『国家』と Γ 巻の ἀνυπόθετος 概念 Bailey (2006) "Plato and Aristotle on the Unhypothetical"

  • D.T.J. Bailey (2006) "Plato and Aristotle on the Unhypothetical" Oxford Studies in Ancient Philosophy 30, 101-126.

プラトンアリストテレスにおける ἀνυπόθετος 概念の関係を探求する論考.結論は末尾に要約されている.分析に一部 (現代) 認識論的な視点が入っているのが面白い.4 節におけるPNC と Baltzly の諸原理の区別は Γ 巻に超越論的論証を見出す解釈にも示唆するところがある.


1. 序論

プラトンによれば,問答法は数学と違って「無仮定的原理」に達しうる.この ἀνυπόθετος という語はプラトンで二回 (Rep. 510b, 511b),アリストテレスで一回 (Metaph. 1005b14) しか使われていない.しかしそれだけに,アリストテレスプラトンのテクストを念頭に置いていた可能性は高い.そこで,アリストテレスプラトン理解を把握することで,プラトンをよりよく理解できると期待できる.たしかにアリストテレスプラトンをしばしば誤解しているが,稀な語彙において一致しているという点は重要である.

以下では,アリストテレスは ἀνυπόθετος という語で実際にプラトンのテクストを念頭に置いており,アリストテレスにとって明示的に ἀνυπόθετος な原理はプラトンにとってもそうだと主張する.しかし同時に,この一致は偶然ないしアリストテレスの無理解によるものだとも主張する.というのも,彼はこの語によってプラトンと異なることを意味しているからだ.

2. プラトンアリストテレスは無仮定的なものについての似通った見方を共有している

アリストテレスの例から始めよう.Γ3 では〈ある〉限りの〈あるもの〉について真なる諸命題が検討され,1005b14 ではそれらが無仮定的とされる.アリストテレスが無仮定的原理に最初に与える特徴づけは,プラトンのそれと共通している:

  • 無仮定的な原理は,錯誤が不可能である (訂正不可能性条件 incorrigibility condition).
  • 無仮定的な原理は最も可知的な原理である (可知性条件).

Resp. VI や Phd. 末尾によれば,プラトンの仮設法の終点は訂正不可能性条件を満たす: まず安全な仮設を立ててその結果が互いに整合するかを見る (Phd. 101d).整合しない場合,仮設は偽である.整合するなら,仮設を「より高い」(おそらくより一般的な) 命題の結果のうちに置き,各々が整合するかを見る,等々.こうして「最高の」命題にまで達する.

ここから,プラトンの無仮定的命題が可知性条件を満たしていることもわかる.最高の命題は,それ自体よりよく他の命題によって説明されることはない.

しかし,アリストテレスによれば,原理は第三の (やはり無仮定的な) 特徴を有する:

  • 無仮定的な原理は〈あるもの〉の何かを把握している人が備えるものの一部である (ἣν γὰρ ἀναγκαῖον ἔχειν τὸν ὁτιοῦν ξυνιέντα τῶν ὄντων, τοῦτο οὐχ ὑπόθεσις, 1005b15-16) (優先性条件).

他と違って,優先性条件は無仮定性の必要条件かどうかは示されていない (十分条件ではあるが).これがプラトンと共通するかは問題である.まず,ここでは把握は明快でない (non-luminous)1 種類の知り方である (この意味ではヘラクレイトスも PNC を把握している).こうした心的状態の例はプラトンにもある:『メノン』の奴隷は定理を把握している.無仮定的な原理に関しても例はあると思う: 太陽の比喩に基づくなら,守護者は無仮定的原理を初めて知るとき,明快に知るはずだ.しかし洞窟に戻るときには,(メノンの奴隷と同様に) その知識は明快でない.

では,プラトンにとって優先性条件は無仮定性にとって十分だが必要でないものだろうか.十分性は明らかである.必要でないこともおそらく擁護できる: (a) ∀x∃y. x が探究なら y はその探究の無仮定的終点である (b) ∃y∀x. x が探究なら y はその探究の無仮定的終点である,のどちらをプラトンが擁護しようとしたのかは Phd., Resp. からは明らかでない.後者ならアリストテレスと全然違うが,前者なら (無仮定的原理が色々あるなら) プラトンにとっても必要でないことになろう.

3. 例はどうか?

というわけで,無仮定的なものの観念をアリストテレスプラトンは大まかには共有している.だが,アリストテレスが無仮定的なものの範例とする PNC に近いものを,プラトンは仮定としている:

  • (A) τὸ γὰρ αὐτὸ ἅμα ὑπάρχειν τε καὶ μὴ ὑπάρχειν ἀδύνατον τῷ αὐτῷ καὶ κατὰ τὸ αὐτό: καὶ ὅσα ἄλλα προσδιορισαίμεθ᾽ ἄν, ἔστω προσδιωρισμένα πρὸς τὰς λογικὰς δυσχερείας. (Met. 1005b19-22)
  • (P) δῆλον ὅτι ταὐτὸν τἀναντία ποιεῖν ἢ πάσχειν κατὰ ταὐτόν γε καὶ πρὸς ταὐτὸν οὐκ ἐθελήσει ἅμα. (Rep. 436b8-9)

もっとも (A) と (P) は異なる.第一に,前者は矛盾,後者は反対について語っている (ただこれはそれほど重要でない).第二に,(A) は様相的に (P) より強い (ἀδύνατον ↔ οὐκ ἐθελήσει).

違いは部分的には論脈にある: アリストテレス形而上学の主題設定という広い目的を持つのに対し,プラトンは魂が部分を持つという結論を出すことに関心がある.だが,(P) が仮設されているという点はこれでは説明できない.

しかし,(P) が仮定として扱われているのは,それが後に偽だと判明しうるからではない.むしろ "πάσας τὰς τοιαύτας ἀμφισβητήσεις ἐπεξιόντες καὶ βεβαιούμενοι ὡς οὐκ ἀληθεῖς οὔσας μηκύνειν" (437a4-6) しないためである.仮設的なのは定式化であって原理そのものではない.「無仮定的」という形容は,仮設として表現される可能性を除外するものではなく,単に,直接的に知られうる定式化が可能だということを意味するにすぎない.

そういうわけで,PNC はプラトンにとっても無仮定的でありうる.

4. 無仮定的なものについての Baltzly の議論

プラトンに他の例はないだろうか.Baltzly は Γ に頼らずに「無仮定的」なものの意味を特徴づける創意ある試みを行っている.彼は Parm. 二部に依拠して,ある命題が無仮定的なのは,その命題の真理条件が実際に得られたときには,それと矛盾する命題が定式化さえできないことだと述べる.例えば「〈一〉は〈ある〉に与っている」は無仮定的である (142aff.).あらぬものになにかが属することはできず,したがって名前も,説明・知識・知覚・意見も属さない.したがって,〈一〉があるものでないのなら,そのことは表現しえない.この解釈によれば,「いくつかの種は混合している」(Sph. 251d) も無仮定的である.〈ある〉が全てと隔たっているなら,〈ある〉にそうした述定を行うことさえ不可能である.

Baltzly 解釈は疑わしい.まず,Parm.Sph. の議論は論証の形を取るが,無仮定的なものは論証不可能であり,また論証の必要もないものだからだ.Bratzly はこれに対して,APo. 的な論証は与ええずとも,Γ の論駁的論証のような議論はできる,と反論する.しかし,プラトンの議論と論駁的論証の間には類比的でない部分がある.

第一に,論駁的論証はある種の循環性に依拠する.それでも PNC が論駁的論証を許容するのは,それによって部分的な説明が可能だからかもしれない (cf. Dummett).この場合,PNC の証明は悪循環ではなく軽微な循環である,と論じることもできよう: 証明中で PNC は主張されていないが,証明はそれの真理性になにがしか依拠している.あるいは,PNC をどんな証明も悪循環だとひとは言うかもしれない.しかしいずれにせよ,一方で,プラトンの議論にはそうした循環は含まれない.

第二に (より重要な事実として),PNC の否定と Baltzly の諸原理の否定では,後者のみが真であり得ることなく,その可能性を表現する: 〈一〉が〈ある〉を分有しないことも,何もありはしないことも,不可能ではない.他方で,PNC と矛盾する命題が真であるなら,そのことは表現し得ない.のみならず,PNC と矛盾する事態は可能でもありえない.そしてそのことの深い説明は可能ではない.それは単なるなまの事実である.この点でも Baltzly の諸原理と異なる.Baltzly の諸原理は,「〈一〉は〈ある〉を必然的にもつ」「形相は一定の性質を持つ」といった一般化による説明が可能だからである.

そういうわけで,説明可能性という点で PNC と Baltzly の諸原理は異なっている.このことから,後者がプラトンにとって (a)無仮定的ではないか,あるいは少なくとも (b) 別の種類の無仮定的原理だということが推測される.そして (a) の方が尤もらしい.なぜなら,以上の説明が正しければ,真正の可能性の否定や,「ある命題は否定的だ」という偶然的な主張も無仮定的でありうることになってしまうからだ.

Baltzly が別の論文で,Tht. 181c-183c を引き,「全てのものはあらゆる仕方で変化する」というヘラクレイトスの主張の否定を,ヘラクレイトスの主張が真なら,その主張もその他の何も考え・書き・言うことができないから無仮定的だと論じているのも,この理由からである.一方で,仮に「〈一〉が〈ある〉に与らない」という命題を表現できないとしても,他のことは言える.「いかなる主張も否定的ではない」も同様.他方で,ヘラクレイトスの主張は無仮定的でありうる.Sph. の主張も同じでだが,理由はかなり異なっている: 否定が真なら何もないからである.だが,状況が異なっているため,両方ともを無仮定的なものとして扱えるかは疑わしい2

5. 仮設を破壊する?

だが,Baltzly の原理が無仮定的であるとする最後の証拠がある.すなわち,それらの否定は自己論駁的に偽であり,プラトンは否定を破壊することで (by destroying) 真だということを確立している.しかるに,プラトンにおいてもアリストテレスにおいても,無仮定性と ἀναιρεῖν という語には重要なつながりがある.Resp. VII では,数学者が〈ある〉を夢想するだけなのに大して,問答法は τὰς ὑποθέσεις ἀναιροῦσα, ἐπ᾽ αὐτὴν τὴν ἀρχὴν ἵνα βεβαιώσηται に進むのだとされる (533c).他方 Γ では,PNC の論駁的論証は反対する人に責任があるが,それはヘラクレイトスのような反対者が ἀναιρῶν λόγον ὑπομένει λόγον するからだ,と論じる (1006a26).この共起は重要なつながりを予想させる.――だが以下では,これは単なる偶然か,または誤りである,と論じる.

アリストテレスの場合,ἀναιρεῖν は「破壊する」「消滅させる」の意味である: 言葉を破壊しようとする際に ὑπομένει λόγον している (i.e. 何かを話している) ことで,論敵は自己論駁している.文脈上 'take up' の意味にはなりえない.したがって,アリストテレスプラトンの用語法に従っていると言うためには,Resp. の文脈で「仮設を破壊する」とはどういうことかを説明しなければならない.

Baltzly によれば,問答法が「仮設を破壊する」とは,一方が自己論駁的で他方が無仮定的であるような矛盾する仮設のうち,自己論駁性を示して前者を破壊し,仮設的性格を取り去って後者を破壊することである.だがその場合,ἀναιρεῖν が一義的でなくなってしまう.また,かりに一義的でなくてよいとしても,数学者の仮設における矛盾をプラトンは全く問題にしていない.だが,問答法が権威ある学知として登場するのは,数学者の仮設というトピックにおいてなのである.

実際,プラトンが数学に対する問答法の優位を語ったときに数学者の開始地点に関して持っていた問題は,フレーゲが後の数学者の定義に対して持っていた問題と同種である: cf. GA 序文.フレーゲGA で「経験的確実さ」の語りを拒否するが,これは非常にプラトン的である.また「吟味されていない原理から出てくる証明に期待しうるのは高々証明の連鎖が欠けていないことだ」というフレーゲの主張も Resp. 510d の διεξιόντες τελευτῶσιν ὁμολογουμένως という数学者の特徴づけと対応する.だが Crat. 436b-c で論じられるように,それが真だとは限らないのだ.

そして,プラトンフレーゲと同じ論点を提起する人は,数学の始点について,それに矛盾する言明が偽であるというのとは別の仕方で支持することに関心を有するはずだ.そして,我々の理解を改善する仕方で始点を扱う手続きを「破壊」と呼ぶのは奇妙である.類比: p から q を導く妥当な推論を得たとして,「p から q を導き得ないことを破壊した」というのは頗る奇妙である.

幸いプラトンの場合アリストテレスと違って ἀναιρεῖν を「破壊」の意味でほとんど用いない.むしろ 'take up' の方が普通である.そして 'take up' は Resp. の文脈にも即している: ものを陽光のもとに持って行ってよく見るように,問答法は数学者の原理を無仮定的原理の方へと (ἐπ᾽ αὐτὴν τὴν ἀρχὴν) 取り上げるのだ.この読みをこれまで誰も提案しなかったのは驚きである.

結論: プラトンアリストテレスは無仮定的なものの同じ観念を共有している.アリストテレスにとって無仮定的なものは,プラトンにとってもそうかもしれない.また,このトピックに関する間テクスト的な関係に鑑みて,プラトンにおける無仮定的原理を特定する既存の試みは疑わしい.だが,ἀναιρεῖν という語に関する限り,プラトンアリストテレスの間の関係は,単なる偶然か,あるいは間違いである.


  1. 原注5. 心的状態 C が明快である iff. 個人が C にあるとき,その個人は,C が成り立っていると知る位置にある (cf. Williamson, KIL Ch.4).

  2. なぜなのかよく分からない.