論駁的論証 Lear (1980) Aristotle's Logical Theory, Chap.6

  • Jonathan Lear (1980) Aristotle's Logical Theory. Cambridge University Press.
    • Chap.6. Proof by refutation. 98-114.

明晰ですばらしい.


一方でアリストテレスは原理について直接的証明を与えることを禁じている.他方で LNC を拒否する人がいる.Γ3-4 はこのジレンマの解消を試みており,その議論は基本的論理法則の正当化の本性に洞察を与えている.しかし,LNC より基本的で LNC の正当化に用いうるものなどないように思われる.

Γ3 では「誰も PNC が偽だと信じえない」という強い主張を行う.P が「最も強固である」条件は,(1) P に関して錯誤がありえないこと,(2) P は何かを理解している人が理解している.そして無矛盾律はこれらの条件を満たす (1005b19-34).この議論は無矛盾律自体ではなく,無矛盾律を信じないことの不可能性を述べるものである.

この議論は問題含みである.第一に,Kirwan は「メネラオスはスパルタの王だがラケダイモンの王ではない」のような 'veiled contradictons' を例に挙げる.しかし,この指摘は公平でない.矛盾であると分かっている2つの言明についての自己意識上の (self-conscious) 信念の可能性だけが問題にされているからだ.

第二の異論は,議論が LNC を前提 (assume) しているというものだ.––だが「前提」は両義的である.議論は LNC を前提命題 (premiss) としてはいない1.そして単に無矛盾律を用いる (works by means of) というだけなら問題はない.むしろ最も強固であることは真であることを必要とする.

LNC と LEM を「共通原理」と呼ぶ理由もここにある.これらは前提ではなく推論的実践の成文化である.実際 APo. I.11 では LNC が前提に登場する場合は限られるとする.LEM も同様である: 帰謬法にしか用いられず,帰謬法でも前提命題としては用いられない (ch.3).「最小限の推論規則 + それなりの数の公理」というフレーゲ的体系とは趣を異にするのだ.

とはいえ,LNC の基本的論理的原理としての地位の正当化に関する問題は残る.LNC を認めない人はこれも認めないだろうからだ.そして彼らは,彼らが信念と称するもの (alleged belief) を,強固さの否定の証拠とするかもしれない.

アリストテレスは,応答が直接的証明以外のものであるべきだと論じる (Γ4, 1006a5-32).必要なのは証明することではなく,否定しているように見える人に応答することである.直接的証明は論点先取にならざるを得ないかもしれない (e.g.,「君は Fa を受け入れている.すると,\lnot Fa ではない.ゆえに,Fa\land\lnot Fa ではない」).

論敵による LNC の否定は LNC に密かに依拠している.何かを言う可能性が LNC の固守に依存するからだ.何も言わない人と論じ合っても意味はない (Γ4, 1006a15).しかし論敵は理屈によって LNC に反論を加えているのだ (a26).

何かを言うためには,自分自身と他人に「何かを意味表示する」必要がある (a21-22).そのためには LNC が必要だ.––この議論の背後には,次のような意味論がある.文 (の範例) は,述語を主語について肯定/否定する文である (Int.).ゆえに主語の意味論的役割 (の一部) は,肯定/否定がなされる主項を選り出す・指示することである.そしてそれは,実体を指示することである.実際「全ての実体は或るこれを指示する」(Cat.).「ソクラテス」は特定のものを意味表示する.「人間」のような自然種語はそうではないが,しかし「白い」とは違ってある意味で実体を意味表示しており,少なくとも部分的には個々の人々を指示することで意味表示している.この主題は APo. I.22 で追求されている:「白いものが人間である」は付帯的にしか述定していない.真正の述定は,主項が何であるか (e.g., 人間は動物である),または如何なる性質を持つか (e.g., 人間は白い) を言うものである.実体の意味表示はその本質に訴えるのだ (APo. 83a24-35).

さて,主語は肯定/否定がなされる実体を意味表示する必要がある2.名前が一つのものを意味表示するとは,単に指示する以上のことである.「人間」が意味表示するなら,各々の人間は,人間がそれであるところのものである (Γ4, 1006a28-34).

実際またアリストテレスは「意味表示する」と「それについて意味表示する」を区別している (b13-22).後者は「真に述定できる」というほどの意味である (Kirwan, 96).「人間」「教養ある」「白い」は同じものについて意味表示するが,同じものを意味表示するとすると同名同義的になり,万物が一つになってしまう.

そして,「人間」が二足の動物を意味表示するなら,人間である全てのものは二足の動物である.ゆえに,ある人間について,二足の動物でないと言うことはできない.ゆえに,人間でないと言うこともできない.

この議論はアリストテレスの実体論を受け入れなければ説得力を持たない.対偶を取ってアリストテレスが論じるには,LNC を拒否する人は実体を破棄しており (Γ4, 1007a20-27),ゆえに肯定や否定をそれについてなす主項が存在せず,言論が破棄される (a33-b1).

この議論に対する深刻な異論の一つは,この議論は特定の意味論的描像を前提してしまっている,というものだ: 言明は主述形式からなり,〈述語が主語に当てはまる iff. 言明が真である〉.主項と属性からなる古典的モデルであり,古典論理の具現化である.だが,LNC を否定する者がこの描像を受け入れる必要はあるのだろうか? LEM に関する議論を比較するとよい (Γ7).「白い」と「白くない」の中間をアリストテレスは認めないが,そうすると vagueness をどう説明するのかという異論を出しうる.LNC の場合,論敵の異論はそれほど説得力あるものにはならないかもしれない.しかしアリストテレスはそもそも異論の可能性自体を封じてしまっている.アリストテレスが想定している論敵は,主項と属性の存在論に基づきつつ,LNC を否定している (1005b23).しかしより洗練された論敵もありうるのではないか.

この異論に対しては,次のように応えられる: 論駁的論証は意味論的文脈を超越した妥当な論点を提示している3.すなわち,言明は世界を分割する.何かを言明するとは,他の可能性を排除することである.p を主張してから引き続いて ¬p を主張することはできない.これこそ LNC の反対者が何も言えない究極的な理由である (1008a28-33).論敵は自分が述べていることを偽だと言わねばならないのだ.

しかし,それがなぜ問題なのか.論敵は自分が偽なることを述べていると快く認めた上で,しかし真でもあると述べるだけではないのか.論敵からすると,我々は妥当な推論の一部しか見えていない.また我々の側が論点先取を犯していると非難するかもしれない.

だが,アリストテレスの論駁的論証の眼目は,論敵の主張から誤謬の告白を引き出すことだけではない.論駁的論証は「論敵」ではなく読者 (ないしアカデメイアの人びと) のためのものであり,論敵の不整合が読者に明らかになればそれでよいのだ.これを達成するには,論敵に誤りを認めさせるだけでは十分でない.論駁的論証が示すのは,論敵が何かを言いうるなら,彼の主張的 (assertive)・推論的実践,および彼の一般的な振る舞いが,LNC に従っていなければならないということだ4.仮に論敵の主張が混乱していても,彼の振る舞いは彼の実際の信念を明らかにする (1008b12-17).また仮に「植物」であったとしても,LNC の真の論敵とは言えない.いかなる信念も帰属できないからだ.LNC の否定を合理的に論じうる概念的空間は存在しない.論敵は自分の言っていることを偽だと認めるかもしれないが,しかし論駁の後には,彼の立場はもはや魅力あるものではなくなっているのである.


  1. この理解はテクストに沿うだろうか.

  2. 原注15:「山羊鹿」が問題にならない所以である.「山羊鹿」は意味表示するにせよ「何であるか」は知り得ず (APo. II.7, 92b4-8),真正の主語ではありえない.非存在者なので真/偽でありうる文の主項の位置には来ないのである.

  3. これがなぜ「超越している」と言えるのか不明.

  4. 原注25 にダメット批判: suasive/explanatory argument の区別は誤りであり,ここの議論は suasive でなければならない.(ちょっと難しい.ダメットの論文を含め再確認が必要.)