PNCの証明不可能性,論駁的論証 Dancy (1975) Sense and Contradiction, Chap.1

  • R. M. Dancy (1975) Sense and Contradiction: a Study in Aristotle, D. Reidel.
    • Chapter I. Aristotle's Program. pp.1-28.

Γに関する数少ない book-length の研究なので,まあ読まないわけにはいかない.


I. 無矛盾律の証明不可能性

証明不可能というのは,無矛盾律が他の公理から導かれる演繹的体系を作れない,という意味ではない (アリストテレスはそんなことは考えていない).

また,証明不可能性についてはひどく建築術的な論証があるが,ここでは通り過ぎることにする.それは,「公理は共通だが,論証は特定の類の中で行われる」というものだ.この伝でゆくと〈あるもの〉の学知にも論証がないことになってしまう.アリストテレス自身これについては応答していない (4e).

Γ3 には証明不可能性を支持する二種類の考慮が見られる.一つはそれよりよく知られるものがないこと (1005b13),もう一つはそれより先のものがないこと (1005b14-17).最初のものは疑わしく,二つ目も根拠は与えられていない.

A. 第一の考慮: 無矛盾律の認知的先行性

PNC は最もよく知られる.人々が誤るのは知らないことについてだが (1005b13-14),PNC については誤りえないから (b11-13, 22-23; cf. K5).些細なことだが,前者は偽である (正確には真なる信念を持たないとき).しかし問題はむしろ後者で,こちらには以下の論拠が与えられる.

反対のことどもが同一の事柄に帰属することがあってはならず (我々はこの前提に慣習的なものどもを付加的に規定したものとしよう),否定言明の判断が判断の反対であるのだとすれば,同じ人が同じことを同時に「あり,かつありはしない」と想定することが不可能なのは明らかである.というのも,欺かれている人が,それについて同時に反対の諸判断をもちうるから.(1005b26-32)

この議論は PNC の系に依存しているが,結論が PNC そのものではないので循環はしていない.PNC が様相的であることはそれほど大きな問題ではない.また「任意の特定のものがありかつないと考えていない場合でも,PNC を信じているとは限らない」ということもそれほど問題ではない (実際の適用の場面では必ず PNC に従うから).

むしろ問題は,Γ4 以降で実際に PNC の反対者やアポリアーに陥る人々が出てくることである.実際また PNC への反対者は歴史上たくさんいる.

アリストテレスの議論は,「x が F だと信じている」が「x が F でないと信じている」の反対だということに依存している (b28-29).Γ3 にこの前提の論拠はない.アレクサンドロスやアクィナスは De Int. 14 の議論に訴えるが,近年の注釈者は無理筋だと考えている.その議論によると:

  • カリアスが公正だとしよう.すると,カリアスが公正だと信じている人は正しく,カリアスは公正でないと信じている人は誤っている.そして,どちらも信じていない人はどちらでもない.誰かが正しくかつ誤っていることはありえない.ゆえに,カリアスが公正で,かつ公正でないと信じることはできない.だが,どちらも信じていない人は正しくも誤ってもいない.ゆえに,カリアスは公正えあると信じることは,公正でないと信じることの反対 (contrary) である.(23b7-27 and 27-32 under torture: see appendix).

この議論は二つの信念が反対だということを示してはいない.ここで示されているのは,「x が F だという信念は,「x は F だ」と矛盾的に対立すること (contradictory) の信念と反対だ」ということだ.何かを信じることと,持っている信念とは異なる1.この点でアリストテレスが筋を通していれば,彼は,二つの言明が反対なのではなく,それを言うことが反対なのだという結論を出しただろう.

議論そのものは疑わしい.人間は端的に正しかったり誤ったりするわけではなく,特定の言明や信念に照らして正しかったり誤っていたりするのだ.

B. 第二の考慮: 無矛盾律の論理的先行性

Γ3 末尾は,無矛盾律を信じないことができないということから PNC の基本性を導いているように見える (b32-33).敷衍すると,信じないことができないということが,問答法的にさえ正当化しえない公理を論証において用いてよい理由になっている.それゆえ,基本性を示そうとしているわけではない.

実際,PNC に依存しない論証はいろいろありうる.問題の一部は,そもそも PNC が推論規則でないことにある: 何を推論し何を推論すべきでないかについて PNC は何も教えない.仮に PNC が推論規則だとしても (例えばモーダストレンスと帰謬法のような規則の複合だったとしても),全ての推論に効いてくるわけではない.

むしろポイントは,PNC が我々が何かを受け入れることについて基本的だということかもしれない.PNC を認めない場合,同意は否認と区別できず,そもそも同意の役割を果たさない (Leibniz も同様の論点を提起している).

しかし第一に,このように同意・否認と形式的矛盾を同一視すると,先ほどの De Int. の議論と同様の危険がある.また二人の人が P であることと P でないことの両方に同意してしまう場合も考えられる.そして第二に,PNC を拒否したからといって,何がまずいのかは自明でない.また,矛盾が全てを含意するとしなければならないわけでは必ずしもない.そういうわけで,矛盾を認めないタイプの知的合意がどの程度必要なのか,また PNC を受け入れないとそうした活動をその程度手放さなければならないのか,は自明でない.

以上のことは念頭に置いた上で,以下ではアリストテレスによる論敵への対処法を見ることにする.

II. 「論駁による」議論

アリストテレスによれば,PNC は論駁的に論証されうる (1000a11-12).こうした「論証」の緩い語法は他にもみられる.彼が念頭に置いている手続きは Top. VIII や SE でも詳しく論じられるので,以下これらも参照する.

論駁的に論証できるとは,帰謬法によって PNC を示せるということではなく,論敵がいる場において,論敵の主張の反対を結論とする議論を展開することである.以下論敵を Antiphasis と呼ぶ2.なお論敵がいることが本質的であることは K5 のパラフレーズには明示されている (1062b2-3).アクィナスはさらにこれを正確に "ad hominem" とパラフレーズする.ad hominem が主張者の立場を abuse する誤謬を指すようになったのはごく最近であって,Locke も argumentum ad hominem も誤謬の意味では用いていない.たしかにソフィスト的な ad hominem な議論もあるが,そうでないものもある.Γ4 の場合,論敵が議論しようとすることが,彼の運命を決定づけている.ここには詭弁はない.

だが,アリストテレスは論点先取を犯してはいないか,という懸念はある.論点が前提に明白に表れている場合は,議論はあまり興味ないものになってしまう.とはいえ,定義のうちに既に PNC が潜んでいるという Γ4 の最初の議論は,その前提が見えにくい分,興味あるものとなる (定義は問答法上要請されるものでもある (Top. VIII.3; Γ7 1012a21-22)).論敵が我々とともに議論するなら,論敵は何かを言わなければならないからだ.


  1. 全体的に何を言っているのか分からない.believe that PP を belief と呼んでいるのかも知れないが,あまり普通の語法ではない気がする.

  2. さすがにギリシャ語として変ではないかと思う.まとめる際には単に論敵と呼ぶ.