Yli-Vakkuri の議論は信念の種類の多義性を利用してしまっている Sawyer (2018) "Reply to Yli-Vakkuri"
- Sarah Sawyer (2018) "Is there a deductive argument for semantic externalism? Reply to Yli-Vakkuri" Analysis 78(4), 675-681.
これで概ね納得した.
Yli-Vakkuri は二つの前提 BroadT と Transparency が内在主義 NarrowC と不整合だと論じる:
- (BroadT) ,
- (Transparency) ,
- (NarrowC) .
だが,この議論は間違っている.BroadT を満たすのは指標的信念 (indexical beliefs) だけであり,Transparency を満たすのは非指標的信念だけである.ゆえに,この議論は信念内容概念の多義性にもとづいている.
- まず指標的信念を検討する.
- Sが「あれはリンゴだ」と発話するとしよう.NarrowC を前提するとき,複製的主体の対応する信念は同じ内容をもつ.だが BroadT より,それら二つの信念の真理値は異なるかもしれない.NarrowC より,指標的信念の内容は対象から独立でなければならない.
- こうした要件を満たす見解として,Burge 1977 や Segal 1989 によれば,指標的信念の内容は完全な命題ではなく,述定的命題断片として特定される.ゆえに,内容が真理値評価可能になるには文脈への適用を必要とする.つまり真理値の違いは内容の違いではなく文脈への適用の違いに存する.ゆえに Transparency は成り立たない (論理形式が誤っている).
- なお Farkas 2008 や Pitt 2013 の内在主義的説明も同様の帰結をもつ.彼女らも,対応する指標的信念の真理値の違いが内容ではなく文脈的適用の違いに存すると述べる (ただし指標的信念の内容が述定的命題断片だとは述べていないし,指標的信念とその内容を区別していない).
- ついで非指標的信念を検討する.
- この場合 Transparency は明らかに正しい.Transparency を前提すると,必然的に,対応する非指標的信念はすべて同一の真理値を持つ.ゆえに ¬BroadT.
- Yli-Vakkuri は BroadT を擁護するために真理が広いという直観に訴えており,その直観は信念の真偽が信じる主体を超えた事実に基づくという正しい考えに根拠付けられている.だが,そのことから,対応する信念が異なる真理値をもちうることは帰結しない.
- 例えば Segal 2000 の内在主義的見解は,真理値が必然的に同一だという帰結をもつ:
- Putnam 1975 の事例で言えば,Oscar が「水」で H2O を指し,Toscar が XYZ を指すとき,「水はつねに酸素をふくむ」という文が表す二人の信念の内容は異なるとされる.だが,内在主義的見解からすると,二人の信念は同一の (狭い) 認知的役割を果たすので,同じ内容をもつ――二人の「水」は水,双子水,その他の (ざっくり言って) 区別できない物質を含む水*を指す.このとき二つの信念の真理値は異なるものではありえない.
- Burges 1979 は,「関節炎」が厳密に関節にのみ発症するものとして定義されるコミュニティと,より広い定義をもつ反事実的コミュニティにおいて,「関節炎は太腿にまで広がりうる」という命題の真偽が異なる事例を検討する.この場合においても,内在主義者からすれば,同様に BroadT は偽だと言える.
- 例えば Segal 2000 の内在主義的見解は,真理値が必然的に同一だという帰結をもつ:
というわけで,Yli-Vakkuri の論証は外在主義の証明になっていない.