Γ4 冒頭部のプラトン的背景 Baltzly (1999) "Aristotle and Platonic Dialectic"
- Dirk Baltzly (1999) "Aristotle and Platonic Dialectic in Metaphysics Γ4" Apeiron 3(2), 171-202.
1006a11-31 の論証をプラトンが各所で行う自己論駁論証だと論じる.自分はそもそも a11-31 が独立な論証だと思っていないので,理解に相当な懸隔がある.アレクサンドロス (と APo. I.32) を見たほうがいいことは分かった.
序論
本稿はアリストテレスの無矛盾律論の明確化ではなく,それを適切な文脈に位置づけることを目指す.すなわち: Γ3 および Γ4, 1006a11-31 は,Resp. 中央部で叙述され Parm., Sph., Tht. で例証される方法を用いている.これはわからないものをよりわからないもので説明する試みではない.まず 1006a11-31 について新しいことを言うつもりはない.関心があるのはこの一節がアカデメイア派であることの証明となっているかどうかである.またプラトンの議論はそれほど不明瞭ではない: Cf. Baltzly (1996).本稿では前論文の成果を要約し適用範囲を広げる.
プラトンとアリストテレスの関係は ἀνυπόθετον という語彙,科学者 (就中数学者) が探求しない βεβαιοτάτη なる ἀρχή という概念,およびその探求が哲学者に属するという主張に示唆されている.
前論文では Resp. の方法論が Parm. の一元論自己論駁論に適用されていると論じた.Resp. によれば: 原理 P の確立は ¬P がある特定の意味で自己論駁的である (それが真ならそれを含む全てが思考不能になる) と示すことで非仮定的に行う.そして P から特定の存在者の存在 etc. がさらに帰結する.Sph. 251eff. でもこれは類の混合という原理を示すのに用いられている.
Resp. の問答法には二段階ある: (1) ¬P を自己論駁的だと示し,(2) P から帰結を出す.
しかし自己論駁論証のプラトン的用法はこれだけではない.第一節では Tht. 181b-3c を扱う.ここの流動説批判は以上の議論に似て言語の不可能性を言うものである.しかしその原理からの問答法的下降はない.
第二節ではプラトンの議論と Met. 1006a11-28 との類似性を考える.これは明白に自己論駁的である.本稿の主張では,その批判対象はプラトンと同じヴァージョンのヘラクレイトス主義で,文体・構造・内容の点でも似ている.最後に,〈あるもの〉の学知の可能性に関するプラトンとアリストテレスの態度の違いが問答法像を制約していた次第を論じる.
I. 問答的下降なしの自己論駁:『テアイテトス』181c-183c5
Tht. のソクラテスはまず「全てが変化する」の意味を問う.変化を場所移動と質的変化に分け,両方の仕方で変化していなければならないとする (さもなければある意味で静止していることになる).
しかし「ある仕方では動いている」説を取ってもいいのではないか.マクダウェルは単にラディカルなヴァージョンを探究すると言っているだけだとする.そうだとしても,どうしてこのヴァージョンに関心があるのかは問題である.
プラトン的には「ある面でのみ x is F」は「x is not F より一層 x is F であるわけではない」を意味する (後の懐疑主義で言う οὐ μᾶλλον).ヘラクレイトスは万物の本性について述べるが,「ある面でのみ」なら自体的でなく相対的である.ゆえに弱いヴァージョンは万物の本性を明らかにしているとは言えないのである.
こうした οὐ μᾶλλον の公式は結論 (182e-83b) にも登場する: 全てが変化するなら,物事がどうあるかについての任意の答えが正しくなる.何ものも F である以上に not F ではないからだ.続く結論 (183a9-b5) は ὑπόθεσις という語を Parm. と共有している.ただし結論部で否定されているのが「全てのものがあらゆる面で変化する」なのか「あるものがあらゆる面で変化する」なのかは問題である.
また先述の通り Tht. には問答法的下降の段階が存在しない.それはなぜか.アポリア対話篇だから,というのは答えの一つだろう.しかし真正のアポリア対話篇と言えるかは問題である.Cornford は Tht. を「知識とはイデアの知識だ」という Resp. V の主張の間接的論証とみなし,個物についてのヘラクレイトス主義は受け入れているとする.一方 Owen は個物に関するヘラクレイトス主義の批判として理解する (そしてこの点で Tim. など後期の考えとは隔たっていると述べる).
この不一致を調停するにはプラトンの前提をはっきりさせなければならない.Cornford 解釈では述定が個物同様あらゆる時あらゆる面で変化する.一方の Owen はそれほど明確にしないが,おそらく属性・述定が安定的でも言語の不可能性は言えると考えている.すると議論はこうなる:
- 任意の時点 t で個物はあらゆる属性に関して場所移動と質的変化を行っている.
- 変化は反対者の取り替えである: x が F になるのは not-F な状態からである.
- ゆえに任意の時点と性質について x は not-F から F に変わっている.
- しかし静止状態がなければ t において x は not-F であることを排除して F になることはできない.
- しかし x は t において F または not-F でなければならない.
結論: x は「F でも not-F でもない」ことがありえない以上,F かつ not-F でなければならない.そして全てのものが PNC に違反するなら言論は不可能になる.
これはあまり良い議論ではない.ヘラクレイトス主義者は 5 を批判して「何もありはせず,全てはなるのだ」と言うかもしれない.また個物の PNC 違反から言論が不可能になるかどうかも定かでない (普遍的言明は可能かもしれない).
また Owen 解釈だと (a) 言論の安定的な subject が流動説と相容れないことや (b) 全ての言語がそうした安定的 subject を要求することが説明されきっていない.182c-d のテオドロスの主張もこの点を補うものではない.
さらに「性質個体も変化する」と仮定しても (そんなものがあるとして.182d1-5 はそうも読める),やはり性質タイプについての言論は依然可能であるように思われる.
むしろ Cornford 解釈を認め,「全てが流動する」の「全て」に個体と性質実例の他に性質そのものの両方を含めた方が素直に解釈できる.ただし Cornford らがイデアを述語の意味に含めるのはやりすぎである.
II. アリストテレスの最初の手筋とプラトン的自己論駁論証
次いで 1006a11-28 の論駁の目標 (target) がヘラクレイトス主義者であること,また形式・内容・術語についてプラトンの自己論駁論証と類似していることを述べる.
A. 目標
論駁的論証は何らかの会話的文脈 (conversational context) を必要とする.しかしソクラテス的エレンコスと会話的擁護は同等物ではない.対話相手は PNC を快く認めるかもしれないからだ.そしておそらくアリストテレスはソクラテス的エレンコスの限界に気付いている.
おそらく PNC 否定論者に効くのはある種の自己論駁論証だけである1.自己論駁論証は,¬PNC を可能にするはずの諸条件が,同時に,論敵が PNC やそれ以外のことを言うことを不可能にすることを示す.論敵は両方を信じていると言うかもしれないが,論敵は,PNC が偽だと信じたり言ったりするとき,まさにそのことを信じたり言ったりしているのだと示す必要がある.これが 1006a11-31 のやろうとすることである.
論敵は PNC をラディカルに否定している (, または de re ヴァージョン (可能的ヘラクレイトス主義),または可能様相を取り払ったヴァージョン (現実的ヘラクレイトス主義)).
なんでそう言えるのか.まずテクスト上の証拠がある:
εἰ γὰρ μή, οὐκ ἂν εἴη τῷ τοιούτῳ λόγος, οὔτ᾽ αὐτῷ πρὸς αὑτὸν οὔτε πρὸς ἄλλον. ἂν δέ τις τοῦτο διδῷ, ἔσται ἀπόδειξις: ἤδη γάρ τι ἔσται ὡρισμένον. ἀλλ᾽ αἴτιος οὐχ ὁ ἀποδεικνὺς ἀλλ᾽ ὁ ὑπομένων: ἀναιρῶν γὰρ λόγον ὑπομένει λόγον. ἔτι δὲ ὁ τοῦτο συγχωρήσας συγκεχώρηκέ τι ἀληθὲς εἶναι χωρὶς ἀποδείξεως [ὥστε οὐκ ἂν πᾶν οὕτως καὶ οὐχ οὕτως ἔχοι.] πρῶτον μὲν οὖν δῆλον ὡς τοῦτό γ᾽ αὐτὸ ἀληθές, ὅτι σημαίνει τὸ ὄνομα τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τοδί, ὥστ᾽ οὐκ ἂν πᾶν οὕτως καὶ οὐχ οὕτως ἔχοι. (1006a24-31)
Ross は [ ] 内を 31 行目の竄入と見なす.実際 Paris, Vindobonensis 写本には下線部 (26-28) はない2.本稿の考えでは 26-8, 28-31 は 22-5 の言い換えにすぎない (Alex. Met. 275,1-4).これらはPNC完全否定派に向けられている (275,11-14).それゆえ ἔτι 以降を保つなら ὥστε 以降も保つべきだ.またアレクサンドロスによれば,26-28 の議論は現実的ヘラクレイトス主義の批判になっている.28-31 も結論を共有しているはずである (結論の文が同じなので).だとすると,結論に可能様相が入っている (より強い結論になっている) ことはどう説明できるのか.答え: 第一にアリストテレスの念頭にあったのは de re ヴァージョンであり,第二に彼は現実世界において何か確定的なことが言えるのは偶然ではないと考えていた.同様の想定はプラトンの自己論駁論証にも見られる.
これ以降の論証のことは論じてこなかった.そのいくつかはラディカルなヘラクレイトス主義より興味深い目標に向けられている.Cresswell (1987) によれば,より弱い (おかしくない) 主張に反対してより強い主張へと進んでいる.Cresswell はまた,1006a28-b22 がアリストテレス自身の意味理論を前提していると論じる.しかしそうだとすると,有意味なことを言うことだけが要求されているとは言えないだろう.自己論駁論証の美点は専ら論敵の主張そのものから有意味な思考の不可能性を出すことにある.一方で,語の有意味性の要求は議論が進むに連れて弱まっていく (例えば 1006b34-7a20 はこれに依拠しない).こうした点を踏まえて, 1006a11-28 は専ら現実的ラディカルヘラクレイトス主義者に向けられていると結論する.
B. 論証
アレクサンドロスは議論を単に語用論的な自己論駁だと考えている (274,27-8): 時点 t で何も述べていないというテーゼは t で述べられない (真かもしれないが).これでは弱すぎる.問題はあらゆる有意味な言論・思考の不可能性なのだ.実際他の箇所 (274,6) では論敵自身の νοήματα が論敵の立場からは無意味になると指摘している.これこそプラトンの戦略である (533c8)3.
C. 問答法的下降
プラトン的な〈あるもの〉の学知観によれば,非仮定的原理のある集合があり,そこからあらゆる普遍的学問的真理が導ける,というものだ.アリストテレスはこれを批判する (APo. I.9, 32).88a31-b3 の議論によれば,第一に類は様々であり,第二にある述語は類に固有である.しかしプラトニストは,統一的な類があるし,固有の述語がより高次の類から出ることはないとは言えない (言うと論点先取になる),と反論できる.
もう一つの主張は EE1217b26-35 に見られる.それによれば:
- 「あるもの」はカテゴリー間で同名異義的に用いられる.
- ゆえに〈あるもの〉は類ではない.
- 任意の学知は単一の類を必要とする.
ゆえに,〈あるもの〉の学知はない.
Owen は focal meaning が 3 の例外をなすと主張した: 実体の学知をもつことで〈あるもの〉の学知をもつことができる.それでも,この学知は,〈あるもの〉どもについて知りうる全てを教えるわけではない.固有の原理の知性的把握なしには知りえない学問的真理があるのだ.ゆえに第一原理から問答法的下降がないのも不思議ではない.
しかしそれでも〈あるもの〉の学知は主題的対象と言うべきことを有している.アリストテレスの試みはプラトンの問答法的下降に類似したものの余地を残している.ある,一,異,同の相互関係といった議論がそれであり,それはアリストテレスにおいては Δ でなされているのだ.この見解はアレクサンドロスにも見られる.