アリストテレスの諸カテゴリーの系列構造 Fraser (2003) "Seriality and Demonstration"

  • Kyle Fraser (2003) "Seriality and Demonstration in Aristotle's Ontology" Oxford Studies in Ancient Philosophy 25, 131-158.
    • 1. Introduction
    • 2. Focality and seriality
    • 3. The serial structure of the Categories
    • 4. Apodeixis and ontology
    • Appendix: On the Neoplatonist 'Deduction' of the Categories

1. 序論

アリストテレス存在論的枠組みにおいて,非実体は実体に内在する存在者とされ,個々の非実体の定義は実体の名ないし定義を含む (例: 雄-動物の属性,色-表面の属性) (Z5, 1029b16-17; Θ1, 1045b31).つまり非実体は自体的・本質的に何らかの実体種への述定であり,派生的にのみ「本質」をもつ.

だが,Met. は実体/非実体の大まかな区別で満足してはいない.焦点的に実体と関連する各種非実体の〈ある〉も各々同名異義的である (Γ2).カテゴリーごとに固有の本質的存在の方式がある:

καὶ τὸ τί ἦν εἶναι ὁμοίως ὑπάρξει πρώτως μὲν καὶ ἁπλῶς τῇ οὐσίᾳ, εἶτα καὶ τοῖς ἄλλοις, ὥσπερ καὶ τὸ τί ἐστιν, οὐχ ἁπλῶς τί ἦν εἶναι ἀλλὰ ποιῷ ἢ ποσῷ τί ἦν εἶναι. (1040b29-32)

方式の内実は明記されないが,以下の点に鑑みれば,明確化は可能である: アリストテレスはときおり,カテゴリーは序列化可能だと示唆する.そして当の序列が焦点的構造と整合的だと考えているように見える.以下で見るように,実体はまず非実体全体に対して「焦点的」先行性をもち,そして非実体自体のなかに内在的な先行-後続関係がある.

ここから以下の説明が可能になる:

  • カテゴリーに序列があるなら,各カテゴリーの〈ある〉は基礎に置かれた実体との近接性に応じて異なることになる.
  • 内在の序列は論証的学知にとって中心的である.たとえば動物と雄性をつなぐ内在関係を明確化するとき,動物学者は τὸ ὅτι から τὸ διότι へと移行する (雄性は精液における熱の余剰から生じる).属性の完全な定義は単なる内在関係だけでなく理由 (中項) も示す.この移行は通常1ステップではなく一連の分析を伴う.

もしカテゴリーが内在の序列に即して構造化されているとすれば,存在論は構造面と方法面で論証的学知にいっそう近づくことになる.

2. 焦点性と直列性

同名同義性と同名異義性の中間である焦点性は,存在論のみならず論証的学知一般とも関連付けられているように思われる: 全学知は第一の類に依存する (ἤρτηται) 諸属性を探究するが,それら諸属性が同一の類に同名同義的に属するとは限らない (1003b15-19) (例: 動物-ジェンダー/感覚).

1005a5-11 では,学知の同一性を保証する,さらに別の包括様式が言及されている: 系列による (τῷ ἐφεξῆς, in virtue of succession) もの.

DA 414b20-415a3 によって,この直列的統一性 (serial unity) 概念は明確化されうる.そこでの例は〈三角形→四角形〉〈栄養的魂 → 感覚的魂〉である: 先行者が後続者の「本質」の条件であるが,両者が本質を共有しているわけではない.

EN 1.6, 1096a17-28 では,プラトニストがイデアのうちに先行/後続関係を見なかったことが「善」の非類的性格を把握しそこねた原因であると仄めかされている.しかし興味深いことに,1096b25-31 では直列性への言及はなく,もっぱら焦点性に言及されている.そこで,直列性と焦点性は本当に別物なのか,という問題が生じる.

  • 一方で,直列性には「A と C が B を通じて結ばれる」という媒介があるが,焦点的構造にはない,と論じてみることは可能だ.
  • しかし他方で,アリストテレスがカテゴリーの統一性を焦点的であると同時に直列的な構造と見なしていたのは疑いない.つまり両者は排他的でない.それどころか,直列性は焦点説をより洗練し明確化したものと見なすこともできる.

以下ではカテゴリー間の先行/後続関係に関するアリストテレス自身の問いを扱う.彼が直列構造を完全に明確化していたかは知る由もない.それどころか,例えば性質と量の関係についてはためらいが見られる.また関係については未解決の論理的困難がある.以下で目指すのは教条的な再構成ではなく,彼自身の実際の考えを引き出すことである.結論として,系列的構造を分節化しようとする傾向は見られる.

3. 『カテゴリー論』の直列構造

3.1 量と性質

プラトン主義的注解は Cat. の〈量→性質〉の 'τάξις' を擁護することに意を注いでいた.

量の優位の根拠は Z3, 1029a11-19 に見られる.ここでは ὕλη に達するため,まず πάθη καὶ ποιήματα καὶ δυνάμεις が取り除かれ (a12-13),次いで量的諸次元が取り除かれる (a14-15).後者は ᾧ ὑπάρχει ταῦτα πρώτῳ だとされ (a15-16),これらを取り除いてしまうと οὐδὲν ὁρῶμεν ὑπολειπόμενον である.

究極的な ὕλη は離在しないので,この存在論的先行関係 (ontological priority) は,存在論的依存性 (existential independence) とは異なる何かである (ふつうは同じである.Cf. Δ12, 1019a2-4).a15-16 では量は質料の固有性とされる.一般に基体の属性に対する優位は,存在論的先行性ではなく,本質ないし説明における先行性である.量の後続も同様に理解できる.

では,なぜ量は性質に先行するのか.延長する基体に内在するということが性質の「本質」の本質的特徴なのかもしれない (アレクサンドリアの注解伝統).

だが,量の先行は確立しているわけではない.他の箇所ではアリストテレスはむしろ量を先に挙げることが多い.そして Λ1, 1069a19-21 では明示的に性質の優位が (明示的な根拠なしに) 言われている.実際,Z3 の配列は M からすれば実体を幾何学的・「抽象的」に見る味方であり,批判の余地がある.

3.2 関係

N1, 1088a22-5 によれば,関係は量と性質に後続する: 関係はまずもって量や性質などに属する πάθος であり,媒介的にのみ実体に属する (cf. Δ13, 1020a17-25; Cat. 6a26-7; 11a15-18).

3.3 「どこ」カテゴリーと場所

Cat. では ποῦ についての議論はほとんどない.6章で τόπος は論じられているが,これは ποῦ とは同一視できない: ここでは τόπος は物体と共外延的な幾何学的に抽象された連続体であり,「アゴラで」のようなゆるい位置規定とは異なる.依然 Tim. の影響下にあるとも論じうる (Mendell 1987).

他方 Phys. IV では三点で革新が見られる.(1) 独立した3次元空間としての τόπος 概念の拒否,(2) 物体の内的境界としての新たな τόπος 概念,(3) この新概念と ποῦ カテゴリーとの同一視.

この新たな τόπος と同一視される ποῦ は,量的規定に依存している.

3.4 「いつ」カテゴリーと時間

Cat. では時間は場所同様の測定可能な連続体であり (5a38-b10),実体から独立の実在性を有するかに見える.Phys.Met. でこの危険は診断され回避される.

Phys. でも Cat. 同様,時間は運動の尺度である.しかし Phys.Met. では,時間は運動の πάθος であり,時間の分割可能性は運動の分割可能性から,運動の分割可能性は場所の分割可能性から派生している.場所は自体的に量だが,運動や時間は派生的にのみ量である.

それゆえ,πότε は ποιεῖν/πάσχειν に,ποιεῖν/πάσχειν は ποῦ に媒介される.

4. ἀπόδειξις と存在論

上述の考察は,〈ある限りのあるもの〉のカテゴリー的構造に関連する論証的推論の例とみなせる.

ただ,直列性を生む依存関係は一方向的であり,それゆえ論証的分析を容れないように思われるかもしれない.つまり,量や質は実体を前提するが,その逆は言えないがゆえに,論証は「我々に知られる」ことから出発するアポステリオリな証明にしかならないかもしれない.

とはいえ,アポステリオリな論証も論証の一種であり (APo. 72b31-2),普遍的に妥当な結論を導く (例: (a) 全ての実体は性質をもち,(b) 性質は量的基体を前提する,ゆえに (結論) 全ての実体は量をもつ).

主題によって論証の種類は異なる (Lloyd 1998, esp. ch.1).例えば自然学の場合にはたらくのは厳密な必然性ではなく「条件的必然性」であり (PA 639b24-6),始点は端的に先行するわけではないが (τέλος は時間的には後),だからといって自然学が非論証的探究となるわけではない (640a1-2).存在論についても同じことが言える.もっとも存在論に関して厳密な論証が皆無なわけではない (例: 全ての実体は量的次元によって定義されるがゆえに,全ての実体は或る場所にある).

補遺: カテゴリーの新プラトン主義的「演繹」について

〔省略; 新プラトン主義者および Brentano がカテゴリーの分類・分割を与えることによって焦点性と同名同義性を混同していることが批判される.〕