ヒッポリュトスによるアリストテレス解釈の正確さと豊かさ Osborne (1987) Rethinking EGP, Ch.1.
- Catherine Osborne (1987) Rethinking Early Greek Philosophy. Cornell University Press.
- Part One: The Test Cases.
- Aristotle. 35-67.
- Part One: The Test Cases.
議論の moral は C. (ii) を参照.
A. ヒッポリュトスはどこから情報を引き出しているのか
Haer. において,アリストテレス思想の解説は二箇所でなされる: (i) 1.20 の予備的サーヴェイにおける概説,(ii) 異端者バシレイデス批判 (7.15ff.) におけるより詳細な説明.
(i) はあまり重要でない.プラトンの説と一緒くたにしており,学内著作について10カテゴリー説以外の知識を示さない.残りはおそらく学外著作由来であり,おそらく一般向けのあんちょこに基づいていると思われる.他方 (ii) はこれとは全然異なり,より興味深い.これはヒッポリュトス自身のものか,それとも他から引っ張ってきたのか.
(i) 解説を目下の文脈に適合させていること
アリストテレスの解説は,その概括的要約でさえ,バシレイデスとの比較という文脈に沿っており,それゆえ単なる手引書の引用とは考えにくい.
(ii) 解説の諸特徴
7巻では1巻と異なりアリストテレスの教説が批判的に分析されている.ヒッポリュトスが誰かにこの分析を負うとすれば,懐疑主義者にであろう (ストア派やエピクロス派はあまりアリストテレス批判に関心を示さない).実際ヒッポリュトス自身セクストスを引くこともある.だがアリストテレスの解説自体はヒッポリュトス自身のものである.
7.15-19 の反アリストテレス論証に並行的な特徴をセクストスのテクストに見ることはできる:
- アリストテレスの οὐσία に反対する第一の議論は,それがありはしないもの (γένος と εἶδος) から生成することに基づく.「ありはしないものからの生成」批判はセクストスが頻用する (e.g. M. 10. 342.).またヒッポリュトスの γένος-εἶδος-個体関係の批判に似た普遍-個別関係の批判も M. 1.74; PH 2.219-27 に見られる.
- 第二の議論は,οὐσία が非存在者から構成されるというもの.これも M. 6.63, 4.34, 6.52, 61, 2.106 などに別の主題の並行例がある.
〈質料・形相・欠如〉からなるものとしての οὐσία に反対する第三の議論は Haer. 7.19 の冒頭で言及されるが敷衍されない.論証を知っているが目下の目的に関係がないということを含む書き方である.同様に,魂 (7.19.5-6), 神 (6-7) への素っ気ない言及も,書き方からして単に手引書のコピーではないことを示唆する.
B. ヒッポリュトスはアリストテレスに関してどれほどの範囲の知識を示しているか
ヒッポリュトスによるアリストテレスの解説は主に実体論を扱う.直接引くのは Cat. であり,最長の議論も Cat. 批判であるが,提起される問題は他の箇所,就中 Met. Z に関わる.
(i) Cat. と Met. Z における実体
Cat. が "What is a substance?" という単純な問いを問うのに対して,Z は "What part of each thing is its substance?" を問う.理由として考えられるのは,(1) 定義・知識・時間上の先行性 (Z1, 1028a32-3) という要件が,複合的個体よりいっそう実体であるものを示唆すること,(2) イデアに実体の地位を与えるプラトニストへの批判が必要であること.
アリストテレスはプラトニックなイデアを斥け,普遍が実体であることを否定する.だがそうすると,実体は単純で定義不可能になる (1039a17-19) という問題が生じる.Z は形相や普遍が本当の実体だと認めているのではなく,むしろ実体の各候補を全て疑義に付すという戦略を採っている (Owen 1978/9; contra Woods 1967, Albritton 1957, Hughes 1979).ただし個々の複合体の文脈では各候補が復権される (Z17/H1): 質料や形相などは実体の一部ではある.
このように Z の戦略を見るなら,「x の実体を構成し x より実体的な離在的 x」の探究は方向を誤っていることになる.これは個体を第一実体とする Cat. の判断に似る.
そうだとすると,Z で提起された多くの問題はそのままになる.ヒッポリュトスが取り上げているのは,複合の問題と,生成に関わる問題である.
- 1038b23: σύνολον が部分をもつ以上,実体は部分をもつと思われる.だが部分は実体でも非実体でもありえない.
- ヒッポリュトス: 実体の構成要素とされる γένος と συμβεβηκότα は自存しない.
ヒッポリュトスの第一の論駁は個体の生成に関わる.その詳細は Cat. と Met. の議論の脈絡に位置づけうるが,議論のスタイルはアリストテレスとは異なる.
- (a) οὐσία に反対する第一の議論,Haer. 7.15-18.1.
- 個体の生成は Z8 で詳論される: 銅球が作られるとき,銅 (質料) も球 (形相) も生成してない.だがどちらも先立って τόδε としてありはしない.
- ヒッポリュトスは「ソクラテス」や「ディオゲネス」を例としつつ,その類や種について同様の議論をする.曰く,類や種は οὐδὲ ἕν であり,ゆえに οὐκ ὄντα である.
- この οὐδὲ ἕν には 'τόδε' が響いているかもしれない.実際またヒッポリュトスは γένος が σωρός だとも言うが (7.15.2),これは Z16, 1040b5 と対応する.
- これにより γένος のみならず γένος からなる第一実体も批判される.
- (b) οὐσία に反対する第二の議論,Haer. 7.18.2-6.
- 第二の議論は οὐσία が非存在者から構成されると論じる.これは σύνολον に関係するが,ヒッポリュトスの使う資料は主に Cat. である.彼は γένος と συμβεβηκότα の非存在から実体の非存在を導くが,この推論は,実体が γένος と συμβεβηκότα からなるという直接アリストテレスに由来しない前提に基づいている.ὑποκείμενον を扱う Z3 がこれに関連するが,Z3 における ὑποκείμενον の候補である形相と質料はここでは言及されない.
- 7.19.1 は〈質料・形相・欠如〉のグループに言及する.これらは Z よりむしろ Λ3 ないし Phys. I 7 の三つ組であり,ヒッポリュトスは少なくとも一方を知っていたと思われる.
- Haer. 7.19 の残りの箇所は他の特定のアリストテレス著作への深い知識を特に示唆しない.DA や DC への参照と思われるものはあるが詳らかでない.
(ii) バシレイデスの箇所におけるアリストテレスへの言及
バシレイデスの解説 (7.20-7) でもアリストテレスは五度言及される.うち新たな判断材料となるのは二箇所である.一つは同名異義性であり,バシレイデス以前にアリストテレスが Cat. で同名異義者の教説を立てたことが言及される.もう一つは魂論であり,アリストテレスの魂の定義に再度言及してから,魂は身体に優越し,身体の ἔργον であり ἀποτέλεσμα だと述べる.ここではアリストテレスの魂論が正確に捉えられている.
C. アリストテレスの解説のもつ含意: テストケース
アリストテレス哲学は,ヒッポリュトスが挙げる主要例のなかで,私たちがテクストに直接アクセスできる唯一のものである.それゆえソクラテス以前の哲学者 (PS) に関するテストケースたりうる.以下の問いが問われるべきである:
(i) バシレイデスとの比較並列
バシレイデスを扱う資料は,ヒッポリュトスのほかに,エウセビオス,クレメンス,エイレナイオス,およびヒッポリュトス自身のより初期の Syntagma から派生する人々 (エピファニウス,擬テルトゥリアヌス,フィラストリウス etc.) のものがある.ヒッポリュトスとクレメンスの説明は若干の特徴を共有するが,他はこれとは独立の伝統をなす.ヒッポリュトスの説明が真正であることは広く合意されている.だがそうすると,もう一方の権威はヒッポリュトスの解説の評価には使えない.説明の抜け漏れがないかについて,私たちはもっぱら内的証拠に頼るほかない.解説は総じて整合的であり,包括性を目指してはいるが,バシレイデスのテクストにどれほど沿っているかははっきりしない.アリストテレスとバシレイデスに体系的対応関係はない.
- (a) 非存在からの生成: バシレイデスの非存在の神は,アリストテレスの非存在の γένος と言葉づかいのレベルで対応づけられる (7.16.1∽7.21.1, 7.16.2∽7.20.2, 7.22.5).
- (b) 三区分:
- (c) その他の並行性:
- (1) 同名異義性 (7.20.3-4).
- (2) 魂:身体 (アリストテレス) :: アルコン:息子 (バシレイデス).両者には表層的類似はなく,ヒッポリュトスはむしろ (先行/後続関係,知恵における優越性,支配関係という) 基礎構造に目を配っている.
ヒッポリュトスによる両者の比較は概念間の類比に基づいており,それゆえ術語を置き換えたりはしていない.とはいえアリストテレス説の要約の仕方は彼の関心に特有のものであり,そこからしか理解できない.
(ii) この資料が断片的テクストへの伝統的アプローチに対して持つ含意
例えば λέγει + 直接話法で Cat. を逐語的に引用する箇所も,ヒッポリュトスの文脈まで見たほうがはるかに多くの情報が得られるのは明らかである.逐語的でない 7.18.2 (Cat. 2a11) の例も同様である.7.18.3 ではアリストテレスのテクストから得られる正当な結論を提示している.このように,問題なのは引用が逐語的かどうかではなく,むしろ文章全体がアリストテレスを公平に描写しているかどうかである.
もっとも,問題がないわけではない:
- (a) 論評が驚くべきものに見える場合.
- (b): 描写が偏向的・非正統的な場合.
- しかし,これも注意深く読めば,引用やパラフレーズと解釈とは識別可能である (cf. 17, 18.6, 19.6-7).
ここから以下のことが言える.
- 「学説誌家ヒッポリュトスの引用から原テクストを再構成できる」という想定には根拠がない.
- 「ヒッポリュトスの学説誌家としての主な価値は引用にある」という主張には根拠がない.
- ヒッポリュトスが,アリストテレスの言葉を引用していると示唆する時,彼は正確な術語を示しており,自分の目的のために自分の言葉に置き換えてはいない.
- ヒッポリュトスが入れている二次的資料のほとんどは,アリストテレスのテクストの緻密で知的な読解に基づいており,きちんとした根拠のある解釈を示している.
- アリストテレスの理論の帰結に関するそれほど正統的でない推論を行っている箇所は,ヒッポリュトスの文体から特定できる.
(iii) 結論
アリストテレスに関する箇所は,ヒッポリュトスの著作に典型的な箇所である限りで,断片を抽出して解釈を無視する読み方がなんら生産的でないことを示している.