古代のプロタゴラス受容史 Notomi (2013) "Protagoras in Historiography"
- Noburu Notomi (2013) "A Protagonist of the Sophistic Movement? Protagoras in Historiography" Johannes M. van Obhuijsen, Marlein van Raalte & Peter Stork (eds.) Protagoras of Abdera: The Man, His Measure, Brill, 11-36.
1. プロタゴラスは最初のソフィストか
1.1 プロタゴラスについての問い
プロタゴラスはソフィストか,ソフィストだということは何を意味するのか,という問いに,プラトン外の資料から新たな光を当てる.
ソフィスト思潮につき現代では以下の見方が提示されている:
- 見かけ上の知恵・空虚な弁論術の教師,相対主義的・無神論的アモラリスト.
- 主観主義者としてソクラテス・プラトン哲学を準備した人々 (ヘーゲル).
- 自然学・論理学・言語学・文芸批評・社会学・政治学・倫理学・認識論・宗教に従事した人々.
- 反哲学のヒーロー (ニーチェ),自由・平等主義・民主主義の代表者.
プロタゴラスはいずれの面にも登場する.
1.2 「最初のソフィスト」
Prot. 317b3-5 でプロタゴラスは自分をソフィストだと規定する.これは通常史実と見なされ,彼を最初の職業的教師とすることは後に一般化してゆく (DL 9.52; DL 80A2; Suda Π 2958 s.v.).だが:
- プロタゴラスの宣言が史実かどうかは検討の余地がある.Prot. の設定年代はプラトンの生誕以前である.
- プロタゴラス自身の宣言だとしても,彼自身が「ソフィスト」にどれくらいの意味を込めていたかは不明である.単に職業的教師というだけの意味かもしれない.
これらに答えるのは難しい.だが彼が同時代人や後代の人々にどう扱われたかは残された証言からわかる.
1.3 同時代の見方
喜劇詩人エウポリスの Κόλακες (421) のある断片はプロタゴラスを自然学者として特徴づけている (エウスタシオス).別の断片で彼はカリアスに医学の知識を授ける.エウポリスが「ソフィスト」と呼んだかは定かでないが,Ar. Nu. のソクラテスのイメージは直ちに想起される.すでに古代の注釈者は Nu. のソクラテスがむしろプロタゴラスの議論の方法 (賛否両論の構築) を表していることを指摘している.この方法はさらに Nu. 114-115 で弱論強弁と結び付けられており,エウドクソスはこの教えをプロタゴラスに結びつけている (Eud. fr. 307 Lasserre; cf. Rhet. 1402a24-28).
1.4 後代
次世代ではプラトンのほか Isocr. Hel. に言及がある.彼はアンティステネスとプラトンを批判して,その思潮をプロタゴラスやゴルギアス,ゼノン,メリッソスに遡らせる.プロタゴラスはここでソフィストと呼ばれているが,どれくらい他の思想家と区別するつもりでそう呼んだのかは不明である.Xen. Symp. 1.5 でもソクラテスはプロタゴラスをソフィストと呼ぶ.プロタゴラスはゴルギアスやプロディコスとともに主要な知恵の職業的教師とされている.これは4世紀前半の通念であったと思われるが,プラトンの影響もありうる.
1.5 プラトンの発明?
批判対象としての「ソフィスト」というラベルはプラトンの発明かもしれない.哲学者 (+)/ソフィスト (-) の区別は4世紀初頭まではほぼプラトンにしか見られない.区別の眼目はソクラテスとそれ以外の対比にある.
その他の同時代のアテナイ人は,ソクラテス派さえ,哲学者とソフィストを厳密に区別しない.クセノフォンもそうであり,アイスキネスはアナクサゴラスやプロディコスをソフィストに含める.アンティステネスはゴルギアスに教わりソフィスト的議論に携わっている.アリスティッポスは彼自身職業的教師であり,アリストテレスにソフィストと呼ばれている.彼は自身が職業的教師かつ哲学者であることを誇ったイソクラテスとアルキダマスに対応する.
2. ソフィスト vs. 哲学者
哲学者/ソフィストの間でのプロタゴラスの位置づけに緊張が見られることは,後3世紀の証言 (DL, セクストス,フィロストラトス) を見れば明らかである.プロタゴラスは DL とフィロストラトス両方の伝記に登場する唯一のソフィストであるが,彼は一方では哲学者に連なる独断主義者,他方では主要なソフィスト・修辞学者と見なされている.
2.1 哲学者プロタゴラス
DL 9.50-56 (8章) はプロタゴラスを扱う.プロタゴラスはイタリア哲学者の潮流に位置づけられている; 彼はデモクリトスの弟子とされる (実際には時系列的に疑わしい).DL の伝記的情報はおおむね欄外注 Rep. 600c (DK 80A3) および Suda Π 2958 に対応する.これらはプロディコスも含んでいるので,ディオゲネスが用いた資料は「哲学者」だけを扱っていたわけではないと想定できる.いずれにせよ哲学者としての位置づけは主に師弟関係による.
セクストスはプロタゴラスをより真剣に哲学者として扱っている.PH 1.32, 1.216, 7.60 はプロタゴラス主義とピュロン懐疑主義の区別を試みる.懐疑主義にとっても τὸ πρός τι は重要な道具だからだ (cf. アイネシデモスの十の方式,アグリッパの第三の方式).だがそれに続くセクストスの説明はヘラクレイトス説の入ったプラトンのプロタゴラス主義が混じってしまっている1.結果セクストスはプロタゴラスを独断主義者とみなす.同様にキケロも独断主義者に位置づける (Ac. Pr. 2.142).
他方でセクストスは真理の基準を拒否する独断主義者としても扱う (M 7.64).このようにセクストスがプロタゴラスを寛大にも独断的哲学に組み入れている点には留意すべきである.
2.2 ソフィスト・プロタゴラス
DL によれば,プロタゴラスは σοφίσματα を用いており,ἐριστικοί の父である.またエウアトロスとの論争の逸話も紹介されている (9.56).フィロストラトスもプロタゴラスを「旧ソフィスト」(Older Sophists) のリストに載せる.フィロストラトス自身第二次ソフィスト思潮に属しており,それゆえソフィストという職業を称賛している (DK 80A2).
「旧ソフィスト」の現代の標準的リストがフィロストラトスを情報源としている点には留意すべきである.より後代の古代の著作家は概してプラトンの対話篇をもとに「ソフィスト」に言及しているように思われる.挙がる名のほとんどがプロタゴラス,ゴルギアス,ヒッピアス,プロディコスだからである (時折トラシュマコスとポロスがこれに加わる).
このように,プロタゴラスはソフィストと哲学者の両方の伝統に属する.フォティオスはプロタゴラスを哲学者と修辞学者の両方のリストで言及している.
3. 学説誌における人間尺度説
プロタゴラスの人間尺度説は哲学者によって論じられてきたが,その扱われ方は人間尺度説の哲学における両義的立ち位置を示している.彼の相対主義的主張の眼目は哲学の転覆にある.プラトンが彼を反哲学者として論難した所以である.
人間尺度説は『真理』冒頭に登場する:
Πάντων χρημάτων μέτρον ἐστὶν ἄνθρωπος, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστιν, τῶν δὲ οὐκ (ないし μὴ) ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν. (DK 80b1)
これは三種の断片から構成される:
- Tht. 152a2-4; SE PH 1.216; M 7.60; DL 9.51; Eus. Praep. Ev. 14.20.2 のみが完全な引用を与える.プラトンのみが μὴ を報告している.
- Crat. 385e6-386a1; Met. 1062b12-14; Procl. In Plat. Parm. 631.7-8 Cousin, Elias In Arist. Cat. 204.14 Busse には前半部のみ報告されている.
- Tht. 170e7-8; 178b3-4; Met. 1053a35-36; Philo De posteritate Caini 35; Alex. In Arist. Met. 611.19-23 Hayduck に大ざっぱな言及が見られる.
主張の本質は相対主義にある: Whatever appears to me is (true) for me. だが古代では「あれよりいっそうこれだということはない」「全ての現れは真である」「全ては相対的である」という三つの単純化された形式で扱われてきた.
3.1 「あれよりいっそうこれだということはない」
μέμνηται ... καὶ Πρωταγόρου τοῦ Ἀβδηρίτου, ὃς ὁμολογεῖται κατὰ Σωκράτην γεγονέναι. (DL 9.42)
πᾶσαν μὲν οὖν φαντασίαν οὐκ ἂν εἴποι τις ἀληθῆ διὰ τὴν περιτροπήν, καθὼς ὅ τε Δημόκριτος καὶ Πλάτων ἀντιλέγοντες τῷ Προταγόρᾳ ἐδίδασκον. (SE M 7.389)
これが Tht. 170eff. や Euthyd. 286b-c を指すことは疑いない.ゆえにデモクリトスが同種の議論をしたことはありうる.
ἀλλὰ τοσοῦτόν γε Δημόκριτος ἀποδεῖ τοῦ νομίζειν μὴ μᾶλλον εἶναι τοῖον ἢ τοῖον τῶν πραγμάτων ἕκαστον, ὥστε Πρωταγόρᾳ τῷ σοφιστῇ τοῦτ᾽ εἰπόντι μεμαχῆσθαι καὶ γεγραφέναι πολλὰ καὶ πιθανὰ πρὸς αὐτόν. (Plut. Adv. Col. 1108f-1109a)
圧縮された議論だが,デモクリトスが尺度説を οὐ μᾶλλον 形式で理解し批判しているものと理解できる.おそらく同じ形式の議論を Tht. 171a1-3 ではプラトンがプロタゴラスの論駁に用いている.Met. Γ5 のプロタゴラス批判も同じ定式を用いている (1009b10).プロクロスの Tht. 161c-d 理解,アスクレピオスのプロタゴラス理解もこの線に沿っている.
3.2「全ての現れは真である」
プラトンは時折「ある人にとって」という修飾句を落としている.これが secundum quid の誤謬かは論争があるが,アリストテレス以来この単純な形式が標準となった; 彼がプロタゴラス説を PNC に違反するものとして取り扱っているとき,プロタゴラスは主観主義として扱われている.
この単純な形式によって学説誌家はプロタゴラスを例えばエピクロス (知覚に関する不可謬主義,意見に関する可謬主義) と同じグループに入れられるようになった.エピクロスの場合真/偽の違いは有意味だが,相対主義ではそもそも虚偽の可能性が排される.しかし学説誌においては両者はともに全ての現れを偽とするデモクリトスやクセニアデス,および現れの一部のみを真とするプラトン・ストア派などと三つ組で対照される (SE M 7.369, 388; Aëtius 4.9.1; Hermias Irris. Gentil. Philos. 9).
こうした単純化は不正確だが,古代の思想家の哲学的枠組みにおいては不可避だった.あらゆる真理や「ある」に「誰かにとって」を付けるというのは普通でないからだ.
3.3「全てのことは関係的である」
省略された修飾句は関係性 (τὸ πρός τι) に関して別々に論じられた.セクストスは関係性を「全ての現れは真である」の帰結として扱う.全ての現れは感覚者に相対的だからである: πάντα τὰ ὄντα πρός τι.
単純な形式とこれを結びつけると元の相対主義に近づくかもしれないが,これらは学説誌的文脈では別々に議論されてきた.「ある人にとって」を全ての現れに付すと,自己論駁論証はプロタゴラスの立場に効かなくなるし,PNC 違反を批判するいわれもなくなる (Γ6, 1011a21-28).後代の無名の Tht. 注釈者はプロタゴラス説を関係性として叙述し,ピュロン主義者に比する.
表現 πρός τι をプロタゴラスに初めて用いたのはプラトンである (Tht. 160b8-10).その際プラトンの καθ᾽ αὑτό / πρός τι の区別は主にエレア派的安定性とヘラクレイトス的流動との対比を眼目としている.フィロポノスは何ものも ὡσισμένη φύσις をもたないという立場をプロタゴラスに帰する.
だがアスクレピオスはセクストス同様,関係性をプロタゴラス的現れと関係付ける (In Arist. Met. 285.27-29 (ad. Γ.6, 1011a13)).他方で古代の注釈者は,主に Cat. 注解において,関係性を相対主義と無関係にプロタゴラス主義のメルクマールとする.すなわち彼を全ての存在者を関係項とみなす立場に位置づける.
知覚者と対象の関係はプロタゴラス的相対主義を説明するやり方の一つだが,相対主義を特殊な物理的知覚理論に還元する危険をはらむ.プロタゴラスは流動説との接合によってこの種の説明を準備したように見える.プロタゴラスはそうした解釈を拒否しただろうが,しかしそれはセクストスらがプロタゴラスを一種の独断主義として退けるやり方である.
4. 結論: 哲学におけるプロタゴラス主義
相対主義が自己論駁的か否かは単なる哲学的パズルではないし,単なるレトリックでもない.むしろ哲学の可能性に対する根本的挑戦である.プロタゴラス的相対主義は哲学的論証を完全に逃れうる.プラトンやアリストテレスが批判において論証ではなく問答法的議論に訴えた所以であろう.相対主義は全ての現れが真だと措定するのみならず,真と偽の区別を廃している.しかるに哲学は論証 (λόγος) を通じた真理の探究であり,プロタゴラス説はこの可能性を完全に崩してしまう.
プロタゴラスが哲学者として論じられたとき,彼の思想は他の哲学的意見と横並びにならざるをえず,哲学に対する深刻な挑戦と見なされなかった.プロタゴラスを哲学者と見るかソフィストと見るかの緊張関係は,哲学との関係における彼の両義性を示している.プロタゴラスの挑戦は古代において哲学への潜在的挑戦たりつづけたのである.