アリストテレスにおける正当化 Goldin (2013) "Circular Justification and Explanation"

  • Goldin, O. (2013) "Circular Justification and Explanation in Aristotle" Phronesis 58 (3), 195-214.

面白いが一部は明らかに読み込みすぎ.


I

アリストテレスは基礎付け主義者か整合主義者か.この問いは彼に一般認識論があることを前提している.あるなら,「知識とは何か」の答えとなる説明があるはずだ.APo.Tht. 同様 ἐπιστήμη に関してそうした説明を行っている.しかし ἐπιστήμη は γιγνώσκειν や εἰδέναι など数ある知識の種類の一つに過ぎない.アリストテレスの一般認識論を再構築するにはそうした知識の諸種の関係を同定し定義し処理しなければならないだろう.どうしてアリストテレスは,知識のある種類にはそれに適した認識論的分析があり,その分析は他の種類には適用できない,と考えたのだろうか.

本稿はそうした分析を試みる.彼の ἐπιστήμη 論は基礎付け主義的である (論証の推論的構造が論証不可能な第一原理に依拠する限りで).しかし原理を正当化する問答法的議論の編み目は整合主義的である.前者は正当化の基礎付け主義的説明と構造的にパラレルである.彼は説明に関する基礎付け主義者だが,おそらく正当化に関する基礎付け主義者ではない.なぜか.本稿の考えではこうだ.論証するとは結論を説明すること,理解可能にすることだ.前提の理解可能性は結論の理解可能性の原因である.そして因果関係は非対称的である.彼の自然哲学によれば,原因は基体の可能態を現実化する1.論証の結論は可能的に理解可能で,論証がこれを現実化する.一方で正当化の循環は問題ない: 結論の正当化は前提の地位を原因とするわけではない.

II

どの立場を取るにせよ,推論は知識にとって構成的である.そして基礎付け主義的な認識論的議論は全て共通の構造的特徴を持つ: 全命題は,それ自体として知られる命題を前提とする推論の結論としての地位のおかげで,知られる.循環的連鎖は同じ命題に前提と結論の地位を与えるので知識を構成しない.また無限長の推論は心的に横断できない.

こうした基礎付け主義的な議論の形式はしばしばアリストテレスに遡る.APo. I.2 いわく,ἐπιστήμη を持つのは論証による.そして論証の前提が表す事態は,結論が表す事態の原因である.ゆえに循環論証や無限長の論証はありえず,説明の究極の前提がなければならない (I.3).彼の議論は基礎付け主義の一般的な定式化とパラレルである.

論証は「なぜこれが成り立つのか」(Why is this the case?) に答えるのであり,「どうしてこれが成り立つと確信しているのか」(How am I sure that this is the case?) に答える正当化の機能はない2

第一原理の正当化について言えば,それらは νόησις という種類の知識のおかげで真だと知られ,第一原理の役割を果たす.APo. の νόησις 論は二重である: そこに至るまでの発生論的説明 (99b35-100a14),第一原理を把握する知的傾向性としての同定 (100b5-17).問題は νόησις の正当化に関する内的論理的構造の説明がないことで,そこから,そもそも構造などない直観的行為だという解釈伝統が生まれた.これが正しければ正当化に関する基礎付け主義を取っていることになる.

しかし正当化に関する整合主義を採用している証拠がある.正当化に関する俯瞰的説明があるわけではないが,ローカルな分析は存在する.例を二つ挙げる.

第一に,APo. I.13, 78a22-8 は διότι の ἐπιστήμη と ὅτι の ἐπιστήμη を区別している.後者は拡張的な意味でのみ ἐπιστήμη である.前者の場合は惑星の近さから瞬かなさを論証するが,後者の場合は前理論的水準から説明になる基礎的真理へと探究が進む (瞬かなさの把握による惑星の同定 → 近さの推論).

アリストテレスが叙述する認識論的過程は循環している.惑星の瞬かなさの認知はどの天体が惑星かの認知に依拠し,後者は惑星の本質の知性的把握を前提し,その把握はまた別種の基礎づけを要する.「我々にとってよく知られるもの」さえ究極の基礎ではない; 例えば知覚も未解釈のセンスデータではなく「これこれのもの」である (τοιοῦδε (I.31, 87b28-9)).さらに人びとは関連する普遍を様々な一般性のレベルのもとで見る (Phys. I.1:「父」).同定は名目的定義のおかげでなされるかもしれないが,名目的定義が究極の基礎だとは言えない.一方で帰納により普遍を同定するとしても,その帰納は関連する第一原理を把握している人にだけ可能である.だから科学的事実の正当化的基礎があるとすればそうした把握だが,一方でそうした原理自体も「事実」の推論の結論として正当化される.要するに循環がある.

これと同様に,EN I.4 では原理からの推論と原理への推論のプラトン的区別に言及する.通常これは幾何学的分析/総合の区別への言及だと取られてきた.骨子は単純である: 科学的推論は論証構造に鑑みれば線形で基礎付け主義的だが,知識の時間的生成には認識的循環がある.

問答法の側からも証拠を出せる: 問答法は「原理への道」である (Top. I.2, 101a37-b4).問答法が ἐπαγωγή において決定的な方法論上の役割を果たすのか,単なる教育的道具なのかは論争がある.しかしいずれにせよ問答法的議論は正当化の根拠を提供する.そして問答法が確証できるのはせいぜい信念の暫定的無矛盾性にすぎない (Irwin 1988, 49-50).問答法を通じた正当化は整合性にのみ関わる.

ではどうやって無限の/循環した推論が正当化を提供するのか.アリストテレスの認識論が矛盾しているのでなければ,説明と正当化に違いがあるのでなければならない.

III

アリストテレスにとって先行性はまずもって因果的である.それゆえ因果的説明が第一原理とみなされる (APo. I.2).問題はなぜ正当化ではなく説明に関して原理が必要なのかである.これを知るには因果が知識にどう効いてくるかを見るとよい.どうすれば原理の気づきが結論の理解の原因となるのか.

これに関する手がかりを与える APo. I.2, 72a25-32 は説明の順序と正当化の順序を混同しているように見える.アリストテレスはここで「因果の伝達モデル」(A. C. Lloyd) に訴えて基礎的命題はそれを基礎とする命題以上に知られている必要があると論じる.これは認識者の変化であり認識対象の変化ではない (ケンブリッジ変化ではある).

この一節は原理が結論よりよく知られることの必然性を論じる.アリストテレスが言いたいのは,原理把握を可能にする認知状態が,結論把握の認知状態に似た性格を与える,ということだろう.この因果的メカニズムを概念化するのは難しい.しかし重要なのは因果の非対称性である.循環論証の不可能性の根はここにあるのだ.

なぜ因果に非対称性があるのか.現代なら時間的非対称性に訴えるところだろう.アリストテレスの説明は GC I.7, 9 に見られ,そこでは可能態/現実態の区別に基づくものとされる.

本稿の提案は,アリストテレスは説明を可能態の現実化と見なしていた,というものだ.正当化も同様に可能態の現実化ではあるが,しかし認知的把握間の性質の分与によって線形に進むものではない.信念や信頼はむしろ νόησις による適切な状況下で生じる.そして νόησις の現実化に必要な背景条件として経験や問答法の編み目がある.それらは始動因ではあるが性質を分与するわけではない.ここに類比の破れがある.

では APo. I.2, 72a25-32 の πίστις はどう処理するのか.これは正当化の基礎付け主義ではないのか,と問われうる.しかしこの一節は変則的 (anomalous) である.おそらくこれは命題が真であることの conviction ではなく,命題が学知において各々の地位を有しているという conviction だと理解できる.


  1. びっくりするが,単なる heuristic な引証というわけではない (cf. III 節).

  2. これも断定的だが一応 III 節に議論がある.