものを総体において思考する知性的作用 (l'atto noetico) である.ここからはじまる議論は,いかにして論証と見なされうるのだろうか.

伝統的には,アリストテレス形而上学の核は不動の動者の存在の論証だと見なされてきた (Met. Λ, Phys. VIII): (小前提) 経験における〈あるもの〉どもは生成する,(大前提) 生成するものは他のもの,ひいては不動の動者から動かされる,したがって経験における〈あるもの〉どもは総体として不動の動者から動かされる.−−相当に単純化すれば議論は三段論法 (sillogismo) の形にできるが,少なくとも大前提となる因果性の原理が「真・第一・無中項」かは明らかではない.したがって,形而上学的議論のこの決定的段階は,因果性の原理から出発する三段論法ではなく,むしろ原理を得るプロセスである.

とはいえ問題の原理は生成概念という中項の解明を企図している.そしてもちろん,全ての論証で最も重要なのは中項の探究である.かくして私たちは,〈あるもの〉どもの経験という,形而上学的議論の唯一可能な出発点に立ち戻る.因果性の原理を得るための唯一の道具は,経験の超越的考察,すなわち〈ある〉限りの経験の考察である.問題は,ここから出発して因果性の原理を得る議論が,APo. の意味での論証かどうかである.

Phys. VIII の議論 (アクィナスの第一の道) を考えてみよう.アリストテレスは,ものがすべての部分で自ら動くことの不可能性を示す.アリストテレスによれば,生成するものは運動の点で可能態にあり,動くものは運動の点で現実態にある.それゆえ,生成するものがそれ自体として運動するなら,同時に同じ観点から可能態にあると同時に現実態にあることになり,無矛盾律に違反する.それゆえ,動くものは必然的に他のものによって動く.

この議論は ἔλεγχος ないし帰謬法の形式をとっている; 因果性の原理は無媒介に自明な (immediatamente evidente) ものではない.この原理の獲得は,分析論的でなく,むしろ問答法的な議論によって試みられている.

これに対して,アリストテレスは無矛盾律を帰謬法で証明しているが,しかし無矛盾律は無媒介に自明のものではないか,という異論があるかもしれない.だが,無矛盾律の否定が暗黙的にはその肯定であり,無矛盾律の論証は当の無矛盾律を通じて論証されるのであって,これは厳密には媒介ではない.その一方で,因果性の原理は無矛盾律という異なる命題を通じて論証されており,それゆえ無媒介ではない.

真なる前提とは〈ある〉概念を通じて考察される〈あるもの〉どもの経験である.無矛盾律はまさにこの〈ある〉概念であって,これはそれ自体としては内容を持たない.したがって,形而上学的議論の原理とは無矛盾律と経験の統一であり,この統一だけが因果性の原理の否定の定式化を可能にする.この否定から矛盾を導くとは,生成だけでは〈ある〉を汲み尽くせないこと,したがって不動の動者が必要であることが示される.

結論として1形而上学的議論の構造は本質的段階においては論証である必要はなく,むしろ知性作用から引き起こされる問答法的議論でなければならない.体系化という第二段階においてのみ,議論は因果性の原理を前提とする論証の形式に構造化される.この結論は,形而上学がたんなる ἐπιστήμη ではなく νοῦς との結合だという主張 (EN VI.7) によって裏付けられる.


  1. p.56 の第2段落 (Gentile の la problematicità pura に言及するくだり) はよく分からなかったので省略する.