アリストテレスの φαινόμενα の一義性と学問上の役割 Nussbaum (2001) "Saving Aristotle's Appearances" #1

  • Martha Nussbaum (2001) "Saving Aristotle's Appearances" in The Fragility of Goodness: Luck and Ethics in Greek Tragedy and Philosophy. Update Edition. Cambridge University Press. 240-263, here 240-251.

Owen (1961) の方向性を Owen 以上に徹底させよう,という趣旨の論文.Language and Logos (1982) 所収の同名の論文はこれの shorter version (xliv). 本記事は全4節のうち前半2節まで.


δεῖ δ᾽, ὥσπερ ἐπὶ τῶν ἄλλων, τιθέντας τὰ φαινόμενα καὶ πρῶτον διαπορήσαντας οὕτω δεικνύναι μάλιστα μὲν πάντα τὰ ἔνδοξα περὶ ταῦτα τὰ πάθη, εἰ δὲ μή, τὰ πλεῖστα καὶ κυριώτατα: ἐὰν γὰρ λύηταί τε τὰ δυσχερῆ καὶ καταλείπηται τὰ ἔνδοξα, δεδειγμένον ἂν εἴη ἱκανῶς. (EN VII, 1145b1ff.)

EN VII ではアクラシア不可能説が「φαινόμενα に反する」として退けられる.これはどういう答えなのか.

本章の標題で示したように,φαινόμενα は救われる必要がある.言い換えれば,φαινόμενα はトラブルに巻き込まれている:

  • 'φαινόμενα' は様々に訳され,共通項が不明である.Ross は字義通りの「現れ」(appearance) を除く様々な訳語を充てる.言語・日常的信念との密接な結びつきを救い出す Owen さえ,その際に用法の深刻な多義性を批判している.アリストテレスの方法を理解するためには,「証言」であり「範例」であるとされる (EE 1215b26) φαινόμενα についてより正確に理解すべきである.
  • 哲学的方法として,「φαινόμενα を救う」というのはあまりに退屈で野心を欠くように見える.これがなされたとき「充分に示されている」とはどういうことなのか.何のために・誰にとって充分なのか,が問題である.

こうした問題にアリストテレスはよく気づいていた.「現れ」という語を哲学的「範例」として用いることで,アリストテレスは哲学的方法論と限界に関してそれ以前の認識論的伝統と一線を画した立場を採っている.すなわち,それまで「現れ」は通常「実在」(the real) や「真理」(the true) と両極をなしていた.我々の世界の見方が根本的に誤っている可能性を認めることから哲学は始まる.ヘラクレイトスによれば真なる自然は「隠れることを好む」(B123).パルメニデスも真理と現れを鋭く対照させる.プラトンも最重要の事柄の理解に必要な παραδείγματα は信念・感覚の世界には見いだせないと論じる (また cf. Resp. VI).

ゆえに,「φαινόμενα を救う」というアリストテレスの目標設定は,生ぬるいものではない.むしろエレア派―プラトン的な哲学に反対して,悲劇的―プロタゴラス的な人間中心主義の復権を期するものだ.以下でアリストテレスの方法と批判者への応答を詳論する.三つの問いが重要になる:

  1. φαινόμενα とは何か,どう訳すべきか,観察と言語のどちらに関係するのか.
  2. アリストテレスの哲学的方法とは厳密に言って何か.どうやって現れを収集し,措定し,扱うのか.いかに取捨選択し,何を達成するのか.
  3. なぜ現れに肩入れすべきなのか.現れはどこから真理の資格を得るのか.アリストテレスは批判者にどう応答できるのか.

I

'observed facts' という 'φαινόμενα' の訳は,ベーコン的描像をアリストテレスに帰する伝統的解釈に根ざす.これは誤りで,倫理学のみならず,Owen が示したように自然学的著作においても,φαινόμενα は信念から自由な事実ではなく,言語使用に現れる信念・解釈と見るべきである.Owen は「アリストテレスが「科学」と「形而上学」(世界観) を峻別した」という従来の見方を修正した.だが Owen も,ベーコン的描像の批判を徹底していない: この描像が φαινόμενα の全事例には当てはまらない,と論じるだけで,この語の両義性 (観察事実と信念) を残している.

Owen の議論は二点問題がある.一つは不当にも両義性を帰属させていること.もう一つは (その理由として) アリストテレスの生物学に誤った「ベーコン的」経験主義を帰していること.「未解釈の」「ハードな」データという考えを初期ギリシアの科学者は持っていなかったし,アリストテレスも緩やかな「経験」概念しか有していなかった.φαινόμενα は緩い概念だが両義的でも空虚でもない.

II

緩い概念とはいえ,これに関するアリストテレスの理論的考察と実践からは豊かな説明が引き出せる.まず関係する現れを措定する (set down) 必要がある.関係する現れは分野によって異なりうるが,必ず日常的信念や以前の学問的所論を含む.ここで現れの暮らすを決める「我々」は暗黙的に人間に限られ,かつ (ヘロドトスが論じるような) 他の原始的共同体は除外される.この点はしばしば文化的ショーヴィニズムだと批判されてきたが,しかしアリストテレスにもそうする理由はある.『政治学』一巻では,人間は理性的かつ非自足的であるために善悪・正不正の経験が可能だとされ,この点で野獣とも神とも区別される.これを一般化すると: F についての我々の見方 (conception) を研究する際,語 'F' の使用をもたらす条件に関して生活様式が我々と似ている人々だけがデータをもたらしうる.

現れを措定したなら,次にパズルやジレンマを措定する必要がある.対立意見を整理し,各々から帰結しうる事柄を明示しなければ,問題を回避するような解決を採ってしまう可能性がある.――そして懐疑派は「或る人は p と考え,他の人は non-p と考える」というこの地点で歩みを止める.アリストテレスはそうしない.全ての人は知ることを欲する.そして,我々の最も深い知的コミットメントは,無矛盾律に対するものである.「現れを救う」方法は,整合性を求めて断固進むよう要求する.

だが,どこへでも論証の進む先に行けばいいわけではない.最終的に (大多数の,最も基本的な) φαινόμενα が真になるかが立ち戻ってチェックされねばならない.これをしない哲学者たちをアリストテレスは批判する (Cael. 293a27, 306a5ff., GC 325a13ff.).

しかし,取捨選択の原則・手続きはいかなるものになるのか.もちろん主題によりけりだが,普遍的信念が完全に捨て去られることはないし,論証・探究に必要なものも棄却されない.

これに加え,アリストテレスによれば,誰が論争の良い裁定者かについて何らかの見方を共有しているか否かを,我々は自問する必要がある.真理はたいてい多数決の事柄ではない (Met. 1009b2).しばしば,誰が見解の良い判定者かについては,見解そのものより意見が一致している.『形而上学』Γ巻では,感覚に関するパズルに対して,「我々の実践が裁定の諸基準を与える」と応答している (1010b3-14).曰く,我々は現に専門家に頼るのであり,その点はさらなる正当化を必要としない.専門家の必要性は例えば APo. II.8 の定義論からも明らかである.

そして定義論に鑑みれば,'F' の意味自体が共有されている必要がある点から,データを取る共同体に関する上述の制限も理解できる.また,「真の哲学的・科学的進歩に伴う労苦を避けている」という前述の批判に対しても,「現れ」の方法と科学者の目的の間に (単純な) 緊張関係はない,と応じうる.現れの方法は人間の言語と日常的信念に敬意を払いつつ,そうした実践自体が科学的理解の必要を露わにする点もきちんと扱っている.

今のところ,「アリストテレスの哲学的/科学的方法が,『分析論』の演繹的方法論とどう整合するか」という問題は扱っていない.これはもちろん難題であり,ここで取り組み始めることはできないが,さしあたり自然学の場合,現れそのものから演繹的理念が出てくるとは言える.実際『分析論後書』の ἐπιστήμη 論は「我々が理解すると我々が考える」諸条件の説明から始まる.『自然学』の冒頭も「何ゆえ」の問いを「我々が」問い・答えるやり方から説明を始める.一方,倫理学の場合はそうはならない.

ただし,スコラ的解釈におけるように,『分析論』の第一原理が究極的には現れからではなく知的直観により把握される (さもなくば『分析論』の理念に合致しない),という反論はありうる.たしかに原理は,真・論証不可能・必然・第一で,結論に先行し結論よりよく認識される必要がある.かつある意味でアプリオリでなくてはいけない.だが,深い・基本的な現れはこれら全てでありうるし,理性的直観の特殊な行為を持ち出す必要はない.直観解釈は APo. II.19 を始めとする乏しい証拠に基づくが,Kosman, Lesher, Burnyeat らの論考は,これが誤読であると確定している.学習者が第一原理のレベルに達するには,「より一層なじむこと,おそらく一層の問答法的実践――要するに,知的な習慣づけ (intellectual habituation)」(Burnyeat) が必要なのだ.