「断片」を引用元の文脈から切り離して扱うべきではない Osborne (1987) Rethinking EGP, Intro.

  • Catherine Osborne (1987) Rethinking Early Greek Philosophy. Cornell University Press.
    • Introduction. 1-35.

A. 方法論的問題

ソクラテス以前の哲学者 (PS) の断片をどう扱うべきか,は従来問われてこなかった.本書はこの問題を提起する.

(i) 伝統的アプローチ

従来,後代の著者の引用から「断片」が取り出され,収集されて,研究の基礎となってきた.他の情報は歪曲のもととしてなるべく無視されてきた (e.g., KRS, Barnes 1979, Kahn 1979).

(ii) 断片とは何か

だが,「断片は後代の解釈と違ってバイアスを被っていない」という前提は誤りである.

  • 後代の著者による引用箇所の選択は特定の関心に基づく.
  • 逆に,引用の不在や引用者の解釈から PS の教説について推論することも正当でありうる.
  • どれが「真正な断片」かを問うより,引用の文脈を見たほうがいい場合がある.
    • 例えば Heraclitus B76〔LM R54〕.DK は3つのヴァージョンを提示する:
      • "ζῆι πῦρ τὸν γῆς θάνατον καὶ ἀὴρ ζῆι τὸν πυρὸς θάνατον, ὕδωρ ζῆι τὸν ἀέρος θάνατον, γῆ τὸν ὕδατος." (Maxim. Tyr. 41.4 p.4811)
      • "πυρὸς θάνατος ἀέρι γένεσις, καὶ ἀέρος θάνατος ὕδατι γένεσις." (Plut. de E 18. 392c.) ὕδωρ ζῆι τὸν ἀέρος θάνατον, γῆ τὸν ὕδατος" (Plut. de E 18. 392c)
      • "ὅτι γῆς θάνατος ὕδωρ γένεσθαι καὶ ὕδατος θάνατος ἀέρα γενέσθαι καὶ ἀέρος πῦρ καὶ ἔμπαλιν." (Marc. 4.46)
        • B36: "ψυχῆισιν θάνατος ὕδωρ γενέσθαι, ὕδατι δὲ θάνατος γῆν γενέσθαι, ἐκ γῆς δὲ ὕδωρ γίνεται, ἐξ ὕδατος δὲ ψυχή." (Clem. Strom. 6.17.2)
    • クレメンスが B36 を引くのは,ギリシャ人のなかで着想の借用があったことを例示するためである.彼はこの一節を,オルフェウスに彼が帰属する韻文になぞらえる.クレメンスの引用が正確かはさておき,ψυχή を読むべきだと考えていたのは確かだ.また B76 の引用者たちも,人生の変転・偶然との関係でこれを引く.
    • したがって,テクストがそもそも "cosmological processes" に関わるものかどうか,むしろ人間の生と不死に関わるのではないかと考えてみる余地がある.

伝統的アプローチは,「一番重要な断片が残されているはずだ」(Barnes 1979) という前提に基づいている.だが,これにも根拠はない.

(iii) バイアスのかかった読みにどんな使いでがあるのか

仮に正確に元の字句が分かっていても,文脈が分からなければ意味を取れない.古代の解釈者が提供している新たな文脈は,そこから元の文脈を復元できずとも有用である.むしろ使わないと解釈に新たな恣意性が生じる.

(iv) 埋め込まれたテクストを研究することの利得

古代の PS 解釈は私たちの解釈の叩き台になる.もちろん,引用者が無理な読み方をしていることもある (例: ヒッポリュトスによる Heraclitus B63 の読み; cf. ch.5).それでも,なぜそう読めてしまったのかがわかれば,テクストの生産的本性や,他の文脈でどう機能しうるかを知る手がかりになる.

このアプローチは,現存断片が僅少であれば必須となる.だがパルメニデスやエンペドクレスのように相当量が残っていても有用である (「思われの道」があまり残っていないのはプラトン-アリストテレス-シンプリキオスが「真理の道」のほうに関心を向けていたからだ).

(v) 或る異端的アプローチ

本書では新たなアプローチを提唱する.ヒッポリュトス『全異端論駁』を通じたヘラクレイトス・エンペドクレス解釈を行い,その結果によってこのアプローチは正当化される.第一部では若干のテストケースを提示して伝統的アプローチを批判し,第二部では新たなアプローチを実行する.

(vi) ヒッポリュトス『全異端論駁』

Hipp. Haer. は従来,先入観に塗れたテクストとして信頼性が疑われ,もっぱら資料の機械的転写 (mindless copying) だけが評価されてきた.

だが,よく検討すると,彼の手続きはなんら機械的ではないことがわかる.かつ,彼がもつ宗教的観念や伝統的価値への関心は,アリストテレス的な PS 解釈がもつ自然哲学への偏倚を相殺する.

(vii) ヒッポリュトスの戦略

Haer. は異端者の考えが異教哲学者・科学者に比しうるものであることを論証する.1-4 巻は異教思想の予備的サーヴェイであり 5-9 巻で異端者との比較がなされる.10 巻では両種教説の不十分な要約がなされ,真なるキリスト教説についての主張で締めくくられる.

Haer. の議論を以下のような 'reductio ad haeresim' (Stead) と見なすのは性急に過ぎる:

  1. ギリシャ哲学は真理に反する.
  2. 異端者はギリシャ哲学の発想を繰り返している.
  3. ゆえに異端説は真理に反する.

ヒッポリュトスは 1 を論証していない.それどころか,時おりギリシャ人を褒めさえする.むしろ実際は――グノーシス主義批判を主眼に置いて――次のような議論をしていると理解できる (cf. 5.6.2; 5.7.1; 6.21.3; 7.29.2; 8.17.1-2; 9.8).

  1. 異端者たちは新たな神的知恵を主張している.
  2. 彼らが説いていることはギリシャ哲学と同じである.
  3. ギリシャ哲学は時代遅れの人間的知恵である.
  4. したがって,異端説は新しくも神的でもなく,彼らの主張はいんちきである.

(viii) 『論駁』における「彼は言っている」の用法

Haer. の特徴は報告に 'φησίν' がよく挟まることだ.この言葉が導入するのは引用か解釈か,が問題になる.Frickel (1968) は Apophasis Megale に関する 6.9-18 の議論のなかでこの問題を提起している.ただし Frickel は直接話法と間接話法を区別しない憾みがある.別の例を見ると,アリストテレスに関する直接話法の φησίν は,正確な引用の場合と (7.18.5),術語法や解釈は適当だが語順が異なる場合 (7.19.6-7) がある.またペラタイ (Peratae, 常に pl.) に関する 5.12.5-7, 5.16.1-16 で φησίν/λέγει は一貫して単数形で使われている.

B. 道を準備する

本書第一部の目的は,PS について何かを言う前に直面すべき問題の提示,および特にヒッポリュトスの場合における問題の性質の発見である.

伝統的アプローチの問題は,ヒッポリュトスのアリストテレス解釈を検討するとわかる (元のテクストが十分に残っている唯一の例).彼が引くアリストテレスの「断片」をかき集めても無意味であり,ヒッポリュトスの論評によって元の意味が推測できる.論評からわかるのは,ヒッポリュトスは機械的な引用者などではないこと,自らの目的に沿って豊富な資料から選別・配列しており,決して貧弱で混乱した資料に依拠してはいないこと (contra Diels).もっとも領域によって理解度に差があり,例えば天体論などはよくわからないまま無批判に引用していることもある.

PS に関するヒッポリュトスの資料を用いるには,ヒッポリュトスによるテクスト選択・解釈の方法を熟知している必要がある.

C. エンペドクレスとヘラクレイトス: 断片的テクストの諸問題

ヘラクレイトスの「断片」の配列方式が解釈に深く影響することは夙に知られている.Kahn や Marcovich などの近年の解釈者は Diels の配列を批判して各々の配列を提示するが,引用の文脈をシャッフルすることで却ってさらにヘラクレイトスを断片化している.特に Kahn は引用の文脈の軽視が著しい.

エンペドクレスに関しても類似の問題がある.従来のほぼ全ての解釈が『自然について』と『カタルモイ』の二作の存在を仮定するが,この仮定を支持する古代の根拠はほとんどない.DL だけがこの二つの標題を挙げるが,DL も完全な著作を実見してはいないと推測される.『自然について』はエンペドクレス自身の標題とは思われない.ゆえに『カタルモイ』という単一の著作を著したとするのが尤もらしい.

二つの異なる詩を書いたという想定にはもう二つ問題がある.一つは主題と呼びかけ先の問題である.科学/宗教という19世紀的区別に基づいて両作を区別するなら,『カタルモイ』には三つの断片しか明示的に帰属できない.呼びかけ先が異なるという DL に基づく論拠も単一著作説を覆しはしない.もう一つは Suda が『カタルモイ』に言及していないこと (と著作の長さ) に関する DL との食い違い.これも単一著作説から説明がつく.

さらに,B115 におけるプルタルコスの引用の仕方も単一著作説を支持する.古代の解釈者はエンペドクレスの思想に区分を見なかったのである.

第二部はヒッポリュトスのヘラクレイトス・エンペドクレス解釈を探求し,彼の解釈の方向を推し進めて,伝統的アプローチの解釈上の困難を解決する.


  1. なぜか DK と若干ずれている.なぜか・どちらが正しいかは未確認.