アリストテレスの φαινόμενα の両義性と一体性 Owen (1961) "Tithenai ta phainomena"
- G. E. L. Owen, "Tithenai ta phainomena" in Aristote et les problèmes de méthode, S. Mansion (ed.), Papers of the Second Symposium Aristotelicum (Louvain, Publications Universitaires de Louvain, 1961), 83-103 [repr. Owen, Logic, Science and Dialectic (London, Gerald Duckworth & Co. Ltd., 1986), ch. 13].
Owen 精読シリーズ.(といいつつ後半の『パルメニデス』と『自然学』の比較は全部ちゃんと追えてはいない.)
I
『分析論』の勧める方法と,『自然学』が実際に従う方法は,顕著に異なっている.この違いを,『自然学』がより試行的で,さまざまな前提や方法を進んで受け入れている,ということから説明するのは,単純にすぎる.違いはむしろ,『分析論』が原則の発見/適用という二段階を区別しようとするのに対して,『自然学』はそこに労力を割いていない,という点にある.しかしこれに加えて,原理を得る手段に関しても違いがある.
『分析論前書』I.30, 46a17-22 では,φαινόμενα が理論の探求に先立って集められねばならない,というベーコン的描像が提示される.ここで φαινόμενα が経験的観察を意味することは明らかに見える.1さて,そうした方法は,生物学の著作や『気象論』には調和しているが2,全てが概念分析に行きつく『自然学』には明らかに調和していない.「アリストテレスは自らの自然学の諸原理を φαινόμενα の調査にもとづいて打ち立てた」と主張するのは,φαινόμενα をこの意味に解するなら,ミスリーディングであろう.
だが,φαινόμενα には EN VII.1, 1145b2-6 に出現する第二の用法がある.Ross は上記と同様に 'observed facts' と訳すが,二つの理由から誤りである: 第一に,指示されている内容が ἔνδοξα であり,それが 'λεγόμενα' (1145b8-20) とも呼ばれている.第二に,アリストテレスは「ソクラテスの主張が φαινόμενα と衝突する」と言うが (VII.2, 1145b27-8),彼の結論は結局ソクラテスの主張と一致しており,したがってここでも,φαινόμενα は事実ではなく,一般的に言われることである.そして,語 φαινόμενα がもつこうした両義性は,他の関連語句にも見られる: ἐπαγωγή (APo. II.19, I.18 ↔ Top. I.12),ἀπορίαι (Meteor. II ↔ EN VII.2).
もし『自然学』を φαινόμενα から出発する研究と呼ぶなら,この第二の意味においてだろう (例: 場所の実在に関する問答法的議論 (VI.1)).この意味で『自然学』は physics よりは philosophy に属する: 自然誌ではなく問答法に取材し,経験的事実ではなく概念的パズルについて問題を提起している.以降〔第II節〕で論じるように,『ティマイオス』よりむしろ『パルメニデス』から主題のみならず術語・分析方法を得ていることも,この解釈を補強する.
しかしその前に,冒頭の問題に戻ろう.術語の両義性によって,『分析論前書』の一般論が『自然学』の方法を含む仕方を説明できるだろうか.今や両義性はあまりに根本的に見える.第二の意味の内部にさえ本質的区別が伏在する (一般的な信念,言語形式,および両者に関する哲学的テーゼ).かつアリストテレス自身両義性を区別する道具を持っていたし (Cael. III.4),第一の意味での φαινόμενα が自然学の諸原理の究極的な評価基準だとも述べている (III.7).ゆえに φαινόμενα, ἐπαγωγή, ἀπορίαι の一般的機能を問うのは間違いである.
それでも,上記『前書』I.30 の規定が『自然学』と『動物誌』の両方に適用できることは説明できる.二つの用法には多くの共通点がある.例えば,両方ともさらなる吟味を要する.また多くの生物学的「観察」は伝聞とならざるを得ない (HA II.1).また φαινόμενα はどちらの意味でも (『前書』の上記規定におけるように) ἐμπειρία と結びつくことができる.
そして,パルメニデスやプロタゴラスと同様,アリストテレスが φαινόμενα の両義を同化していることも,不思議ではない.なるほど究極的には知覚的 φαινόμενα が自然学全体の諸原理の適切さをテストするのではあるが,だからといって,その準備である『自然学』で知覚的 φαινόμενα に統制される必要があるとアリストテレスが主張する必要はない.むしろ『自然学』が注意を払うのは大半が問答法的データであり,『前書』I.30 の規定もそうしたデータをカヴァーしていることは明らかだと思われる.実際,演繹的推論の前提の選定の詳細について,「問答法についての論考」(46a28-30) を参照している.ここでは明らかに『トピカ』I.2 の主張が念頭に置かれている.
II
次に,『パルメニデス』の特に「アリストテレス」を対話者とする諸々の議論が『自然学』の形成に果たした役割を見る.これまでの読者は,『自然学』を混乱した雑種的な経験科学的試みだと見なしたために,先行者を他所に求め,アリストテレスの独創性を強調しすぎている.ゆえに,プラトンの影響を詳論することには意義がある――アリストテレスの方法と関心を解明するため,プラトンの影響を再考するため,また『パルメニデス』がアカデメイアで冗談ないし誤謬の手引きとして読まれたわけでないことを示すために.対話篇の積極的目的はここでは問わない――問うための準備を行うにすぎない.
プラトンは初めて『パルメニデス』で,不可分なもの (〈一〉,部分を持たないもの) は場所を持てないと論じた.場所をもつとは周囲をもつこと (何かに含まれること) であるが,不可分なものは自分自身にも他のものにも含まれえない (137d8-138b6).この場所観はゼノンやゴルギアスの議論にも見られる,ギリシア哲学において一般的な見方である.アリストテレスは Phys. IV でこれを ἔνδοξον として受け入れ,「点」に関するより洗練されたヴァージョンを作り上げている.結論は「点は場所を持つとは言えない」である (IV.5).この結論に至る過程で,「うちにある」の諸義が細かく分析される.なぜそうするかといえば,『パルメニデス』における議論が「うちにある」の両義性に依拠する (かつその露呈を目論んでいる) からである.
そしてプラトンによれば,部分を持たないものは移動できない.場所移動はプロセスであり,部分的に到達するという中間段階が必要だからである.その論証 (Parm. 138d2-e7) を『自然学』は引き継ぎ一般化している (VI.10, 240b8-241a6).論証の最初にプラトンは「不可分なものは回転さえできない」と述べるが (138c7-32),アリストテレスはこれを念頭に置きつつ,議論の最初に,点が回転体の部分である場合に移動すると言えるかどうかを論じる (VI.10, 240b15-20).なお「線は動く点の経路である」という定義をアリストテレスは (よく言われるようには) 受け入れておらず,この点でもプラトンの議論を受け入れている (Meta. A9, 992a19-22).
これに関連して「連続性」の説明について言えば,プラトンの定義 (Parm. 148e7-10) の定義を Phys. V.3 で改変しつつ取り入れている.ここでもアリストテレスは『パルメニデス』に一般的なアプローチのみならず諸々の特殊な着想をも見出している.さらに,接触の要件である「直接の (εὐθύς) 継起」の定義についても,アリストテレスはプラトンを修正している (Parm. 149a6 ↔ Phys. V.3, 227a1).
影響の全てを論じるには事例が豊富すぎるが,もう一つ極めて重要なグループがある.前述の通り,プラトン (およびアリストテレス) は運動を時間がかかり中間段階をもつものと論じた.だが『パルメニデス』のより後の箇所では,not-A から A への移行は瞬間的であると論じられる.ある時点で A でも not-A でもない (e.g. 運動しても静止してもいない) ことはありえないからである.プラトンは二度,老化の例を論じる: (141a6-14) X が Y と異なるものになるとき,Y が既に X と異なることはできない.ゆえにそのとき,同時に Y が X と異なるものになっている.ゆえに,より老いたものになること (becoming older) は,同時により若いものになること (becoming younger) でもある.(152a5-e3) だが,後に再び同じ例が取り上げられる.そして今度は,老いていく (grow older) 主体は老いていなければならない (must be older),と論じられる.全き現在 (bare present) において何かになっているのなら,変化のプロセスが生じている以上,それは既にそれがなっているものであらねばならない (must be something that it was becoming).ここで「X は異なる」と「X は異ならない」の二択は排中律に依拠しており,「異なるものになる」という第三項に依拠する以前の議論は崩れる.だがこの排中律が問題であって,静止から運動への変化を説明できないという冒頭の問題に行きつく.
これらの議論の脈絡全体をアリストテレスは引き継いでいる.一般に「A でも not-A でもない期間がある」というのがプラトンの結論だと見なされているが,アリストテレスはパズルをより根本的なものと考えており,それは正しいと思われる.というのも,排中律に従う限り,そうした期間のみならず,そうした時点が存在しないからである.アリストテレスによれば,家が非白から白へと変化するとき,そこまでが非白であるような不可分時間 (time-atom) を措定することは意味がない.なぜなら,第一に,不可分時間は他の時間と連続しないからであり,第二に,「白に変化する」から「白である」への変化が次に問題になり,無限背進する (VIII.8, 263b26-264a1).要するに,白でも非白でもない特定の時点を探すのは間違いである.白くなる最初の時点とは白くある最初の時点であり,これを所与とすると,時点は連続しえない以上,白くない最後の時点について述べるのは不適切である (VIII.8, 264a3-4).アリストテレスはこのようにして変化という状況と排中律を救いつつ,「異なりつつあるものは異なっている」とする点で (VI.6, 236b32-237a17),プラトンの第二の分析の教訓を引き継いでいる.――なおこの応答には副作用がある: プラトンは not-A から A への変化すべてを「突然の」変化としたが (156d1-e3),アリストテレスはこの語法をミスリーディングと見なして修正している.
かくして影響関係は明らかである.ただ「失われた共通の源泉がありうる」と反論されるかもしれない.むろんアカデメイアでの議論が元になっているはずで,その議論は例えばゼノンやゴルギアスの議論に基づく可能性はある.本稿の一般的な目的はそうした理論によっても説明されようが,そうした理論が上述の込み入った対応を説明することはできない.
もちろん『自然学』が完全に問答法的だと言うつもりはない.「自然学的」議論と「問答法的・論理学的」議論の区別を彼は強調しており,『自然学』の推論の一部は前者に含まれる.だが,経験的事実の知識を問題とする諸科学において両者の区別がいかに重要であったとしても,『自然学』もそうだと言う必要はない.実際,無限な自然的物体が存在しないことの問答法的証明に引き続く自然学的証明は (III.5, 204b4-206a8),議論の性質として前者とそれほど大きく違わない.この著作を通じた衝動は論理学的であり,主題ゆえに他の論理学的探究と方法を全然異にするということはない.アリストテレスの分類によれば『パルメニデス』の議論も自然学であることを思い起こすことは,理解に資する.