アリストテレスにおける二つの尺度説 McCready-Flora (2015) "Protagoras and Plato in Aristotle"

  • Ian C. McCready-Flora (2015) "Protagoras and Plato in Aristotle: Rereading the Measure Doctrine" Oxford Studies in Ancient Philosophy 49, 71-127.

アリストテレスが論じるプロタゴラスの尺度説には virulent なもの (Met. Γ, Θ, K) と benign なもの (Met. I) があり,前者は Tht. に由来し,アリストテレスはこれをはっきりプラトンの創作物として扱っているのに対し,後者は歴史的プロタゴラスに帰属している,という趣旨の論文.


1. 序論

Γ4-6 の Tht. 受容を論じ,それが私たちのプロタゴラス理解に与える影響を示す.

周知のごとくアリストテレスプラトンをよく読んでいる (e.g., EN における Prot. の痕跡).Γ4-6 もそのことを示す.

加えてアリストテレスプラトンプロタゴラスが創作である点も理解している.アリストテレス著作集で,プロタゴラスへの言及は11回,尺度説への言及は5回ある.後者は不整合であり,それは全てが歴史的プロタゴラスへの言及だとすれば問題だが,そうではない; Met. I1 以外は Tht.プロタゴラスへの言及であり,I1 は他6回の言及とともに歴史的プロタゴラスに対するものである.

まず異なる尺度説の存在を示し,次いで Tht. の Γ4-6 への影響を論じる.最後に,そちらがフィクショナルなプロタゴラスであり,一方の I1 は歴史的プロタゴラスに属することを示す.

2. 二つの尺度説

アリストテレスの「プロタゴラス主義」(Protagoreanism) には二つの変種がある.一つは λόγος Πρωταγόρου と呼ばれるもので,以下これを「悪性プロタゴラス主義」(virulent Protagoreanism) とも呼ぶ.現れが真理を確定するという考えが核をなし,PNC 違反がその主要な不条理である (cf. Γ4, 1007b20-251).Γ5 冒頭では λόγος Πρωταγόρου が PNC の拒否と等価とされる.

尺度説から λόγος Πρωταγόρου が出ていることは確かである.K6 が証拠となる2.これと Γ4, Γ5 は全て,真理が各人への現れにより確定される・に依存するという考えを示している.指標詞による相対化 (「きみにとって」など) を除けば,これは Tht. の解釈でもある (152a1-8).

Γ での見方は尺度説の唯一の見方ではない.I1 によれば:

Πρωταγόρας δ᾽ ἄνθρωπόν φησι πάντων εἶναι μέτρον, ὥσπερ ἂν εἰ τὸν ἐπιστήμονα εἰπὼν ἢ τὸν αἰσθανόμενον: τούτους δ᾽ ὅτι ἔχουσιν ὁ μὲν αἴσθησιν ὁ δὲ ἐπιστήμην, ἅ φαμεν εἶναι μέτρα τῶν ὑποκειμένων. οὐθὲν δὴ λέγοντες περιττὸν φαίνονταί τι λέγειν. (1053a35-b3)

これに先立って,〈知識や感覚は,それを通じて私たちがものを見知るかぎりで,尺度である〉とされる (単位を通じて長さ等々を知るように).ただしアリストテレスは,知識はむしろ測られるものだとも言い,おそらくそれによって世界が私たちの理解に先立つということを意味している.ここには Γ4-6 や K6 の驚くべき含意はない.「個々人は真であることの信頼可能な導きであるために尺度である」という意味にすぎないからだ.これを良性プロタゴラス主義 (beningn Protagoreanism) と呼ぶことにする.

尺度説の悪性解釈は任意の人間の任意の現れを尺度とするが,良性解釈は制約を加える (cf. τὸν ἐπιστήμονα, τὸν αἰσθανόμενον).良性の変種はプラトンには出てこないし,I1 にしか見当たらない.古代後期に至るまで,一般的だったのはプラトンの解釈である.

プロタゴラスを両方の仕方で解釈することはできない.I1 のアリストテレスは悪性解釈が正しいと現れる (φαίνονται) ことに気づいたうえでそれを斥けている.では λόγος Πρωταγόρου のほうはどうなるのか.こちらはプラトンプロタゴラスだ,というのが本稿の答えである.

3. 『形而上学』I1, 1053a35-b3 の詳細

肝要の I1 の読みを詳論する.最後の一文 "οὐθὲν δὴ λέγοντες περιττὸν φαίνονταί τι λέγειν" (1053b3) にはいくつかの読みがありうる.これが推論の帰結かどうかは問題であり,ここでは帰結だと理解する.

訳としては "Therefore they appear to say something surprising, though in fact are saying nothing surprising." これは περιττὸν を οὐθὲν と τι の両方に掛けている (cf. Alex.; Ross ad loc.; Elders).

  • τι だけに掛けて別の意味に理解することはできない.
    • 単に "well, he's not saying much" という場合はそれほど意味は違わないが,見下したトーンが文脈にそぐわない.
    • 哲学的にナンセンスだという非難だとすると誤読である.プロタゴラスを非難する理由がないからだ.
  • οὐθὲν だけに掛けるなら,"So even though they'are saying nothing remarkable, they appear to be saying something."
    • τι λέγειν が一片の真理を含んでいるという意味なら,アリストテレスによくある先行者への部分的同意の一例となる.だが,ここでプロタゴラスに皮肉なお世辞を言う理由がない.
    • τι λέγειν が「有意味な主張を行う」という意味なら,なるほど Γ4 との対応を見いだせる: 悪性プロタゴラス主義と異なり,良性プロタゴラス主義は有意味な主張をなしえている.ただしやはり悪性プロタゴラス主義にそもそも言及がないのが難点となる.

というわけで両方に掛ける.このときアリストテレスは現実を単なる現れと対立させている (cf. EN 7, 1154a22-5).

動詞が複数形なのは説明を要するが,単にプロタゴラスの生徒・同胞を指すと解する.「秘密の教説」の支持者を指すのではありえない.なるほど Tht.プロタゴラスの管財人・周囲の人々に言及しているが,Euthyd. にも同様の表現はあり,アリストテレスがこと Tht. に言及しているとは限らない.そして,そうした人々の主張の内容はプロタゴラスの元々の主張に寄生的である (cf. Γ4, 1007b22-3).それゆえ I1 の尺度説はプロタゴラスの主張といえる.

プロタゴラスが実際に言おうとしていたことの説明をアリストテレスが試みていることは ὥσπερ ἂν εἰ から読み取れる.これは類比による解明であり,勝手気ままなチャリティの発揮ではない.τούτους は尺度説を指す (φησι 以外は指せない).

こうした解明は知識と感覚が尺度だという前提に依拠している.ὥσπερ ἂν εἰ の修飾を用いたこうした解明には並行箇所がある: (1) NE 5.4, 1132a30-2, (2) Pol. 1265a29-31. これらは例えば DA 3.4, 427a27-9 の留保の付け方とは異なる.

I1 は尺度説に反対しない,かつ Tht. の議論を持ち出さない,唯一の箇所である.それゆえ,本稿の解釈が正しければ,アリストテレスの尺度説理解に関する唯一の独立の資料となる.

以下ではさらに,プラトンアリストテレスの一致,およびアリストテレスの反プロタゴラス主義的応答は,プラトンの影響によって最もよく説明されると論じる.

4. 弁明と思慮

プロタゴラスの弁明」(Tht. 166b-168c) は,尺度説と知識=感覚説に関する二つの異論に応答する.ここでは就中二つ目が重要であり,プロタゴラスは σοφία 論をもって応答する.いわく,知恵ある人間は,人々によりよいものが現れるようにする.そしてよりよいということは真であることとは無関係である:

ἀλλ᾽ οἶμαι πονηρᾶς ψυχῆς ἕξει δοξάζοντα συγγενῆ ἑαυτῆς χρηστὴ ἐποίησε δοξάσαι ἕτερα τοιαῦτα, ἃ δή τινες τὰ φαντάσματα ὑπὸ ἀπειρίας ἀληθῆ καλοῦσιν, ἐγὼ δὲ βελτίω μὲν τὰ ἕτερα τῶν ἑτέρων, ἀληθέστερα δὲ οὐδέν. (Tht. 167b1-4, OCT)

一部の解釈者は,よしあしが主観的経験と独立だという主張が尺度説に反すると考える (Cole, Long, Giannopolou).これがプラトンのもたらした緊張だとすると,アリストテレスプロタゴラスプラトンのそれである強い証拠になる:

οὐδ᾽ εὐθέως ἕωθεν πορεύεται εἰς φρέαρ ἢ εἰς φάραγγα, ἐὰν τύχῃ, ἀλλὰ φαίνεται εὐλαβούμενος, ὡς οὐχ ὁμοίως οἰόμενος μὴ ἀγαθὸν εἶναι τὸ ἐμπεσεῖν καὶ ἀγαθόν; δῆλον ἄρα ὅτι τὸ μὲν βέλτιον ὑπολαμβάνει τὸ δ᾽ οὐ βέλτιον. (Γ4, 1008b5-18)

そして,

εἰ δὲ τοῦτο, καὶ τὸ μὲν ἄνθρωπον τὸ δ᾽ οὐκ ἄνθρωπον καὶ τὸ μὲν γλυκὺ τὸ δ᾽ οὐ γλυκὺ ἀνάγκη ὑπολαμβάνειν. οὐ γὰρ ἐξ ἴσου ἅπαντα ζητεῖ καὶ ὑπολαμβάνει, ὅταν οἰηθεὶς βέλτιον εἶναι τὸ πιεῖν ὕδωρ καὶ ἰδεῖν ἄνθρωπον εἶτα ζητῇ αὐτά. (Γ4, 1008b19-23)

すなわち,よしあしの判断は世界に関する端的な (記述的) 判断を含んでいる.

οὐθεὶς ὃς οὐ φαίνεται τὰ μὲν εὐλαβούμενος τὰ δ᾽ οὔ: ὥστε, ὡς ἔοικε, πάντες ὑπολαμβάνουσιν ἔχειν ἁπλῶς, εἰ μὴ περὶ ἅπαντα, ἀλλὰ περὶ τὸ ἄμεινον καὶ χεῖρον. (1008b24-27)

要するに次のような推論である.プロタゴラス理論が思慮ある合理性 (prudential rationality) を説明できないなら,話にならない.だが思慮ある合理性は人々が矛盾を肯定しないことを含んでいる.それゆえ PNC は,矛盾を信じることができないという心理的主張としては,こうした事例に当てはまる3

だがこの議論は行為に関わる判断にしか当てはまらない.しかも行為に関わる判断が真である必要はないし,それゆえ事実について PNC が成り立つことの擁護にはならない.

では,なぜアリストテレスはこの反論を提示したのか.答え: プロタゴラスの特定の反対見解を念頭に置いている.ἁπλῶς は「相対的」の対義語である.この特定の見解とはソクラテスプロタゴラスの弁明に用いた見解と同じである.したがって,アリストテレスはこのプロタゴラスを念頭に置いているといえる.

Γ4 は様々な種類の議論のパッチワークにすぎない,という反論はあるかもしれない.それでも,よい解釈は,個々の論証の背後に整合的な哲学的動機を見出すべきである.Γ4 の主なターゲットが Tht.プロタゴラスだとすれば,説明はつく4.Γ5-6 にも Tht. の痕跡は見られる (特に 1011b11-15 は直接引用している).

5. 不同意から武装解除

Γ5 と Tht. はともに,人々が互いと同意しない事実から尺度説を論駁する議論を与えている.Tht. では自己論駁となっている.アリストテレスの論証は決定的に違うが,しかし (自分の議論には効いてこない) プラトンの議論の要素を再現している.これも Γ5 のプロタゴラスプラトンのそれである根拠となる.

ὅταν σὺ κρίνας τι παρὰ σαυτῷ πρός με ἀποφαίνῃ περί τινος δόξαν, σοὶ μὲν δὴ τοῦτο κατὰ τὸν ἐκείνου λόγον ἀληθὲς ἔστω, ἡμῖν δὲ δὴ τοῖς ἄλλοις περὶ τῆς σῆς κρίσεως πότερον οὐκ ἔστιν κριταῖς γενέσθαι, ἢ ἀεὶ σὲ κρίνομεν ἀληθῆ δοξάζειν; ἢ μυρίοι ἑκάστοτέ σοι μάχονται ἀντιδοξάζοντες, ἡγούμενοι ψευδῆ κρίνειν τε καὶ οἴεσθαι; (Tht. 170d4-9)

尺度説に関する人々のあいだの不一致が尺度説自体を掘り崩す.他方,アリストテレスの場合は:

πολλοὶ γὰρ τἀναντία ὑπολαμβάνουσιν ἀλλήλοις, καὶ τοὺς μὴ ταὐτὰ δοξάζοντας ἑαυτοῖς διεψεῦσθαι νομίζουσιν: ὥστ᾽ ἀνάγκη τὸ αὐτὸ εἶναί τε καὶ μὴ εἶναι, καὶ εἰ τοῦτ᾽ ἔστιν, ἀνάγκη τὰ δοκοῦντα εἶναι πάντ᾽ ἀληθῆ (τὰ ἀντικείμενα γὰρ δοξάζουσιν ἀλλήλοις οἱ διεψευσμένοι καὶ ἀληθεύοντες: εἰ οὖν ἔχει τὰ ὄντα οὕτως, ἀληθεύσουσι πάντες). (Γ5, 1009a9-15)

論証の妥当性の問題は措く (cf. Wedin 2004).ここで注目すべき並行性は,第一に同意しない πολλοὶ の存在である.プラトンの場合は μυρίοι. 問題は,全ての矛盾が真であることがここからは出てこない点にある.アリストテレスの議論に必要であるよりは強く,文脈上含意されるよりは弱い主張である.また誰もが真理に触れているというアリストテレスの一般的スタンスとも反対である.彼はなぜわざわざ「多くの人々」と述べるのだろうか.

アリストテレスはまず現れとともに信念を扱っている点で Tht. 170-171 に従っている.それゆえ,「多くの人々」への言及もプラトンに従っていると想定できる.多数性は Tht. の自己論駁には効いている (少なくともソクラテスにとって重要である).アリストテレスの文脈では効いてこない.ここにディスアナロジーがあるのは影響関係を言う上で不利ではないかと思われるかもしれない.だがアリストテレスは自己論駁以上に強い「全矛盾が真」の含意を出しているので,もはや自己論駁自体はどうでもよくなっている.

Γ5 が Tht. に従っている証拠はもう二つある.

  • まず,示したいのはプロタゴラス理論と PNC 拒否の同値性.それゆえ "τοὺς μὴ ταὐτὰ δοξάζοντας ἑαυτοῖς διεψεῦσθαι νομίζουσιν" (a10-11) は不要な前提である.だが Tht. の自己論駁では必要な前提である.
  • 自己論駁のダイナミクスが,アリストテレスが λόγος Πρωταγόρου を「全ての判断が端的に真」説として提示した理由を説明する.
    • Γ5 の議論は Tht. 170d-171c を主題と定式化の点でなぞっており,また定式化に際して λόγος Πρωταγόρου だと明記する唯一の箇所である.それゆえ当の理論は Tht. の特定箇所から引かれていると考えるべきである.
    • 問題は不一致が「真正の不一致」をなすかどうか.〈A:「お腹減ったな」B:「いやぼくは減ってない」〉は真正の不一致ではない.170c-171d のプロタゴラス説は真正の不一致を許す必要がある.ソクラテスの推論は,尺度説という同じものについてプロタゴラスと大衆の間に不一致があることに依拠している.
    • それゆえアリストテレスの λόγος Πρωταγόρου も真正の不一致を許すことになる.したがっていかなる見かけ上の不一致も真正の矛盾をはらんでいないようなヴァージョンではありえない.結果として限定句が除去されることになる.
      • アリストテレスは他の箇所で相対化するヴァージョンも扱っているが,それを λόγος Πρωταγόρου とは呼んでいない.
      • プラトンの自己論駁の議論も相対化しているではないか,という反論があるかもしれない.だが,その相対化は真正な不一致を妨げる相対化ではない.それゆえアリストテレスが限定句を落としたのは不思議ではない.

6. 強情な要求

アリストテレスは Γ4-6 の論敵を,アポリアから PNC を否定する人と,不正な論駁の要求をする人に分かつ.後者に対してアリストテレスは,主張・論証しうる/しえない事柄の区別によって対処する5.ここでは後者を扱う.

Γ6 でアリストテレスは,ἐν τῷ λόγῳ τὴν βίαν を求める人々が不可能な事柄を要求していると述べる.これは Γ5 の区別を受け継いでいる.Γ6 の議論はこの第二のグループに携わる唯一の議論である6.議論において力を求める人は,全ての現れが真だというプロタゴラス説を擁護する.これは驚くべき主張である; このようなつながりは見解に内在的なものではない.私の解釈では,これは Tht. 166-8 の「弁明」の見解であり,したがってプラトンが再構築したプロタゴラス説である.

[a] οὗτοι μὲν οὖν ῥᾳδίως ἂν τοῦτο πεισθεῖεν (ἔστι γὰρ οὐ χαλεπὸν λαβεῖν): [b] οἱ δ᾽ ἐν τῷ λόγῳ τὴν βίαν μόνον ζητοῦντες ἀδύνατον ζητοῦσιν: [c] ἐναντία γὰρ εἰπεῖν ἀξιοῦσιν, εὐθὺς ἐναντία λέγοντες. [d] εἰ δὲ μὴ ἔστι πάντα πρός τι, ἀλλ᾽ ἔνιά ἐστι καὶ αὐτὰ καθ᾽ αὑτά, οὐκ ἂν εἴη πᾶν τὸ φαινόμενον ἀληθές: [e] τὸ γὰρ φαινόμενον τινί ἐστι φαινόμενον: ὥστε ὁ λέγων ἅπαντα τὰ φαινόμενα εἶναι ἀληθῆ ἅπαντα ποιεῖ τὰ ὄντα πρός τι. [f] διὸ καὶ φυλακτέον τοῖς τὴν βίαν ἐν τῷ λόγῳ ζητοῦσιν, ἅμα δὲ καὶ ὑπέχειν λόγον ἀξιοῦσιν, ὅτι οὐ τὸ φαινόμενον ἔστιν ἀλλὰ τὸ φαινόμενον ᾧ φαίνεται καὶ ὅτε φαίνεται καὶ ᾗ καὶ ὥς. [g] ἂν δ᾽ ὑπέχωσι μὲν λόγον, μὴ οὕτω δ᾽ ὑπέχωσι, συμβήσεται αὑτοῖς τἀναντία ταχὺ λέγειν. (Γ6, 1011a13-25)

[e] からして明らかに,[d]-[g] はプロタゴラス説を扱っている.まずこのプロタゴラス説が特定の Tht. 断片 166b-168c から来ていることを示す.[d]-[g] は難読とされるが,この箇所の光を当てれば,説得ではなく力を必要とする論敵に議論が依存していることがわかる.この箇所のプロタゴラスは二つの異論に応答している.二つ目は,万人が真理を判断しているなら,知恵と無知を区別できないというものだった.他方で一つ目は,尺度説が自己矛盾するというものである.ひとは,何かを見ているなら,何を見ているかを知っている.だが,目を閉じていれば,それをもはや見ることができない.だが見ていたことは覚えている.それゆえ,当の人は同じものを知っていてかつ知らないことになる (164a-b).プロタゴラスは時と認識様式による現れの個別化によってこれに応じる.

αὐτίκα γὰρ δοκεῖς τινά σοι συγχωρήσεσθαι μνήμην παρεῖναί τῳ ὧν ἔπαθε, τοιοῦτόν τι οὖσαν πάθος οἷον ὅτε ἔπασχε, μηκέτι πάσχοντι; πολλοῦ γε δεῖ. ἢ αὖ ἀποκνήσειν ὁμολογεῖν οἷόν τ᾽ εἶναι εἰδέναι καὶ μὴ εἰδέναι τὸν αὐτὸν τὸ αὐτό; ἢ ἐάνπερ τοῦτο δείσῃ, δώσειν ποτὲ τὸν αὐτὸν εἶναι τὸν ἀνομοιούμενον τῷ πρὶν ἀνομοιοῦσθαι ὄντι; μᾶλλον δὲ τὸν εἶναί τινα ἀλλ᾽ οὐχὶ τούς, καὶ τούτους γιγνομένους ἀπείρους ...; (Tht. 166b2-8)

[f] はこの一節を引いている.アリストテレスの強情な対話者は,Tht.プロタゴラスと同じ仕方で自己弁護するのだ.

この解釈は,強情な対話者が矛盾を現に犯しているという主張 (Γ6, 1011a15-16) と相反しているように思われるかもしれない.だが,そうではない.プロタゴラスは二つ目の異論に対して弁明し,主観的評価にのみ依存するのではないような経験のよしあしを前提した知恵の説明を行っていた.それゆえ相対的でない何ごとかの存在を認めている.(こうしたプロタゴラスの主張を念頭に置いて [d] が書かれたのだとすれば洞察といえる.) [d]-[g] は全ての現れを真だと言いつつ,全てを相対的だとしない人間を描写している.この人は自己矛盾は避けたいと考えている7

さらなる並行性: [f] の要件はプロタゴラスTht. 166c3-7 で課す要件でもある.

γενναιοτέρως ἐπ᾽ αὐτὸ ἐλθὼν ὃ λέγω, εἰ δύνασαι, ἐξέλεγξον ὡς οὐχὶ ἴδιαι αἰσθήσεις ἑκάστῳ ἡμῶν γίγνονται, ἢ ὡς ἰδίων γιγνομένων οὐδέν τι ἂν μᾶλλον τὸ φαινόμενον μόνῳ ἐκείνῳ γίγνοιτο, ἢ εἰ εἶναι δεῖ ὀνομάζειν, εἴη ᾧπερ φαίνεται. (Tht. 166c3-7)

ソクラテスプロタゴラスが言った通りのことが偽であると示す必要がある.別の言い換え:

ᾧ σὺ εἰ μὲν ἔχεις ἐξ ἀρχῆς ἀμφισβητεῖν, ἀμφισβήτει λόγῳ ἀντιδιεξελθών. (167d5-6)

[d]-[g] の読みが (不明瞭な) [c] の読みを決める必要がある.一般的な解釈は,矛盾を主張する権利を要求しつつ論駁を要求している,というもの.この場合 166c や 167d との関連はなくなってしまう.アリストテレスは [f] でプロタゴラスを議論において力のみを求める者として扱っており,これは [b] と同じ人物である.[b] と [f] の間に文脈の転換はないので,同じ人を指している必要がある.他方でプロタゴラスは整合性も追求しているので,[b] と [c] は矛盾を主張する権利を要求してはいない.

それゆえ [c] は "they demand that we contradict them, but contradict themselves straightaway" となる.ἐναντία λέγειν が議論に負けるような自己矛盾を指すのはイディオム的用法である.εἰπεῖν/λέγειν で使い分けているのは主語が違うから.

これに対するありうる反論として,プロタゴラスと同定すると,彼の要求が不可能である理由が分からなくなる,というものがある.だが,Tht.プロタゴラスは決して実際に論駁されたとは認めない (171c).こうした人々は論駁が "ἴασις τοῦ ἐν τῇ φωνῇ λόγου καὶ τοῦ ἐν τοῖς ὀνόμασιν" たることを要求するのだ.プロタゴラスは自分の明文化された主張の整理を拒否するし,明確化のために持ち出した見解は矛盾している.したがって本当に不可能なことを要求しているのである.

7. メガラ派の不在

Γ でメガラ派を論じても良かったはずだがそうしていない.このことは元ネタの Tht. にメガラ派が不在であることから説明される.

現実化していない能力を認めないメガラ派に対するアリストテレスの論駁は不十分だと見なされてきたが (Calvert, Witt),Θ3 の議論には強力なものもある:

καὶ τὰ ἄψυχα δὴ ὁμοίως: οὔτε γὰρ ψυχρὸν οὔτε θερμὸν οὔτε γλυκὺ οὔτε ὅλως αἰσθητὸν οὐθὲν ἔσται μὴ αἰσθανομένων: ὥστε τὸν Πρωταγόρου λόγον συμβήσεται λέγειν αὐτοῖς. (Θ3, 1047a4-8)

ここで言及されているのはやはり悪性プロタゴラス主義である.ここでのメガラ派の主張は現れや判断ではなく感覚に関わるものだが,「ものが感覚される通りに現れる」という前提 (cf. DA 3.3, 428b10-13; 429a1-2) を補えばプロタゴラス説と結びつく.

「現れるときのみ真である」というメガラ派の主張は,一見虚偽の現れを許すように思われる.だが,ここで言われているのは「ものが知覚可能な性質をもつのは現実に知覚されているときだけである」ということであり,それゆえ虚偽の現れを認めないプロタゴラス説が帰結する.

それにも拘らず Γ4-6 でメガラ派が言及されていないのは,ひとえに Tht. に出ていないからにほかならない.

8. 結論: アリストテレスの真のプロタゴラス

そしてさらに,アリストテレスは驚くべき主張をする Γ, Θ, K のプロタゴラス,すなわち Tht.プロタゴラス,を歴史的プロタゴラスとして扱っていない,と言える.

アリストテレスが,まずプロタゴラスが驚くべき主張をしてはいないと考え,それから Tht. を読んで実は驚くべき主張をしているのではと考えた,ということはありえない.第一にアリストテレスは尺度説が解釈を要することに気づいていた ("περιττὸν φαίνονταί τι λέγειν").Tht.アリストテレスにとっての解釈の幅を広げてはいないし,驚くべき主張をしているという解釈を支持する理由も与えていない.I1 からは,実際のプロタゴラスが驚くべきことを言ってはいないという解釈が読み取れる.しかし良性プロタゴラス主義はけっして些末な主張ではない.したがってこれをプロタゴラスに帰属するのが合理的だとアリストテレスが考えたであろう,と考えられる.

他方で,Tht. を読んで Γ に反映させてから,尺度説の整合的解釈を考えて良性プロタゴラス主義に至った,という可能性はある.だが,それが歴史的プロタゴラスだとアリストテレスが考えるいわれはない.歴史的でないことは Tht. にはっきり示されている.

というわけで,尺度説に関しては I1 のみが歴史的プロタゴラスを扱っているという上述の解釈が帰結する.なお尺度説と無関係な6箇所は全て歴史的プロタゴラスを扱っていることに疑いの余地はない.I1 もこのグループに入るのである.

帰結として,Γ4-6 は単なるプラトンへの脚注にすぎず,歴史的プロタゴラスの資料としては使えないことになる.

他方で I1 で歴史的プロタゴラスに言及されている理由についてはさらなる研究が必要だろう.また Tht. と Γ の関係もプロタゴラスに限らずさらに研究されるべきである.


  1. 原注8: テクストは OCT を用いる.

  2. 原注11: “It is, however, uncontroversial that the material in K should be attributed to Aristotle: it is not spurious.” そして Natorp 1888 および Ross 1953, xxv-xxvii を引く.やや驚き.現在の一般的見解とは言えないと思う.

  3. Upton 1983. ―― Zilioli 2013 もそうだが,phychological PNC というルースな捉え方が意外と生き残っている.

  4. Γ4 全体がプロタゴラス一人を目標としている,という主張だとすれば,さすがに乱暴だろう.他の部分についても同じようなことが言えなければ説得力は出ない.

  5. 要検討の前提.

  6. 原注63: Γ4 の論駁的論証もこれを含んでいるかもしれないが明瞭ではない.Γ6, 1011a14 では誤って論証を求める人々も「容易に説得される」と述べている.〔この読み方は間違っていると思う.ただきちんと批判するには論点を洗い直す必要がある.〕

  7. McCready-Flora の a15-16 の訳は: “for they demand that we contradict them, while contradicting themselves straightaway.” 例えば Cassin-Narcy のように理解するなら色々と話が違ってくる: “En effet ils estiment avoir le droit de dire des contraires, dès qu'ils en disent."〔この論点は p.111 以降で扱われる.〕