ばらばらの聞き手と話し手.ウェブ上の言語行為 Cappelen and Dever (2019) Bad Language, Ch.9
- Herman Cappelen and Joch Dever (2019) Bad Language, OUP.
- Chap.9. Non-Ideal Speech Acts. 144-159.
9.1 序論
教室と教室外とでは私たちの言語行為は変わってくる: 話し手と聞き手は時空的に離れることがあり,また主張以外にも様々な言語行為を行うことになる.また多数の人々に一度に話す場合にも扱いがややこしくなる.
9.2 散在している聞き手
文脈感受的な (context-sensitive) 言葉が多くの人に向けられる場合,正しい文脈の特定が難しくなる.例えば,アレックスがベスとチャールズの両方に 'You are in Scotland' と言う場合,'you' はベスとチャールズという聞き手を指すと言える.だが,司令官が100人に対して 'The mission you're about to undertake is extremely dangerous. It's possible that, two hours from now, you will be the sole survivor of this group' と言う場合,むしろメンバーの各々に別のことを述べている.
同様に,時間に関して異なる文脈から評価される場合も考えられる (爆発するクリプトン星から他の星々に「避難しろ,今なら間に合う」といったメッセージが発せられ,別々の時間に受け取られる場合).
したがって,聞き手が数多く散在している場合,話し手が自分の述べていることが何かを知っているとは限らない.何を述べているかが文脈によって形作られ,文脈は部分的には聞き手によって固定されることがあるからだ.文脈感受的な言葉には色々ある.例えば,文「アレックスには十分な量のチーズがある」は文脈感受的である (何に十分なのかが変わりうる).また曖昧な (vague) 語も文脈感受的である (どこまでを「赤」に含めるかなど).
発話が言語的に複雑で聞き手が非常に散らばっている場合,問題は喫緊のものとなる.修正二条を考えよ: "A well regulated militia being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear arms shall not be infringed." この文は曖昧ないし文脈感受的表現に満ちており,かつ聞き手は開かれている.これの理解の仕方は重要な社会的・政治的帰結を持つ.原意主義 (originalism) によれば,修正二条の意味は起草者の意思により完全に確定される.だが,散在している聞き手についての上記の考察からは,単純な原意主義はテクスト解釈に必要ないくつかの問いを見逃していることが分かる.著者が誰でその周りの状況がどうかだけでなく,私たちが誰で私たちの周りの状況がどうかも問われねばならないのだ.
9.3 散在している話し手
話し手も多数かつ散在する場合がある.話し手が多数になると伝達意図概念に負荷がかかる.集合的言語行為において,理想的には,全ての話し手が同一の伝達意図を持つ.この場合は単純に集団的・集合的意図 (group or collective intention) に訴えることができる.Bratman によれば:
- 私たちが J することを意図する iff.
- (a) 私は私たちが J することを意図し,(b) あなたたち (you) は私たちが J することを意図する.
- 私は私たちが J することを意図するが,それは 1a, 1b および 1a, 1b の互いにかみ合った部分計画 (meshing subplans) に即しており (in accordance with),かつそれらを理由としている (because of).あなたたちは私たちが J することを意図するが,それは 1a, 1b および 1a, 1b の互いにかみ合った部分計画に即しており,かつそれらを理由としている.
- 1 と 2 は私たちの間の共有知識である.
だが現実には全員が一致団結しているとは限らない.1914年に米国議会が FTC 法を通したとき,法案の賛否や条文の理解については意見がまちまちだった.したがって,集団的意図を持っていなかったことは明らかである.ではテクストはどう理解すべきなのだろうか.選択肢は三つある:
- テクストは上院議員たちの様々な意図に応じて多くの意味を持つのかもしれない.ただその場合,法律としてはどうなるのか (どんな法的義務が生じるのか) が問題になる.
- テクストは著者の側の意味 (authorial meaning) を持たないかもしれない.その場合,私たちは聞き手の側の意味に依拠する必要があり,それゆえ法律の意味は (おそらく) 裁判所が「聞き取る」意味になるだろう.
- あるいは,集団的意図についてよりよい理論があるのかもしれない.上記の定義は還元的だが,個人の意図に還元しない集団的意図の理論を与えることもできるかもしれない.実際そうすべき別の動機もある: アップルがサムスンのシェアを奪おうと意図するために,その意図をアップル社の誰かが持っている必要は必ずしもない.
集団的意図がたんなる個々人が共有する意図でないとすると,では何なのか,に答えるのは非常に困難だ.ただ言えるのは,集団的意図は (個人の伝達意図以上に) 曖昧になりがちだ,ということだ.例えば,議会の討論で FTC のテクストは 'unfair competition' から 'unfair methods of competition' に変わったが,それに十分明確な意図があるわけではなさそうだ.むしろ,法案通過の鍵を握る議員が,前者ではやや語気が強すぎると考えたのだ.これは個々人の伝達意図ではなく,議会に何かをさせるというプラグマティックなもくろみに由来する.
こうしたことから分かるのは,曖昧さがコミュニケーション上の重要な役割を果たしているということだ.聞き手が文脈を与える必要がある場合があること,および話し手自身が伝達したいことを正確には把握していないことからして,話し手が意図的に曖昧な (deliberately vague) シグナルを送るようなコミュニケーション戦略があることが分かる.時や状況が変化しても指示を与えられるような柔軟性をもつ規則を与えるうえで,これは有用な戦術でありうる.
また,誰が話しているのかが不明瞭な場合もある.地下鉄でアラブ人女性に白人男性が「帰れ,テロリスト,俺らはお前らみたいなのは要らないんだ」と言う場合,この「俺ら」に当てはまる人々は曖昧であり,その分だけ交渉の余地がある: アレックスが同じ地下鉄に乗っていれば,「あなたの「俺ら」に私を入れないでもらえますか」と言うことができる.このとき,アレックスの行動は二通りに理解できる:
- 元々の話し手の主張に対して反例を与えている.
- 元々の話し手の主張の内容を変えるか,あるいは改良している.
後者はアレックスの発言により忠実だが,元々の話し手の主張の内容をアレックスが制御できることを前提している.
「俺ら」のような語が入っていなくとも,誰が話しているのかが問題になる場合がある.アップルのスポークスパーソンが「来週水曜は iPhone が無料です」と発話する場合,これはアップルがそう述べていると言える.だがこれが実は越権行為で後にアップルが訂正したなら,そもそもアップルがそう述べていなかったことになる.これほど制度化されていない場面でも同様のことは起きうる: 空港のカウンターでフライトの遅れに集団で抗議し,だんだん一人の乗客 (ダニエル) が一人で話すようになる場合.他の乗客はダニエルの言うことに口を挟むこともできる; そうしない場合,そのことによってダニエルのスポークスパーソンとしての地位は強化される.同様に,先ほどの例で地下鉄での差別発言に居合わせた抗議しない場合,それは当の話し手による差別に加担することになるだろう.
9.4 デジタル時代の言語行為
オンラインでの会話では話し手はいよいよ散在している.いくつかの興味深い現象について述べておく.
- リツイートはコミュニケーション上の一群の込み入った役割を果たしている.リツイートはときには再度主張すること (reassert) であり,ときには元のツイートの内容を支持することであり,ときにはメタ主張 (誰かがなにかを言ったと言うこと) であり,ときにはただ元のツイートをした人の発言を推進することでありうる.
- フェイスブックの「いいね」にも色々な役割がある.さらに2016年には反応の種類が (👍♥😆😢😲😡に) 増えたことで,👍の意味も変容している.これらのアイコンでなされる言語行為は相対的に不特定なので,言語行為は高度に文脈感受的になりがちである.
- より一般に,ソーシャルメディアでは非言語コミュニケーションが台頭している (GIF 画像など).GIF の内容はいいねやリツイートと同様の不確定性があり,また情報伝達の役割より表出的役割の方が大きい (Drew Scanlon の GIF2 が不信を示すように).またセレブやマスメディアが入っている画像が GIF に使われがちなので,やはり言語の制御に関する懸念も出てくる.
- また bot をどの程度話し手と見なすべきかも問題になる.