論駁的論証は言語の領域に留まる Zingano (2008) “La preuve de 1006b28-34”
- Marco Zingano (2008) "Sêmainein hen, sêmainein kath' henos et la preuve de 1006b28-34" in M. Hecquet-Devienne, A. Stevens (eds.) Aristote Métaphysique Gamma, Peeters, 403-422.
I 節を見て自分の草稿と全く同じ結論かと思ったが全体を読むと必ずしもそうではなかった.論駁の結論の理解に関してはむしろ Crubellier に近い.
本稿は σημαίνειν ἕν に注目して論駁的論証を読む.特に〈ある〉の規定ないし本質主義が前提されていないと論じる.
I
PNC は Γ3-4 で ex professo に探求される:
- Γ3, 1005b11-34. 最も強固なものとしての特徴づけ.
- Γ4, 1005b35-1006a11. 原理の論証の問題の導入.
- Γ4, 1006a11-b34. 論敵が何かを言うことに基づく原理の論駁的論証.
- Γ4, 1006b34-1007a20. 否定的属性や属性についても同じことは成り立つ1.
- Γ4, 1007a20-b18. 本質主義の命運は論駁的論証と結びついている.
- Γ4, 1007b18-1008a7. PNC 否定の諸帰結.
- Γ4, 1998a7-1009a5. 行為の観点からの論駁.
ここでは (c) (狭義の論駁的論証) に集中する.まず問題なのは ((b) の論点があるにも拘らず) いかなる意味で「論証」(preuve) なのかである.実際これは本来の意味での論証はない (a15-16).論証と論駁的論証の違いは,直接的論証が petitio principii を免れないのに対し,論駁はまずい推論を論敵に課するという点にある.しかしどうして「何かを言う」という単純な行為だけで onus probandi を論敵に帰しうるのか.また間接的論証を直接的ヴァージョンに書き換えることはできないか.
アリストテレスの側にも,見かけ上の揺れ動き,さらに言えばためらいがある.だがおそらく最大の問題はそこではない.実際論証の本性がどうであれ論証は可能だからだ:「というのも,既に何か規定されたものがあるだろうから ἤδη γάρ τι ἔσται ὡρισμένον」(1006a24-25).これは要は世界に何か安定的なものがあるという想定に見える.そうした想定はアリストテレス的本質主義と相性が良いが,別にそれを前提とはしない (永遠の本質のようなものを想定しなくても良い).しかしながら,こうした存在論的安定性の想定は,論敵が疑っていること自体の要求,つまり論点先取,に見える.いわんや本質主義は前提できないはずである.
議論を検討しよう.論証 (の代用物) は論敵が何かを言うときに可能となる.「何かが A だ」と言う必要はない;「A は B だ」と言うことの要求自体,論敵の拒否していることを前提してしまう.「何かを言う」要求をなす箇所では σημαίνειν τι が要求されている.まさにこのことが行為を λέγειν τι にするのである.τι は ὄνομα である (1006a29-30).名詞とは限らず動詞でもよい.しかし「ああ」とか前置詞の「の」(de) とかはだめである.必要なのは会話のまとまった部品 (une pièce cohérente de conversation) なのだ.語が世界について語ることを目指して (vise à parler) いればよい (「キマイラ」でもよい).この τι はいわば会話の主題であり,何らかのおしゃべり (causerie) という行為のみが要求されているのだ (cf. 'σημαίνειν γέ τι καὶ αὑτῷ καὶ ἄλλῳ').
このとき ὡρισμένον なものがある.この ὡρισμένον は存在論的なものではない; 意味表示の規定性は恣意的な約定の産物であり,対応する本質の存在も世界も安定性も保証しない.
そうだとして,多義性すなわち現れの流動は意味の確定性を脅かさないのだろうか.問題ない; 意味が有限なら各々に異なる名前を付けられる.無限なら世界のみならず言説そのものが崩れてしまう.
そして "τὸ γὰρ μὴ ἓν σημαίνειν οὐθὲν σημαίνειν ἐστίν" (1006b7). 何かを言う,それゆえ何かを意味表示する,それゆえ σημαίνειν ἕν. この σημαίνειν ἕν には二通りの解釈がありうる: (1)「あるものを意味表示し,それは一つである」,(2)「一つの仕方で意味表示する」.前者なら本質主義を含意するが,後者は全くそうではない.
解釈を決するには σημαίνειν καθ᾽ ἑνός との対比を見る必要がある.こちらも二通りに解釈できる: (i) 一つのものに述定される (i.e., f, g, ... が A に述定される).このとき τὸ ἄνθρωπος σημαίνει μὴ μόνον καθ᾽ ἑνὸς ἀλλὰ καὶ ἕν (b14-15) とは,「人間」が「A は人間である」のような述定構造とは独立にそれだけで確定した意味表示をも持つ,ということになる.しかしこの場合,(1) と (2) のどちらが正しいのかは分からない.(ii) 語の意味の規定性がある一つのものを意味表示していることに存する.この場合は (1) と同じ意味になり,(1) とは対比にならない; もはや述定構造を云々する必要がない.ゆえに対比を見て取るには (2) を採らねばならない.
述定の一性 (i) と意味の一性の混同が起こる次第は見やすい.意味表示する全ての語は命題的構造において現れるのが自然だからだ.一方で,意味表示の概念と,意味表示されるものの一性 (ii) の混同はそれほど自然ではない.そのような混同が起きるのは,σημαίνειν καθ᾽ ἑνός は意味表示の成功の条件だからだ.しかし論証のためには,私たちは成功条件に関心を持っているわけではない.むしろ意味表示の端的な条件に訴えるに留めている.b14-15 の μὴ μόνον ... ἀλλὰ καὶ ... は non seulement ... mais aussi ではなく non tant ... mais surtout の意味に理解されねばならない2.
(i) (ii) はどちらでもよい.(i) なら,述定の分析に携わるのではなく,孤立して把握された語の意味表示の諸条件に留めることが問題になっている.(ii) なら意味表示一般の条件とその成功条件とを切り離している.ただどちらかというと (ii) の方がいい.最初から述定の問題と意味表示の問題は切り離しており (i) で再説する意味はない3.一方で隠伏的な論点先取を避ける意味で (ii) の強調には意味がある.
II
論証の核が以上のようなものだとして,では Γ4 のうちにどう位置づけるべきか.ウカシェヴィチは二つの論駁的論証を見出し,その第一を 1006b11-22 だと見る; これだけが本来の意味での論証であり,第二のもの (1006a28-34) は二重否定の原理しか言えていない.ウカシェヴィチによれば第一の論証で導入される σημαίνειν ἕν は (1) で解釈でき,その帰結として本質と実体の概念が論証に導入される.しかしウカシェヴィチによれば,議論は説得力がない: (a) 本質抜きで意味を指定することはできるし (e.g., ケンタウロス),(b) 論証は実体概念の導入により論点先取を犯している.そして本質主義的な (1) 解釈の証拠として ἄνθρωπος と ἀνθρώπῳ εἶναι の同一視を挙げる.実際テクニカルな意味では後者は本質を指示する.――しかし,問答法的なアプローチに従うこの論証ではテクニカルな概念は要求されない (Trendenburg の参照も助けにはならない).
実際のところ 1006b11-22 はまだ論証を含んでいない.論証の諸要素を提示しているに過ぎない: σημαίνειν τι / σημαίνειν ἕν (1006b11-14), σημαίνειν ἕν / σημαίνειν καθ᾽ ἑνός (b15-18), 同名異義性の排除 (b18-22). 論証はむしろ第二ヴァージョンとウカシェヴィチが呼んだ b28-34 にある.ウカシェヴィチはこちらのヴァージョンが論点先取だとは述べていないが,二重否定しか示せていないとは述べている.
論証の核心は εἰ δ᾽ ἀνάγκη τοῦτο, οὐκ ἐνδέχεται μὴ εἶναι τότε τὸ αὐτὸ ζῷον δίπουν (b30-31) である.これを Ross は "it is impossible that the same thing should not be a two-footed animal" と訳している.なるほど,〈あるもの〉が規定されているなら,同じものをそうでないと言うのは真ではありえない.しかし問題はそこではなく,PNC 否定論者に対してどう PNC を擁護するかであった.困るのは,この翻訳が強いる,言語的領域と存在論的領域の一種の行き来である.まず,「人間」と述べているということが真なら,二足の動物に関することだと言うことも必然である.この「言うこと」(dire) はテクストにはないが容易に補いうる4.そしてまさにこれ〔二足の動物〕に〈あるもの〉として「人間」の意味表示を与えていたのだ.一方 Ross の訳は事物の世界の方にスライドしている: 何かが人間だと言われるなら,その語によって指示されるものとは,二足の動物である.しかし,そもそも語「人間」の意味は約定 (stipluation) によって決定されたものだった.実際,結論では,人間であることとありはしないことが同一であると言う (εἰπεῖν, 1006b33) ことはできないとされていたのだ.Ross の翻訳だと,突然言語的領域 (champ/domaine linguistique) から物自体の領域に闖入し,さらに再び言語の領域に戻ることになってしまう.
またこうした行き来があるとすると,やはり議論が存在論的規定性を前提してしまう.言い換えればアリストテレスの素朴実在論を前提してしまうのである.一つの出口は,「〈あるもの〉は何らか言語の効果である」という,言語についての強い理論を,アリストテレスに帰することだ5.しかしこれはアリストテレスの素朴実在論以上に強い立場であり,これを採るのは窮余の一策である.
そうした行き来を仮定する必要はない.議論はこうである:「もし何か (「人間」) を言うことが真なら,それが「二足の動物である」〈と言う〉ことも必然的である (というのも,それが語「人間」の意味表示していたものだから).もしこのことが必然的なら,そのとき,同じものが二足の動物でありはしない〈と言う〉ことも可能ではないから (というのも,「必然的である」は次のことを意味表示するから:「ありはしないことは不可能である」).それゆえ,同じものが人間であり,かつ人間でありはしないと同時に真なる仕方で言うのは不可能である」.
こうすれば行き来も論点先取もなしで済む.
三点補記したい.第一に εἴ τί ἐστιν ἀληθὲς εἰπεῖν ὅτι ἄνθρωπος を 's'il est vrai de dire de quelque chose que c'est un homme' と訳すことについて.まずこの議論は quelque chose est un homme から議論が始まることを前提している.しかし1006a18-21 では ἀρχὴ δὲ πρὸς ἅπαντα τὰ τοιαῦτα οὐ τὸ ἀξιοῦν ἢ εἶναί τι λέγειν ἢ μὴ εἶναι と言われていた.起点はむしろ λέγειν τι, 例えば「人間」とだけ言うことなのだ.したがってこの箇所は s'il est vrai de dire quelque chose: homme と訳さなければならない.ὅτι は説明的である.
そう理解しても ἀληθὲς εἰπεῖν は処理できる.なるほど ἀληθὲς εἰπεῖν ὅτι の後に命題が来ることは多い ( APr. I.34, 48a3; I.46, 52a1; APo. II.12, 95b26; Δ9, 1017b34). しかし,Γ4 ではアリストテレス的言語が問題になっているわけではない6.
第二に,ὡρισμένον (1006a24-25; 1008a34) を存在論的に理解したい誘惑は大きい.しかしこれは pièce cohérente de conversation の要求にすぎない.これなしには失語症 (aphasie) に陥るが,それはいわば anoésie のボーナスである (cf. 1006b7-11).それでも,この議論は存在論的なものではない.
第三に,上述の通り,最初は「人間」と言うことだけが前提されており,「何かが人間である」と言うことは前提されていなかった.しかし,述定的領域に戻るやいなや,我々は「人間は二足の動物である」と言わなければならなくなる.そこに戻るのは,もちろん,人間が「これこれであるもの」を意味表示すると分かってからでなければならない.しかしこのことは語の規約によって認められているので,もはや論点先取にはならないのだ.
このように,本質主義は論証に介入していない.とはいえ一旦論証を終えれば,それが本質主義と両立できると論じることはできる.本質と付帯性の区別によって,これまで言説の領域にとどまっていたものに存在論的基礎が与えられる.――しかしながら,真理の観点 (ἀληθὲς εἰπεῖν) によって本質主義が暗に浸透しているのでは,という懸念もありうる.これについては,遠回しに本質主義に訴えているのだ,という説明はありうる.しかし,そう考えるべきではない.真理性の条件は第一の前提で導入されているが,それは単に p かつ非 p と主張することの言語的可能性を禁じるものにすぎない.なるほどヘラクレイトスはそう主張したが,しかし真なる仕方で (avec vérité),つまり真剣に・誠実にそう言うことはできないのだ.
結論として,術語上の揺れ動きを再び取り上げよう.Γ4 冒頭では原理の論証の要求が ἀπαιδευσία のしるしとされた.しかし直後で,論敵が何かを言えば,論駁的論証はできると言われた.それから論駁と論証が区別されるが (1006a18),6行後には「論証があるだろう」(1006a24) と言われていた.一見してこの論証は問答法的であるが,しかし σημαίνειν ἕν という根本的条件なしには,あらゆる対話と思考が破棄されてしまう (1006b7-11).ここで論証はあらゆる問答法的文脈の外でなされているのではないかという疑念が生じる.それはアリストテレスの逡巡に関わるのだろうか.そうではないだろう.アリストテレスはこの論証が言説の領域の外に出ることができないと承知していたのだ.それゆえこれは,あくまで,論証の見かけを取った論駁なのだ.実際のところ,PNC の正しさは,他のあらゆる原理と同様,ἐπαγωγή によって把握されるのであり,この論証によって把握することはできない.原理のアプリオリな論証は存在しない.論証によってはただ否定する者を黙らせておくことしかできないのだ.なるほどアプリオリな論証があるのではないかという気持ちに我々はなるかもしれないが,しかしそれはアリストテレスの気持ちではないのだ (Bolton 1994: 354).それでも論駁としては成り立っている.直接的証明はないが,言説によって境界づけられた完全に否定的な方法で論駁することはできるのである.