論駁的論証は PNC の知識をもたらさない Code (1986) "Investigation of a Principle"
- Alan Code (1986) "Aristotle's Investigation of a Basic Logical Principle: Which Science Investigates The Principle of Non-Contradiction?" Canadian Journal of Philosophy 16(3), 341-358.
CJP のこの号はアリストテレスの PNC 関連の論文が三本入っている.残り二つの著者は Marc Cohen と Furth.もとは Code の発表に両者がコメントしたものらしい (358n55).
本論文は Irwin を論敵とする.批判の論点は一理あるが代案の説得力は強くない.
〔冒頭5ページ半は APo. の論証理論の常識的な略述.ここでは省略.〕
Irwin (1977) は Γ4 の議論を非常に誤った仕方で叙述している.Irwin は「何かを言い,意味しているという信念」が前提となって議論が進んでいると言うが,実際には高度に理論的な主張も同時に前提となっている (e.g. 本質主義).これに同意することが合理性の要件だとは思われない.また,たとえ Irwin の Γ4 理解が正しくとも,そうした前提は「なぜ」PNC が正しいのかを説明せず,したがって知識をもたらさない.
他方 PNC を論駁 (的論証) の形で議論することは可能である.論駁においては前提が結論に先立ち結論を説明する必要はない.論証は「何かを意味する」ことから始まり,様々な形而上学的・意味論的テーゼに訴えて PNC を擁護する.これはPNC が「成り立つ」(that) ことや「なぜ成り立つか」(why) を知る目的でなされはしない: that は皆知っており why は存在しない.
では何の目的で議論しているのか.これを知るには,共通公理を研究する学知の本性を考えるのがよい.もし形而上学が学知であるなら,以下を有している必要がある:
- 主題的対象 (a subject matter).〈あるもの〉がそれである.
- 主題的対象について成り立つこと ((i) 命題,(ii) 項).これは二つのクラスに分かれる:
- 第一原理と原因: (i) 論証不可能な無中項の真理.(ii) 〈ある〉という類 (the genos) に入るものの「何であるか」,および〈あるもの〉どもそれ自身.
- 非原理: (i) 当の類に関する定理,(ii) 〈ある〉という類に入るが a (ii) に当てはまらないもの (πάθη).
- 諸項が類に適用される観点.ᾗ X ないしは κατὰ X の形で指定される.
項は少なくとも3つの仕方 (APo. I.4, 自体性I, II, IV) で主体について自体的に成り立つ; 例えば生物学は生物という類やその種の自体的(I, II, IV)属性を研究する.形而上学もほぼ同様だが,〈あるもの〉の諸種の研究はせず,〈あるもの〉という当の最高種 (kind) だけを研究する.これは普通の意味での類 (generic kind) ではないが,その点で他の諸科学と異なるわけではない (e.g. 医学も類は持たない).
形而上学は対象のみならず方法の点でも一般的である.概念の適用方式に様々な制約をかけることで,特殊科学と一般学の区別について粗描しうる.特殊科学は特定の種に当てはまることも扱うが,一般学は全ての種に当てはまることしか扱わない.
とはいえ,形而上学は〈ある〉限りの〈あるもの〉に妥当する原理しか扱わないわけではない: 反対,完全,同,異 etc. といった,〈ある〉限りの〈あるもの〉に適用される語に関する命題についても探究する (πάθη).形而上学は共通公理も扱うが,これらは ὄντα ではないので定義できない.我々にできるのは,共通公理について何かを (いわば公理の πάθη を) 示すことである.PNC を証明できなくとも,PNC について,何ものもそれに先行しないということを証明することはできる.この証明において PNC を前提することは論点先取ではない: 結論は PNC ではなく,PNC に先行する事柄でもない.
Γ3 では PNC が最も確固たる原理だとされる.これは PNC についての主張であり,Γ3 ではこの主張の証明が試みられている.Γ4 の論駁的論証の目的は,論敵 (「彼ら」) を論駁することでも,PNC が真である理由を述べることでもなく,PNC を「私」(ないしは有意味な思考や言説に携わる人) が受け入れていなければならない理由を述べることだ.論駁的論証は PNC の知識に至る形而上学的な道筋を提供しないが,形而上学者は全ての人が受け入れなければならない理由を知ってはいるのだ.