問答法はそれ自体で真理を目指すものか Hamlyn (1990); Crisp (1991)

  • D. W. Hamlyn (1990) "Aristotle on Dialectic" Philosophy 65(254), 465-476.
  • R. Crisp (1991) "Aristotle on Dialectic" 66(258), 522-524.

Hamlyn 論文は Owen-Nussbaum-Irwin ラインの簡要なレヴュー.ただ Hamlyn 自身の立場はいまいちよく分からない.Crisp のコメントは EN VII に依拠した Hamlyn への応答.このあたりの話は今なら Frede (2012) を読むべきかもしれない.


Hamlyn (1990)

Nussbaum (1986) "Saving" と Irwin (1988) AFP はいずれもアリストテレスの問答法観の理解を目指しており,かついずれも Owen (1961) "Tithenai" への応答とみなせる.そして Owen 論文自体 Top. I.1 に見られる問答法の規定に関する従来の解釈への応答とみなせる.従来の解釈によれば,問答法は前提の弱さゆえに論証より劣った方法である.

劣っていることは I.1, 100b21-3 から直ちには出ないが,そう解釈されてきた.問題は何が真かだけでなく,何が受け入れられるべきかにある. Top. の問答法についての主張は初期プラトンのそれと概ね合致している.そして Phd. 100bff. では仮設法は τι ἱκανόν に達するまでなされると言われる.これも真理そのものというよりは受け入れられることを指す.Top. の説明もこれに従うものと言える.

Ryle, "Dialectic in the Academy" は,同じようにプラトンアリストテレスの問答法に連続性を見出しつつ,ギリシア人にとっては議論に勝つのが真理を得るのと同じくらい大事だったと論じる.Ryle によれば,しかし同時に,問答法としての哲学は「共通概念」に基づく超領域的原理の発見をなした.Ryle がこうしたまじめな問答法と争論術との連続性を見出しているのは正しい.しかし一方で彼は問答法のねらいに関して 'either winning or the discovery of truth' という二分法を前提しているように見える.実は第三の可能性があり,それは,既に述べたように,論じている人が真だとみなしていることを受け入れさせることである.この点には後に戻る.

Owen の論点は,EN VII の φαινόμενα が明証的経験だけでなく未確立の意見なども含む Top. の ἔνδοξα であって,ゆえに科学と問答法に鋭い区別はないというものだ.ではそうした素材を扱う原則はどんなものか,ということは Nussbaum が論じている.まず Nussbaum によれば,φαινόμενα には (Owen が言うような) 多義性はない (ベーコン的な学問の基礎の観念がないから)――これは正しい.そして彼女によれば,EN VII は一般的な方法論は論じていないが,「他の場合と同様に」という但し書きがついており,ここに一般化の根拠がある.

しかし Nussbaum は具体的な方法を示してはいない.代わりにあらゆる方法が現れの救出を伴うことを論じており,アリストテレスに Putnam の所謂内部実在論を帰している.しかしそれは尤もらしくない.アリストテレスはカントのように現れと現実を二つの隔たった領域とは考えていなかったはずだからだ.Nussbaum はこの二つの領域はアリストテレス以前のギリシア人にも見られると論じている.これは間違っている (cf. Burnyeat, "Idealism and Greek Philosophy").だから,「我々」が信じ述べることと一致する現れの領域のうちに実在的なものがあるとアリストテレスが考えたとも思いがたい.

また問答法がそうした意味での ἔνδοξα から始まる議論だとも言えない.Γ の議論は優れてまじめな問答法の例と言える.Nussbaum はここでは ἀπαιδευσία ゆえに懐疑する者に παιδεία を授けているのだとする.しかし ἀπαιδευσία は単に原理の役割への馴染みのなさに関わるのではなく,むしろ論証を求めることに存するのだ.

ここまで述べれば,Nussbaum が「現れの救出」について述べたことが,彼女自身が正しく指摘する Owen 説の問題と関係がないことが分かる.どうして ἔνδοξα から始める必要があるのか.どうして φαινόμενα を立てるべきなのか.いかにして知識と迷信を区別すべきなのか.問題は実在の領域の画定などではなく,真理 (と認められるもの) の規定である1

Irwin は Nussbaum とは大きく二点で異なる.第一に彼はアリストテレスの知識論を基礎付け主義的とみなしている.第二に Nussbaum と違って形而上学的 (したがって外在的) 実在論アリストテレスに帰する.この点は (反実在論の存在を認めているとしない限りで) Irwin のほうが正しいだろう.

第一の点は,アリストテレスの知識論が正当化の条件を言う認識論だという前提に依存している2.これに対し Burnyeat の "Understanding Knowledge" はアリストテレスが知識論ではなく理解の理論を提示しているのだと論じる.APo. の主題が理解なのはその通り.しかし雷を理解するとは雷が何かを知ることであり,何かの ἐπιστήμη を持つとはその原因・理由を知ることなのだ.つまりそうした条件のもとで私たちはそれを知るのだ.ここに理解と知識の本当の区別はない.ゆえにある種の知識論があると言っても問題はない.

しかし APo. は知識が基礎づけられる枠組みを提示しているのだろうか.Irwin によれば,している.基礎とは直観であり,それは ἐπιστήμη でないとしても ἐπιστήμη 的なものである.実際 ἐπιστήμη ではない: cf. EN VI.6, 11.νοῦς についてはそれが成り立つことしか分からない.その意味では「直観」と言える.

しかしそれは基礎付け主義的な意味での基礎にはならない.Irwin は「我々によく知られるものから本性上よく知られるものへ」(184a18) を原理から ἐπιστήμη の対象への移行と誤って同一視している3.それどころか,これを更に νοῦς から ἐπιστήμη への移行と同一視している.――むしろアリストテレスの念頭にあったのは,我々に明らかだと思われる (seems) ことから実際に明らかなこと (真正の知識を構成するもの) への移行のようなものではないかと思われる.しかしその真正の知識が ἐπιστήμη なら,やはり再び直観を必要とする.

私たちは第一原理にどうやって達するのか.アリストテレスの答えは,帰納によって,である.しかし Irwin は Owen とともに帰納を問答法の一部と捉え,直観を問答法の (心理的) 結果と捉える.

ここで Nussbaum が論じたのと同じ問題が出てくる.どうやって ἔνδοξα から真理の直観に至るのか.これに応じて Irwin は強い/弱い問答法を区別する.強い問答法は無矛盾律論を典型とする.この議論は懐疑論者が否定することを前提しているような議論であり,確実な前提から妥当な結論に至るという通常の基礎付け主義パターンからは乖離sている.しかし Irwin はこの議論を無矛盾律の他の部分に拡張し,さらに魂論と倫理学に応用する.

しかし第一に,強い/弱い問答法なる区別をアリストテレスに帰することの妥当性は全く自明ではない (無矛盾律は確かに特異だが).第二に,科学の基礎は畢竟弱い問答法に存することになる.また直観の獲得には弱い問答法は,ないしはどんな問答法も,無関係である (心理的有用性しかない).ゆえに方法論としては不十分である.

ここまで見てきた諸見解は科学論を真理探究論とみなしている.そして科学と問答法が近いなら,問答法にも似たことが当てはまる.

しかし大事なのは真理ではなく真理の受け入れなのだ.Barnes (1969) は APo. が知識の教示の説明だと論じたが,それは必ずしも正しくない.しかし教示は知識の受け入れの一つの方式ではある.何かを受け入れさせるためには,それがそうであることを論証するのがよい.だが論証はどこかから始めないといけない.この原理は絶対的ではなく問いに相対的である.それを受け入れさせるには様々な考慮 (ἔνδοξα) が必要である.理論全体を受け入れさせるには関連する ἔνδοξα 全体の調査を要する.そして実際それこそアリストテレスがやっていることだ.しかしそれらは証拠として提示されるわけではない.

アリストテレス的な科学・問答法を理解するには,単なる真理の探究という皮相な現代科学像を取り払う必要がある.真理は同時にそれとして科学共同体に認められねばならない.「何ゆえに?」,したがって ἀρχαί は (対話の場合は) 対話者に相対的であり,ゆえに ἔνδοξα がコンテクストをなすのだ.

要するにアリストテレスにとって問答法とは同意しうることから洞察 (νοῦς) を得ようとする試みである.しかし真理そのものの探究の一部ではない.得られるものは高々「我々にとってより知られるもの」である.しかしそこから導かれる説明が「何ゆえに」を示しているように見えるなら,そのとき「本性上より知られるもの」に達したと言える.少なくとも,それが望みなのである.

Crisp (1991)

「ἔνδοξα は真理の証拠ではない」(474) というのは EN については誤りである.問答法の目的は「勝利かつ真理の探究」なのである.そして,倫理学でそうなら,他でもそうだと推定できる.νοῦς 論とは単純に不整合なのではないか.


  1. この指摘は鋭い.

  2. Cf. Irwin 1988, ch.6, n.24.

  3. 流石にそんなことはないのでは.