SEP「アリストテレスと無矛盾律」 Gottlieb (2019) "Aristotle on Non-contradiction"

  • Paula Gottleb (2019) "Aristotle on Non-contradiction" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2019 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

1. 無矛盾律の3つのヴァージョン

定式化は3つある: 存在論的/ドクサ的/意味論的ヴァージョン.

  • 存在論的ヴァージョン:「同じものが同じ仕方で同じものに属しかつ属さないということはない」.また以下のような限定がある:「同じもの」はものとして同じであり,言語的にではない (多義性の排除).また属する/属さないは現実態に関わる.
  • ドクサ的ヴァージョン: 「同じものが F かつ非 F だと信じることはできない」.
    • これは疑わしい.矛盾する信念は可能と思われる (少なくとも帰結に関しては).もっとも,信念の帰結を信じているかは難問.また,紛れもない矛盾を信じうるかも論点になりうる.
    • 規範的に読むやり方もありうる.
      • ただその場合, Γ3 で存在論的ヴァージョンから出していることをどう説明するかが問題になる.彼の議論は「信じていない」と「否定を信じている」の混同に基づく.
      • また,矛盾の特殊例を信じることと一般的 PNC を信じることは区別する必要がある.
  • 意味論的ヴァージョン: 矛盾する言明は同時に真ではない.アリストテレスは任意の言明が Fx の構造を持つと考えている.これは心理的ヴァージョンよりは存在論的ヴァージョンのヴァリアントだろう.

アリストテレス存在論的ヴァージョンから心理的ヴァージョンを出しているのか,その逆なのか,心理的ヴァージョンだけに携わっているのか,は論争の的である.

2. 無矛盾律の特異な地位

PNC は公理であり特定の主題的対象を持たない.PNC は議論の前提として機能しないが,モーダスポネンスのような推論規則でもない.

アリストテレスによれば PNC は論証できない.論証 (demonstration) はより強固で先行する前提から結論を導くからだ.だから PNC の演繹的導出の要求は,ポイントを外しているか,PNC なしには不可能なことを要求している.

現代の哲学者にとって PNC とその他の原理や諸概念との先行関係は興味深い問いである.PNC は同一性概念を前提し,同一者不可識別性の原理は PNC を前提する.

3. 論駁的方法と超越論的論証

PNC は論証できないが論駁的論証はできる.通常エレンコスは相手の矛盾を示して主張をとりやめさせる reductio だが,論駁的論証は論敵に矛盾していない何かへのコミットメントを帰属する.つまり通常と逆さまである.

ここでアリストテレスは論敵が全称的な PNC 否定を行っていると想定している.

論駁的論証はカントの超越論的論証と比較されてきた.つまり経験や思考の特定の相がありうるためには,世界が特定のあり方をしていなければならない (前者が後者によって説明される),という議論になっている.

超越論的論証についてしばしば問題になるのは,前提と結論が正確に言ってなんなのかということだ.アリストテレスの場合,結論が存在論的ヴァージョンなのか,心理的ヴァージョンなのかで解釈が分かれる.

4. 或る一つのものを表示すべしという論敵への挑戦

アリストテレスは論敵に或る一つのものを表示せよと挑戦する (e.g., 「人間」).意味は複数あってもいいが,無数にはない (こうアリストテレスが言うのは,意味を理解できていないと言えないようにするためか,意味の確定性を言うためであろう).

次に「A を表示する」と「A について表示する」を区別する.「白いもの」は人間について表示するが,人間を意味表示しない (並行例: APo. I.22).ここでアリストテレスは,(解釈1) 論敵が「人間」によって特定のものを意味していなければ,述定を受ける主項を選り出すことができず,矛盾する述語が当てはまるとも言えなくなるということを示している.あるいは (解釈2) 単に種を表示するかどうかに関心を有している (人間は種だが白いものはそうでない).

また議論のスコープも問題になる.論敵が表示しなければならないのは実体だけなのか,種だけなのか,「山羊鹿」だとどうか,「A を表示する」と「A について表示する」の区別は個体と属性の区別なのか.

5. アリストテレス本質主義の役割

アリストテレス本質主義とは,自然種が存在するという立場である.それらの種に属する個体は定義可能な本質的本性を持ち,個体は本質的変化を被るともはや存続しないが,付帯的性質の変化を被っても存続する.(初期著作 Top. ではさらに固有性が区別されるが,Γ4 ではなぜか言及されない.)

アリストテレスによれば PNC の拒否からは本質主義の拒否が帰結する (Γ4, 1007a20-23).アリストテレスは「単に A について表示する」ことを付帯性の表示と結びつけ,「A を表示する」を付帯性の担い手の指示と結びつける.論敵が後者を拒否すると付帯性しか残らない.逆に,付帯性の担い手を適切に特定できれば,本質主義と PNC が両方守られる.

話さない論敵は「植物」同然だとアリストテレスは言う.ひどい言いようだが,付帯性しか残らない世界では実際に論敵と植物を区別できない.「全ては一つである」(Γ4, 1007a19).

では逆に,PNC の肯定は本質主義の肯定を伴うのだろうか.属性の担い手がイデアや瞬間的対象や数ではないとすればそうなる.アリストテレスの他の箇所の議論によってこの点は補われうる.

6. 無矛盾律と行為

アリストテレスいわく,人間が一定の行為を選択していること (e.g., 崖から踏み出さないこと) は,PNC に適合した信念を有していることを示している.

だが,信念を持つかのように振る舞うことはできるのではないか.これはヘレニズム期の懐疑論を生きられるか問題,および現代の道徳的反実在論者は理論に基づいて行為できるか問題と同じである.「できる」と答えると,アリストテレスの議論は失敗する.この場合私たちには懐疑的ヒューム的説明ないし語用論的説明しか残されてない (また cf. Wittgenstein, On Certainty §110).

そうした見解は整合的だろうか.懐疑論者がどのような正当化を求めているのかを考えるべきだ.このとき懐疑論者は非懐疑論者から「かのように的な信念」(as-if belief) の説明を借りることになる.それが「どう現れるか」に基づくなら,アリストテレス懐疑論者に,同じ人間に同じ時に F かつ非 F だと現れうるのかを問いうるだろう.

行為は信念と世界がぶつかる場である.懐疑論者が信念を認めないなら,行為の存在も認められないだろう.そのとき PNC の反対者は,植物であるのみならず,ロボットとなるだろう.

7. 無矛盾律,および真理ないし真理に似たものとの近さ

Γ4 末尾では,ありかつありはしないとしても,度合いがありうると論じられる: 4=5 は 4=1000 よりは真理に近い.相対的判断は可能であり,相対的判断は絶対的基準を前提する.だが,かりに絶対的基準がなくとも,なにか真理に近い事柄は想定される.

この譲歩がどの程度のことを含意するかは問題である.アリストテレスは「ファジー本質主義実在論」に共感するだろうか.また,どの程度の曖昧さ (vagueness) を受け入れるだろうか.これは後のヘレニズム期の哲学者,および現代の哲学者がより詳しく論じる事柄である.

8. 対立する現れからの論証

Γ5 では議論のために議論する人々と本当に困惑している人々が区別される.後者の例としてアナクサゴラスとデモクリトスが言及され,現実態/可能態の区別によって解決される.

他の哲学者は対立する現れからの議論によって PNC 違反の結論ないし一般的な懐疑主義に至る.議論の流れはこうだ:

  1. 対立する現れ (conflicting appearances) には三種類ある:
    1. 同じ種の異なるメンバーに物が別様に現れる.例: 同じものがある人には苦く,ある人には甘く感じられる (Γ5, 1009b2-3).
    2. 異なる種の異なるメンバーにものが別様に現れる.例: 我々とそれ以外の動物 (b7-8).
    3. 同じ個体の諸感覚にさえ物はつねに同じようには現れない (b8-9).
  2. どの現れが真でどれが偽かは明らかでない (b10).
  3. 結論:
    1. 何ものも真ではない (独断的なデモクリトス,b11-12).
    2. 何かが真でも,我々には分からない (懐疑主義的なデモクリトス,b12).
    3. 各々のものは他の全てと同様に真である (b10-11, 前提 2 の説明,プロタゴラスの見解).

アリストテレス答えていわく: 1 はほとんど正しいが,同じものが同じ個体の同じ感覚に同時に別様に現れることはない (Γ5, 1010b18).

現代の哲学者と違い,彼は 1 と 2 から 3 を出す推論は問題にしない.むしろ 2 を攻撃する.その際,多数者の判定に依拠するのではなく,人々は実際の現れ (本当の色はどちらか,夢の中と起きている時のどちらの現れが本当か etc.) について人々は混乱していないという点にある.

アリストテレスはこの論を拡張して,どの意見も等しく権威的であるわけではないとも論じる (Γ5, 1010b11-17).だから衝突があった際にどちらがより信頼できるかが明らかでないということは全然ない.したがって 2 は誤りである.

もちろんアリストテレスの議論は決定的でなく,ヘレニズム期以降,(特に倫理に関して) 現代に至るまで,対立する現れに関しては議論がある.

9. プロタゴラスヘラクレイトス,およびプラトン『テアイテトス』

Γ5 冒頭で PNC の拒否と人間尺度説は連動すると論じられる.Tht. 151-183 でプラトンは「知識=感覚」とするテアイテトスが,対立する現れをともに真とするプロタゴラス説に加担していると論じる.そしてそこから,全てがそれ自体としてあるわけでないという主張へのコミットメントを引き出し,ヘラクレイトスの流動説に至らせる.多くの対立する現れに配慮し PNC 違反を避けるためにはますます多くの流動が必要となる.結局,全てが「そのようにあり,かつ,そのようにない」(Tht. 183) というラディカルなヘラクレイトス説に至る.この論証はさらに自己論駁に関する小論証を含む (171a-d).

論証の詳細と成否は論争の的である.最近の論点は,プラトンプロタゴラスが流動説の代わりに「相対的真理」説に与するのか,またアリストテレスプロタゴラスとどれくらい似ているか,である.それほど論争的でない点は,Γ4 にもプラトンの議論の要素が再浮上している点である1アリストテレスの論敵は知識=感覚だと信じていると言われる.なぜかと言えば,感覚するものが存在する全てであると考えており,また対立する現れからの議論に感銘を受けているからだ.Γ5 は,プロタゴラス説と全てが「ありかつあらぬ」という論点が密接に関連するという点で,プラトンに一致する.また「それ自体でありはしない」とはアリストテレスの理解では付帯的だということだ.

アリストテレスヘラクレイトス自身に PNC の拒否を課してはいないが,真なることを言い得ないという主張をクラテュロスに帰している.アリストテレスによれば彼は誤っているが,それはラディカルな流動が存在しないからだ.変化においては何かが留まるのであり,ラディカルな流動があるとは全てが静止しているのと同じであって,それゆえ矛盾である.

アリストテレスの戦略はプラトンと逆である: 論敵が有意味なことを言っていれば,全てがそれ自体としてありはしないという主張を拒否することになり,それゆえ非プロタゴラス的見解を受け入れることになる.こう解釈すれば,二つの疑問が解ける:

  • なぜ PNC と反対 (contrary) のことを主張する人を相手にしているのか.
  • なぜ心理的ヴァージョンから存在論的ヴァージョンに移行できるのか.
    • 答え: プロタゴラス主義者は「現れる通りにある」と思っているから.

ただ「現れる通りにある」を前提にしている点からプロタゴラス主義者は反論できそうである.Tht. の自己論駁論証にも同じことが言える.クリュシッポスはこうした仕返しの論証について本を書いたらしい.

プロタゴラス説の定式化にも問題がある.Γ6 ではプロタゴラス主義者が PNC 違反を避けようとして,「現れる通りにあるのではなく,現れる通りに,現れる人にとって,ある時,ある感覚に,その他の諸条件のもとで,ある」のだと論じる.さもなくば自己論駁に陥る (1011b20-25).だがアリストテレスはこれを拒否する; 万物が感覚に相対的なわけではないからだ.アリストテレスは PNC とプロタゴラスの議論を通じて,彼の実在論的な立場を明確にしている.

10. アリストテレスの結論

Γ6 でアリストテレスは結論を述べる.「(1) さて,対立する言明が同時に真ではないということが,全ての考えの中で最も強固な考えであること,また (2) そのように言う人々に何が帰結するか,また (3) 何ゆえそのように言うのか,これだけのことは語られたものとしよう」(1011b13-15).

(1) について言えば,先述の通り,PNC の強固さという結論が PNC を前提するかという点は論争的である.(3) について言えば,アリストテレスは感覚と変化についての見解が PNC の否定を動機付けたと論じられていた.(2) については,PNC の否定を言うとは本当に拒否するということではないこと,本当に拒否すると理解可能な言論と行為を諦めることになること,また単なる詭弁と力の世界に生きることになること,が示された.PNC がどの程度の本質主義実在論を含意するかは論争的だが,PNC がアリストテレス的学知に不可欠なのは明らかである.これなしには真理の探究は「飛ぶ鳥を追いかける」ことに等しい (Γ5, 1009b36-8).それゆえまた PNC には倫理的・政治的含意もある.

11. 真矛盾主義や矛盾許容性とアリストテレス

現代の真矛盾主義者はアリストテレスに挑戦する.アプローチの一つは論点先取の指摘 (もちろんアリストテレスは論点先取を認めるだろう),もう一つはアリストテレス主義者に PNC 違反を防ぐような制約付きの再定式化を許さないことである.アリストテレス主義者は,制約なしには主張は意味をなさない,と応じうるだろう.最後に,嘘つき文は真かつ偽ではないかという問題がある.

これとは別に矛盾許容性をどう扱うかも問題である.Γ での立場はよく分からない.ただ APr. II.15, 64a15 は推論についての矛盾許容的見解に与している.

12. 『分析論後書』I.11

APo. I.11 は面白いのに顧みられることが少ない.一見して (Γ からすると驚いたことに) 矛盾する前提を含む妥当な論証を示しているように見える.だがテクストは不明瞭である.

二つの解釈がありうる.一つは,アリストテレスは実際に矛盾を含めているが,本当の論理的役割を果たしてはいないというものだ.もう一つは (Aquinas),カリアスがカリアスでありかつあらぬとか,人間でありかつあらぬとか主張しているわけではなく,「動物」という語がカリアスとカリアスでないものや人間でないものをカヴァーしていると主張しているのだ.

どちらの解釈にも困難がある.アリストテレスは最初に,「x が F でありかつ非非 F である」という結論でない限り論証は無矛盾律を用いないと述べている.最初の解釈からすると彼による大項と中項の説明は余計である.第二の解釈だと,アリストテレスの論点と PNC へのコメントの関係は不明瞭である.さらなる研究が俟たれる.


  1. Gottlieb (1994) の主張.