思考と〈ある〉の同一性 Kimhi (2018) Thinking and Being, Introduction

  • Irad Kimhi (2018) Thinking and Being, Harvard University Press.
    • Introduction, 1-23.

読みはじめた.読みやすくはなく,かつ主要な主張はまだ言いっ放しで論証は本論に俟つ.ただ判る部分はなかなか面白い.はじめてパルメニデスの気持ちが少し理解できた気もする.

以下 'what is' は〈あるもの〉と訳し,'being' は場合により〈ある〉と訳す.山括弧はどうかとは思うけど,ないと読みにくいし,「存在 (者)」とは訳せないので.


1. 哲学の門

「哲学」を思考と〈あるもの〉(what is, being) の論理学的研究として理解するなら,パルメニデスの詩は最初の哲学的著作であって,「哲学的論理学」(philosophical logic) という発想の起源をそこに見て取ることができる.ここで哲学的論理学とは,真理 (実在,ἀλήθεια) を賭けた人間の論弁的活動を明らかにすることを通じた,思考と〈あるもの〉の相互解明を指す.それは,思考という活動の内側からする一人称的営為である.

哲学的論理学は,いくつかのパズルに従事することでのみ進展しうる.そのいくつかは,パルメニデスの女神の言葉の最も当惑させる部分に直面したとき,はじめて目に入る類のものである.現代人がこれに直面することは難しい.論理と言語について特定の見方を採っているために,困難をすでに克服したものと誤信しているからだ.実のところ,我々の見方は,上記の哲学的論理学にとって不適格である.

女神は ἐστί と οὐκ ἔστι の選択を提示する (fr. B2). いわば肯定的な道と否定的な道である.ここで ἐστί は主語も補語も伴わない.詩はその後だんだん主語を明らかにしていく,と通常理解される.女神は否定的な道は知られ得ず言い得ないと論じて,若者を肯定的な道 (真理の道) へと導く.

現代のパルメニデス解釈は「ある (ἐστί)」の読み方で割れる.これは「ある」の諸義の区別を既知と考える傾向を反映する.この傾向を表す初期の例は J. S. ミルで,彼は存在用法と述定用法で二分する.

他方,カーンはミルを批判する1.曰く,ミルは統語論的区別 (完全/不完全用法) と意味論的区別 (存在/述定用法) を混同した結果,非存在的な完全用法 (真理的な意味 veridical sense, 'to be true') を看過している.この用法が前景化することでギリシア哲学が誕生したのだと.

ところで,真理用法ということを語る場合,命題的複合性をもつもの (真理的なあるもの, veridical beings) の観念が前提される.カーンは第一に内容節ないし文が主語に来ることを前提しており,第二に (真理的用法を実在的でないと述べることで) そうした命題的構造をもつものの内在的〈ある〉(intrinsic being)2 と真理的な〈ある〉とを区別できるとも前提している.次いでカーンは真理用法の多義性を指摘する: 言明 (what is true/false) に適用する場合と,事態 (what is (not) the case) に適用する場合がある.ここにも前提がある: 二種の真理的な〈ある〉の間の対応に基づく真理の捉え方が,真理用法に伏在する.

カーンはパルメニデスの詩の ἐστί を真理用法で解釈する.その最大の根拠は ἀλήθεια が探究目標であることである.カーンによる (ギリシア哲学,とくにパルメニデスにおける) 真理用法の強調は概して正しい.だが,以下論じるように,内在的〈ある〉と真理的〈ある〉の区別,およびその帰結としての真理用法と真理の対応説の連結は,哲学的にも解釈上も誤りである.

特にパルメニデスは「思考と〈ある〉は同一である」(B3) と言っているのだから,思考と〈ある〉の対応説を帰することはできない.カーンの言い分は,「これは material mode で言えば「我々が知りうるものは何であれ事実だ」ということだ」というものだが,これはアナクロニズムである.

さらに,こうした読みは,パルメニデスの挑戦と哲学的論理学の課題のつながりを見失わせる.哲学的論理学による相互解明が可能であるためには,以下のことが明らかにされねばならない:「彼は青白い」から「彼は青白いと考える我々は正しい (我々は真なることを考えている)」まで,および「彼女は青白くない」から「彼女は青白いと考える人々は誤っている (彼らは偽なることを考えている)」までには論理的ギャップがないこと.――こうした推論は,適切に理解されれば,判断の真偽が成り立つこと/成り立っていないこと (what is or is not the case) に依存することを明らかにする3.そうすることで,カーンによる含意の順序と対象への関係の順序の区別は反駁される.

2. 二つの道

通常 fr. B3 は B2 の最後の行を補完するものとみなされる.カーンに従って〔真理用法で〕読むなら,B3 が述べているのは,思考はどこまで行っても成り立っていること (what is the case) に達するのだから,否定や虚偽は理解できない,というものだ.思考と〈ある〉の対応という考えに基づいて (より一般には,思考の真理性が思考に外的な何かに依存するという仕方で) 真理を説明する余地を残すと,B3 は理解不能になる.

一見して,思考と〈ある〉にギャップを設けることで (例えば思考を表象と見なすことで) 否定や虚偽を理解可能にできるようにも思える.だが,思考と〈ある〉の同一性の主張は,全く論理的な論点の表明として理解されねばならない.ギーチ曰く: A さんが「木星は丸い」(J1) と判断し,「木星が丸いという自分の判断は真だ」(J2) と判断するとしよう.J1 と J2 は一致する (stand together): A は J1 から J2 を導くのに何ら追加のデータを必要としない.だが対応説によれば J1 と J2 は全然別の事実に対応する.したがって対応説は斥けられるべきである.適切な真理の理論は,J1 と J2 を同じ仕方で (異なる説明に基づいてではなく) 真としなければならない.――或る人の判断を真だと評価することは,判断の行為自体に内的である.思考を実在の表象とする見方からはこれが言えない.

パルメニデスのパズルは,以下の二つの自明な命題の連言から生じる.(i) 否定の使用や,言明を偽と評価することは,完全に理解可能である.(ii) しかじかが成り立つと真なる仕方で考えることと,しかじかが成り立つことの間には,論理的ギャップがない.――女神は「(ii) が真だから (i) の可能性は排除される」と主張する.そこで,(i) を排除しない仕方で (ii) を説明することが,哲学的論理学の課題となる.(結論を先取りすると,(i) と (ii) を別々の論点と見なす限り,これは達成できない.)

一見,以下のフレーゲ的な考えによって困難を容易に除去できるように思える: 思考の真偽は何か外的なものに依存するが,「〜は真である」という動詞は思考の内在的・関係的性質を何ら表現しない.成り立つ事柄とは,単に,真なる思考 (thought that is true) である.

だが,この提案も,以降で示すように,「真や偽であることは,根本的に,真理的な〈ある〉とその内在的命題的統一性との分離を伴う」という前提に依拠している.この前提が不整合であることが示されねばならない.

3. 思考と〈ある〉についての推論

ウィトゲンシュタインは真理動詞 (veridical verb) の使用から生じるパズルに繰り返し言及した.

  1. 'How can one think what is not the case?'
  2. 'It is the mystery of negation: This is not how things are, and yet we can say how things are not.'

これら二つのパズルは,以下の「思考と〈ある〉についての推論」(syllogisms of thinking and being) の論理的妥当性に関連する:

  • (1) A は p だと考えている; (2) not-p; (3) A は偽なる仕方で p と考えている.
  • (1*) A は not-p と考えている; (2*) not-p; (3*) A は真なる仕方で not-p と考えている.

ここで「推論」(syllogism) とは,諸前提と結論からなる命題列で,諸前提を一度に抱くことと結論を抱くことの間に論理的ギャップがないようなものを指す.この意味で推論とは,究極的には,どのような諸判断を単一の意識のもとで一度に抱きうるかを反映する.

これはフレーゲ的「推論」(inference) ––真であると予め考える諸判断から何を結論することが許されるかによって定まるもの––と対照をなす.今後フレーゲ的な見方を注意深く検討すれば,任意の判断の内的な統一性とは単一の意識における他の判断との共可能性であることがわかるだろう.こうした推論は自明に真であるのみならず,〔前提と結論が4〕実質的に同一である.

命題 p を not-p に再出現する (recur) 論理的単位として見ることを通じて,我々は主張 p と not-p の論理的統一性を認識する.だが,p が別の命題に出現する (occur) とはどういうことか.この問いに対する通常の答えは,思考と〈ある〉についての推論を自明とする考えに対する大きな障害となる.

「外延的な真理関数的複合物 (e.g. "¬p") における p の出現と,内包的な非真理関数的複合物 (e.g. "A は p と考える") における p の出現には,根本的な違いがある」という考えは,ほぼ現代哲学のドグマと言える.こうした区別の仕方を所与とすると,当の命題 p には,それ自身真/偽であるという,論理的に「先行的な」性格を持つことになる.就中,p と not-p という矛盾する判断の対の論理的統一性に先行する (i.e., p の真理値が,〔p が〕not-p において果たす役割と独立に決定される).その結果,p が単に外延的に出現する文脈から,主体が思考・判断する文脈への移行を伴う推論を自明と見なせなくなる.

命題 p が外延的に現れる仕方と内包的に現れる仕方の区別の根底には,「広い文脈中の論理的構成要素は,つねにその関数的な構成要素である」という,論理的複雑性についての一様な見方がある.

デイヴィドソンは "On Saying That" において,「p は "A が p と判断する" に出現しない」と論じることで,上記の二種類の文脈の区別を否定した.ギャップを閉じようとすること自体は正しいが,やり方は誤っている: 思考と〈ある〉についての推論の妥当性を説明できていない.

4. 思考の特異性

ウィトゲンシュタイン哲学探究』§95 は,先述の二つのパズルが単一のパズルの部分であることを明らかにする.問題は,「思考は何か Einzigartiges なものであるはずだ」ということなのだ.

諸々の誤解が解消され,思考と〈ある〉についての推論の自明性を見て取れるようになったとき,思考の特異性は明白になる.反対に,思考をそれ以外の活動と融合させ (conflate),思考者をそれ以外の〈あるもの〉と融合させると,思考と〈ある〉についての推論は理解不能になる.そうした融合の例: (1) 論理的自然主義――思考の研究を自然的活動の研究の内部に置くこと.(2) 論理的像主義 (iconism) ――思考を現実の記述・鏡映と一種と解すること.

思考の特異性を見て取り損ねる最も初歩的な例は,思考と名指し・言及との混同である.『ソピステース』でパルメニデスのパズルと格闘するなかで,プラトンはこの点を導入し,主張・判断 (λόγοι) が真/偽であるのは名と述べという二種の表現の結合のおかげであると指摘する.

この点がうまくいっても,今度は λόγοι の複合性・統一性を結合の複合性・統一性と同一視する誤りが生じうる.特に単純な判断を述定的な規定 (predicative determination) と同一視する誤りがありうる (プラトン自身はこれには陥っていない).この誤りを犯すと,述定の統一性 (および名と述べの区別) 自体が理解できなくなる.

思考と〈ある〉についての推論を自明と見なすためには (あるいは,上述の通り "S is F" が "S is not-F" と独立に理解できないとすれば),ある命題記号を別の命題記号に埋め込むことを,非述定的 (非関数的) な仕方で理解しなければならない.つまり,"S is F" と "S is not-F" は内容ないし形式における述定的な違いではないし,それと同様に,「S は p だと考える」は「S は φ する」と表層的には形式において似るが,前者は後者と異なり S や p の関数ではない.「S は思考する」は「S は φ する」と根本的に異なる意味での「現実活動態 (activity)」であり (cf. Beere, Doing and Being),かつその特異性は実体や属性の特異さに存するわけではない.

いま自立的/共義的表現5 (categorematic / syncategorematic expressions) という術語を導入する.自立的表現とは述定的命題の構成要素となりうる表現,共義的表現とはそうでない表現である.述定的命題自体は共義的であり,「A は _ と考える」といった不完全表現も共義的である.命題や判断の共義的な違い6は,自立的な違いと異なり,現実のどこにも対応しない.このとき,「p」と「私は p と考える」の違い,および p と not-p の違いは共義的である.ある人の思考の意識 (the consciousness of one's thinking) はその共義的な違いの同定を伴うがゆえに言語使用に本質的に結びつく.

最後に,哲学的論理学に解明が要求される諸能力――判断の能力,言語能力,論理語の使用能力,自己意識の能力は,全て同一であると論じる.これを理解することは思考の特異性を理解することに他ならない.なお若干の表現 (e.g.「私」や人間の固有名) は共義的文脈にも自立的文脈にも出現可能であるというややこしさが後の方で明らかになる.本書は我々の〈ある〉を特定可能な思考者として理解する課題を我々に与える.

5. 論理的二方向性の統一性

ムーレラトスは標準解釈に反対して,パルメニデスの ἐστί を不完全用法で取り,ἐστί と οὐκ ἔστι を肯定的/否定的述定と理解する.また女神の議論について,否定が非存在を前提するというのではなく,むしろ否定述語が (主語について何も規定していないために) 無意味であるという趣旨に理解する.

ムーレラトスは,述定解釈で生じるパズルを真理解釈で生じるパズル (ウィトゲンシュタインのそれ) と別物として理解する (cf. カーンによる命題の〈ある〉と真理的な〈ある〉の区別).だが,真理的な〈ある〉は命題的統一の外側から適用されるようなものではない.したがって,真理的な〈ある〉/〈ありはしない〉の違いと,命題内の動詞とその否定の違いとの関係性が示されねばならない.真理的な統一性が述定的な統一性に外的なものでないと理解できれば,二つのパズルが同一だということも分かる.

以上のことを前提すると,思考と〈ある〉についての推論の自明性を理解するためには,"S is F" が "p" に代入され "S is not-F" が "not-p" に代入される事例に注目しなければならない.

この点に関してアリストテレスの助言が参考になる (が,それはミスリーディングでもありうる).すなわち,矛盾言明対のメンバーは各々結合 (σύνθεσις) と分離 (διαίρεσις) に存する.

だが,そう理解するとはどういうことなのか."S is (not-)F" を "S" と "F" の表すものどもの関係だと考えるのはまずい.否定的述定と肯定的述定を統一するものが失われるからだ.ポイントは,述定と述定の否定の違い (結合と分離の違い) は共義的な違いにすぎない,ということだ.

ムーレラトスは「道 (way)」というイメジャリーに注意を促す.矛盾言明対の内的共義的統一性を解明するため,以降では Met. Θ2 の「二方向の能力 (two-way capacity)」という観念を用いる7.ただし我々の関心は Θ2 とは異なり論理的な二方向の能力 (i.e., 命題の要素ではなく命題全体に係る能力) に局限される."S is F" と "S is not-F" は単一の二方向の能力の肯定的/否定的活動 (act) であり,この能力は "S is F" という肯定的活動によって特定される.肯定的な活動が先行するという意味でこの能力は非対称だが,肯定的な場合も必然的に対のメンバーである.

否定的述定も肯定的規定を用いるが,それは肯定的活動を表明する (display) ことによってである.肯定的活動も否定的活動も単一の規定を利用しており,それゆえ両者の間には共義的な違いしかない.両者は「結合」に関する (for) 単一の能力なので,アリストテレスの「分離」は「結合からの分離」と表せる.

ミルに従い我々は完全用法と不完全用法を区別した.これに対応するのは,動詞がもつ,肯定的述定にも矛盾言明対の共義的統一にも結びつくという両面性である.前者の意味での動詞は事実のもつ実在性 (reality) に結びつく.「属性を例化する」「概念に含まれる (fall under)」「イデアに与る」等々の論理哲学的術語は,肯定的述定的事実に内的な二項的述定的規定の説明であり,自立的である.その一方で,後者の真理的な意味での動詞は,判断ないし主張を示す.「ヘレネーは美しい」「カジモドは美しくない」という判断は,「_ は美しい」という共義的形式の二つの活動である.

肯定的事例が先行するとはいえ,肯定的事例さえ判断の統一性なしには述べられない.この意味で真理的な意味が「ある」の支配的な意味 (the dominant sense) だと結論づけることもできよう.

6. 隠された糸

否定的な道を斥けたのち,女神は〈ある〉が不生不滅,連続,不変であると論じる.これは自立的カテゴレマティックなものに限定されたパースペクティヴから見られた現実を示す.この非妥協的態度はパルメニデスの思考の厳格さを証す.この枠組みから解放されうる唯一の可能性は,上述の「二方向」的統一性に存する.

かくして,冒頭で述べた哲学的論理学の課題に,我々は立ち戻る.本書は論理学の課題についてのもともとの哲学的理解に応えるような見方を明確化する.以降の議論では,実在の述定的形式を,共義的なものの支配を認識することを通じて,解明することを目指す.同時にまた,哲学的論理学という発想が,プラトンアリストテレスからウィトゲンシュタインに至る哲学史の隠れた系譜をなすことを明らかにする.


  1. Cf. https://eta.hatenablog.com/entry/2017/08/04/231232

  2. これが何を指すのか分かりにくいが,後の方ではフレーゲの Gedanke に比される (p.18: “Similarly, Frege takes the being of thought to be independent of its being true or being false”).

  3. 意味不明瞭.

  4. 補い.ただもしかすると (1)-(3) と (1*)-(3*) が同一という意味かもしれない.

  5. 本当は「κατηγόρημα の / κατηγόρημα に伴う」というニュアンスを出したほうがいいと思うが (特に後の方だと言語表現以外にもこの形容が用いられるので),とりあえず慣例に従いこう訳す.

  6. これが厳密に言って何のことなのかは説明されていない.

  7. Cf. https://eta.hatenablog.com/entry/2020/01/13/235605