アリストテレスの「ある」概念とカテゴリー論 Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, ch.2

  • Sylvain Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, Vrin.
    • 1ère partie. L'idéalisme langagier d'Aristote.
      • ch.2. L'être et la liaison. 41-63.

コピュラと述語

  • 20 DI の関心は真偽を問える言明的 (ἀποφαντικός) 言説にある.真偽は「ある」「ありはしない」を名辞に付加してはじめて生じる (DA 1-2; cf. Tht. 186c7-8).
  • 21 DI の「ある」はまずもってコピュラ的用法で理解すべきである (contra de Rijk).そうした「ある」は付加的に述定される第三項であり (10, 19b19-20),それ自体は何も意味表示しない (特定の分離観念に対応しない) ため,名詞でも動詞でもない.
  • 22 「ある」は言明に明示的に出現しなくてよい.名詞+動詞で言明はできる.ただしその場合も「ある」は動詞の中に暗黙的に含まれている
    • この限りで,動詞のなかの固有の内容 (「述語」) と連結機能を分離できる.動詞の特徴はコピュラに吸収される.こうした分離は APr. のなかで完全に達成される.
  • 23 コピュラを抽出することで,動詞のみならず形容詞や名詞も ῥῆμα と呼べるようになる.
    • 他方それによって,何かに述語づけられるものが第一義的な ῥῆμα となる (例: 単なる「白」ではない「〜が白である」).この限りでカテゴリーは〈あるもの〉の類とみなせる.
  • 24 他方 DI には「ある」の完全・絶対用法もある:「人間がある」(10, 19b12-19).この場合は「ある」が動詞になる (b5-12).
    • これは真偽が連結に存することの反例ではない; これもコピュラ+述語に分解でき,述語は「ある」そのものである.
  • 25 その場合,コピュラの「ある」と述語の「ある」(l'être-copule et l'être-prédicat) はどういう関係にあるのか?
    • 両者は同じ「ある」(l'être) であり,ただコピュラとして使われるとき (εἶναί τι) は主語に単に付帯的に述定されるのに対し (「ホメロスは詩人である」),述語として使われるとき (εἶναι ἁπλῶς) は主語に自体的に述定される.
    • コピュラの「ある」は結びつきによる確定 (la détermination par la liaison) を意味する.述語の「ある」も同じだが,特定のこれこれの確定があるわけではなく,主語がそれ自身で十全に確定される (il est pleinement déterminé en lui-même) のであり,それゆえ主語があらゆる可能な述定的結びつきの基礎となる.述語の「ある」を主語に述語づけることで主語はウーシアーになる (cf. APo. II 2, 90a9-14; Met. Θ8, 1050b16; esp. Z1).
      • Z1 の τὸ ὄν は単なる εἶναι の名詞化であり,いかなるモノ化 (réification) も含意しない.ゆえに l'étant ではなく l'être と訳すべき.(この論点は「τὸ ὂν ᾗ ὄν の学知」の理解にも関わる (p.242).)
      • Z1 によればウーシアーとは τι ὡρισμένον である.ウーシアー以外が「ある」のはそれを主語として (あたかもウーシアーのように) 扱いうるかぎりのことである (例:「ホメロスは詩人である」).
  • 26 端的な「ある」が実在ではなく確定性を意味するという本解釈は,述定用法を中心に置く Owen-Kahn-Brown 解釈に一致する.特に Brown は単独で用いられる「ある」がつねに何らかの述語によって補完されうると論じたが,その理由は「ある」が確定を表す点に求められねばならない.
    • ゆえに「ある」の本義は結びつきにある (cf. Θ10).主語が「あるもの」として考えられるためには,主語は述定から出発して考えられねばならない.なまの所与は未だ「あるもの」ではなく,述定的命題を用いて指示されてはじめて「あるもの」になる.この場面で関係から主項への特徴の移転が生じる.次に述項についても同様の移転が生じることを見ていく.

カテゴリー論

  • 27 κατηγορία が述定 (の類),述語 (の類),ある (もの) の類のいずれを意味するのかは定かでない.これらの関係,および,これらの関係が命題的構造の項への移行にどう対応するかを検討する.
    • Cat. の時点では移行が完了してしまっている (4, 1b25-27).カテゴリー概念の論理的生成を考えるには,むしろ Top. I 9 から始めるのがよい.
  • 28 アリストテレスは言語的・統語的主述関係を ὄνομα-ῥῆμα で表し,存在論的主述関係を ὑποκείμενον-κατηγορούμενον で表す (Kahn).前者のプラトン的区別を言語外に適用したのが後者であり,そのプロセスが Top. に見られる.
  • 29 Top. では所謂プレディカビリアとカテゴリーの関係が扱われる.I 9 の "τὰ γένη τῶν κατηγοριῶν" の κατηγορία は「述語 prédicat」(Ebert) か「述定 prédication」(Brunschwig, Smith, Frede) か,という問題がある.
    • κατηγορία はコピュラを含む (i.e., 他のものについて言われる限りの) ῥῆμα である (cf. §22-23).ゆえに κατηγορία は,述語を含む限りでの述定,ないしは述定機能を含む限りでの述語だと言える (ここにはアクセントの違いしかない).
  • 30 プレディカビリアは述定的結びつきの様式である.プレディカビリアを決めるのは述定的つながりの力の度合い (degrés de force) であって (Granger),情報内容のタイプではない: 色は白との関係では類だが,表面との関係では固有性である.言い換えれば,プレディカビリアは主語の関数である.
  • 31 他方 Cat. の場合,述定は形式ではなく内容との関係から考えられる.カテゴリーは基礎に置かれるものに関する質問と相関的である.カテゴリーとは応答において登場する述語の様式であり,それは質問が指定する述定的結びつきのタイプに由来する.
  • 32 だが一旦応答が成立すれば,述語を述定的言明から切り離して新たな主語にすることができる (「白い blanc」→「白 le blanc」「色づいたもの coloré」「色 la couleur」).だが,このとき述語は述定機能から単純に切り離されるのではなく,むしろ述定機能が述語に統合されている (cf. Top. I 9).
  • 33 新たな主語 (ἐκκείμενον) について10種の問いを問うことはできず,τί ἐστι を問うしかできない.例えば白色は ποῖον に対応する主語に埋め込まれており,ποῖον の問いは元の主語についてあり得る他の諸規定から質的規定を分離しているからである.元の場合と新たな場合で働いている述定機能は同一であり,主語の本性だけが異なる.
  • 34 「白いものである est blanc」などの述語は,ἐκκείμενον ないしその類 (例: 白色) に述定されるときは τί ἐστι を示し,ソクラテスに述定されるときは ποῖον を示す (103b35-39).両者で異なるのは述語の内容ではなく結びつきのタイプである.
  • 35 以上の解釈によって,カテゴリー論のいくつかの古典的困難が解決できる.
    • 全カテゴリーが「自体的」と呼ばれることもあれば (Δ7) 実体以外が付帯的と呼ばれることもあること (esp. APo. I 22): 前者は τί ἐστι, 後者は κατ᾽ἄλλου ὑποκειμένου の観点を示す.
    • カテゴリーを述定のクラスとも述語のクラスともみなしうること: カテゴリーとはまずもって述定機能のクラスである.
      • 述定機能とはまずもってコピュラ「ある」の機能である.ここからしてカテゴリーは〈あるものども〉の類となる.
  • 36 ウーシアーは κατ᾽ἄλλου ὑποκειμένου には述定されないがそれ自体には述定されうる (Brentano).この限りでウーシアーも κατηγορία である.
    • ウーシアー以外の主語にも τί ἐστι を問いうるが,そうした主語が元来 τί ἐστι 以外の問いの結果であるのに対して,ウーシアーの主語は分析しても τί ἐστι 以外の述定機能を示さない.
  • 37 〔ここまでのまとめ.〕
  • 38 ゆえにウーシアー概念の起源は,経験的というよりは,むしろ論理的である; 論理が学知の対象の構成に介入している.