抑圧と封殺 Cappelen and Dever (2019) Bad Language, Ch.10

  • Herman Cappelen and Joch Dever (2019) Bad Language, OUP.
    • Chap.10. Linguistic Oppressing and Linguistic Silencing. 160-180.

私たちは言語から遠距離で何かをする信頼できるメカニズムを得られる: ローマを訪れるのは難しくても,ローマについて何かを言うのは簡単である.これは強みではあるが,その分悪いこともしやすくなる.

本章では抑圧 (oppressing) と封殺 (silencing) を扱う.どちらとも非言語的方式と言語的方式がある.言語的方式は暴力性が少ないかもしれないが,より直接的に抑圧者・封殺者の制御下にあり,それゆえ抵抗しにくい.

10.1 言語行為の簡単な入門

教室内で考慮すべき言語行為は主張 (asserting) と質問 (questioning) の二つだけだ.だが教室外では他にもある.「君はこの部屋を出ることはない」(You'll never leave this room) という文によってできることを考えよう:

  • 聞き手の未来の位置に関する単なる主張 (assertion).
  • 聞き手の動きを邪魔する意図を示す脅迫 (threat).
  • (高所恐怖症の) 聞き手を屋内にとどめておくという約束 (promise).
  • (警備員の) 聞き手をどこに配置するかの計画 (plan).

言葉の社会的・政治的効果に関心がある場合,主張以外の言語行為が重要になる.

言語行為理論は三つのことを区別する.例えばアレックスが,トロントの母親を訪ねるか迷っているベスに「私が空港まで送っていくよ」と発話すると,以下が遂行される.

  1. 発話行為 (the locutionary act): 「アレックスがベスを空港まで送る」という情報を伝える (: saying something).
  2. 発話内行為 (the illocutionary act): アレックスはただ予想しているわけではなく,発話において約束をしている (: doing something in saying that thing).
  3. 発話媒介行為 (the perlocutionary act): この約束には,トロントの母親を訪ねるよう説得するという効果がある (: doing something by saying that thing).

各々には話し手の制御を弱める要素がある:

  1. 発話行為を話し手は完全に制御できるわけではない.言葉の意味を完全に自由にできるわけではないからだ.
  2. 発話内行為の制御はより弱い.典型的には適切な社会的場面設定 (social setting) を要するからだ (例: 結婚成立の宣言).またある発話内行為をしたくないというだけでは,それを避けるのに十分ではない (例: 約束).
  3. 発話媒介行為の制御はさらに弱い.(例: アレックスがベスを説得できるかは,かなりの程度ベス次第である).

教室でアレックスが「ベン・ネビスはスコットランド一高い山だ」と言う場合,(i) 発話行為は当の内容の表出,発話内行為は共有基盤のアップデート,発話媒介行為はベスの信念のアップデートである−−あるいは,(ii) 発話内行為は共有基盤のアップデートの提案,発話媒介行為は共有基盤のアップデートの成功である.((i) と (ii) の違いは共有基盤の位置づけの違いである.)

言語行為の類型について考えるときは,たいてい発話内行為で特徴づける.約束の発話行為・発話媒介行為は異なるが,発話内行為は同一である.脅迫も同様.

10.2 言語的抑圧

言語の抑圧的使用の多くは発話媒介効果を通じてなされる (例: 王が「増税せよ」と言うと,農民が (さらに) 抑圧されるという発話媒介効果がある).

だが,抑圧はときに発話内行為である,と言われている.McGowan 2009 の例: レストランのオーナーが「今後,非白人の客に応対した従業員はクビだ」と言う場合.この例は二段階に分かれる: この発話は第一に非白人が応対を受けるのを容認不可能にし,第二にそれによって実際に非白人が応対されなくなる.そして,前者は発話内効果,後者は発話媒介効果である.非白人への応対がなくなるには従業員の協力が必要だが,発話は直接に応対を容認不可能にしている.

これに関して三つの問いを考察しよう.

  1. この発話内抑圧は本当に抑圧なのか; 発話内での容認可能性の変化を抑圧と呼ぶべきなのか.−−なるほど,ここで発話媒介的な抑圧は発話内の抑圧より悪いかもしれない.しかしだからといって,発話内の抑圧を抑圧と見なさない理由にはならない.第一に,私たちは何が許容されているのか自体を気にする場合もある.また第二に,許可に関する事実には (応対の変化以外にも) 実践的帰結がある.
  2. 許可の変化は本当に発話内行為なのか; 仮にオーナーの言うことを全員が無視したら,それは許可の変化ではないのではないか.−−薄い (thin) 許可・禁止と厚い (thick) 許可・禁止を区別する必要がある.前者は会話上の文脈の変化だが,後者はその変化を他の参加者に認めさせることを含む.したがって,ここで発話内の抑圧があるかどうかを考える際には,許可の薄い変化が抑圧的かどうかに注意する必要がある.
  3. そもそも発話内か発話媒介的かを決めることは重要なのか.−−重要でありうる理由は,一つには表現の自由 (freedom of speech) についての考え方との関係にある.何かを法的に禁じるとき,悪い結果とそれを導く発話とを区別する必要がある.アレックスが殺し屋に「ベスを殺すのに1000ドル払おう」と言うとき,この発話によって彼女はベスを殺そうとしている.だが,禁じられるべきは殺し屋を雇うことであり,何かを言うこと自体ではない.雇うことは言うこととは別のことであり,別途規制可能である1.だが,発話内行為は (特定の文脈下で) 話すことの自動的帰結なので,分離できない.したがってこの場合には,表現の自由の制限が合理的かもしれない.

10.3 ポルノグラフィによる言語的抑圧

抑圧的発話内行為にはあからさまなものもあるが (B&B の窓に「アイルランド人お断り」とある場合など),そうでないものもある.特に興味深いのはポルノグラフィである.幾人かの論者は,ポルノグラフィが女性を発話内的に抑圧していると論じる.

ポルノグラフィには女性の権利と自由の侵害に結びつく因果的帰結があるかもしれない.これがあるかどうかは経験的・社会学的問いである.それとは別に,発話内説によれば,ポルノグラフィは何かを述べており,それを述べること自体が抑圧的なのである.

したがって,二つの問いに答えなければならない.(i) ポルノグラフィは何を述べているのか.(ii) それを述べることがどうして抑圧になるのか.

Langton and West (1999) によれば,ポルノグラフィには「喜ばれる」レイプの描写がある場合がある.それらにおいては,「女性はレイプと従属を望んでおり,男性の性的満足のためのモノである」等々のことが,明言されてはいないにせよ,描写において前提されている.

「前提」には広狭両義ある: 狭義には言語的前提があるが ('regret' など),広義には,例えば『指輪物語』ではホビット庄からモルドールへの航空便がないことが前提されている,と言うことができる.後者は言語的前提ではない: トリガーがなく,また内容を否定したときに前提が残るとは言えない.

ポルノグラフィの前提はむしろ広義のものに思われる.したがって第一に,それは述べられている (said) わけではなく,第二に,それが信じられている (believed) 必要もない.それゆえ,「女性を性的なモノとして扱うことが容認される」という前提は,物語内のものであり,現実の特徴としての前提ではない.もちろん鑑賞者が混乱することはありうるが,その混乱は直接的な発話内効果ではない.

問い (ii) に移ろう.かりにポルノグラフィが「女性を性的なモノとして扱うことが容認される」と述べているものとしよう.そのことは抑圧を構成するだろうか.先ほどの人種差別主義者のオーナーの例に鑑みれば,発話内で許可を変更している点で抑圧的に思われる.

だが,「許可を変更する」(changing permissions) の内実をよく考える必要がある.許容可能性には色々な意味があるが (法的,道徳的,規則上),ポルノグラフィが制御しうる許容可能性で,抑圧につながるものはあるだろうか.

  • ポルノグラフィは道徳的・法的許容可能性は変更できない.
  • フィクションにおける許容可能性は変えうるが,それが抑圧につながるかは定かでない.
  • 文化的許容可能性は一番有望な候補だが,ポルノグラフィに文化的規則を変える権威があるかは不明瞭だ.なぜなら,文化的規則の地位が不明瞭だからだ.ポルノグラフィは一つのメディアである以上,一市民よりは文化的規範を動かす力が強いかもしれないが,発話内的にそうする能力があるかは定かでない.

念を押しておくと,以上はポルノグラフィが人々の振る舞いに悪影響を及ぼすことを否定するものではない.そうした変化を言語行為が構成するものではないというに過ぎない.このことが発話の因果的帰結を問う上で重要かどうかは分からないが,少なくとも言語に特化した理論構築の限界について考える上では重要である.

10.4 封殺

もう一つの悪い言語行為は,封殺だ.封殺にはいろいろな種類があるが,そのうちには発話の言語的本性によって封殺する場合−−封殺が発話内行為であるような場合−−があると言われる.

例: アレックスは込み入った手口でベスを殺そうとしている.アレックスは演劇の監督,ベスは役者である.リハーサルは「始め」の合図で始まり,「止め」で終わると取り決めてあるが,それは劇に役者の即興パートがあるためである.さて,アレックスはベスに毒を盛る.ベスは「毒を盛られた,医者を」と言うが,その前にベスは「始め」と言い,アレックスの主張 (assertion) を妨げる.

要するに,主張を行うための社会的必要条件があるのだ.例えば,主張された情報を受け入れる社会的準備ができていること,がそれである.(別の説明も可能である: 主張とは特定の意図を持って述べることでしかない.このとき,アレックスは主張したが,人々がそれに気づかなかったことになる).

問題は,ベスの死がどの程度狭義に言語的なのかである.そこで,封殺されること (言語行為の遂行を妨害されること) と無視されること (ignored; 言語行為を遂行するが,望む仕方で取り上げられないこと) を区別したい.アレックスは代わりに,ベスが誇大妄想の心気症患者だと言いふらすこともできる.その場合,ベスが述べることは主張として受け取られるが,否認される.この無視はアレックスの語りの発話媒介的帰結であって構成的特徴ではない.

発話内的な封殺が実際に起きることは理解に難くない.例: アレックスが「チャールズが夕食に来てるよ」と言い,「彼はワインを一本持ってくるところだ」と続けようとする.だがその前にベスが「ダニエルも呼ぶべきだよ」と言うと,これはアレックスの二の句を妨げている (そのまま続けると「彼」の指示内容が変わるから).

もちろんこの例は無害だが (別の言い換えが効くから),同じ方式で深刻な例を見つけることもできる.アレックス「恐怖症を利用するのは拷問だ」と言いたいにも拘らず,会話上の交渉を通じて「拷問」の意味を変えられた場合,「拷問」という言葉の微妙な意味合いに依拠できなくなることで,言いたいことが言えなくなるかもしれない.かつ「拷問」の語彙効果を使えなくなるということも起こりうる.

一般に,言語の可変性を認めるほど,封殺の方法も様々にあると考えることになるだろう.重要な社会的意味を持つ語はとりわけ言語的交渉の焦点になりやすく,社会的権力の違いが交渉への影響力の違いとなるとすれば,言語行為として悪質な封殺が可能になることになろう.

ポルノグラフィは,抑圧に加え,封殺の言語行為を遂行しているとも論じられてきた: ポルノグラフィから得た信念によって,「セックスしたくない」といった女性の発話が本当の主張と見なされなくなる可能性がある.

以前の場合と同様,ここに因果的帰結があるとしても,それが発話内的な封殺なのかが問題になる.Langton and West は,ポルノ業界を告発するリンダ・ラヴレースの自叙伝 Ordeal がポルノグラフィとして売り出された例などをもとに論じているが,それらも封殺ではなく無視の例であるように思われる.


  1. これは約束なので,発話とその結果が区別可能な例としては良くないように思う.