デフレ主義 Burgess & Burgess (2011) Truth, Chap.3

  • Alexis G. Burgess & John P. Burgess (2011) Truth. Princeton University Press.
    • Chap.3. Deflationism. 33-51.

3. Deflationism.

次はパラドクスを通さず直接に真理の本性への問いに動機づけられた研究にうつる.

デフレ主義」は,真理を形而上学・認識論・倫理学の概念とする見方に対立する.デフレ主義は典型的には以下の三つの見解にコミットする.

  • 何かに真理述語を適用することは,単にそれを言うことと等価 (equivalent) である.T-図式はこの等価原理 (equivalence principle) の一ヴァージョンである.(「何か」とは何か,「等価」が何を意味するか,は様々である.)
  • 等価原理は真理述語の意味の説明として充分である.真理述語の理解は等価原理の認識 (recognizing) 以上を必要としない.(「認識」(recognition) の内実は様々である.)
  • 真理の本性の説明は,「真理」の意味の説明に尽きる.

とはいえ,デフレ主義に共通の本質のようなものはなく,上記の特徴付けに沿わないものもある.主だった区分として,「ラディカルなデフレ主義」と「穏健なデフレ主義」がある.前者によれば,伝統的に真理述語と呼ばれるものは「本当は述語ではない」ないし「文法的に述語であるだけで,論理的には述語ではない」.この見解は,次の二つの言明のうち,後者の話者は前者について述べている,という Tarski の見解と相反する.

  1. 金銭愛はあらゆる悪の根源である.
  2. 金銭愛はあらゆる悪の根源である,ということは真である.

3.1 余剰

Ramsey の余剰説はデフレ主義の最初のヴァージョンといわれる.彼によれば,1 と 2 は,全く同一の命題を表現しているという強い意味で等価である.両者の違いは文体上のものにすぎない.

真理述語が余剰であるとすれば,消去可能であるはずである.しかし,消去困難なケースは多々ある.とりわけ難しいのは,以下のようなケースである.

  • 7.「盲目的な」肯定・否定・疑問.
    • Radix malorum est cupiditas は真である.
    • 1テモテ 6:10 が真であれば,マルコ 10:25 は真である.
    1. 一般化.(これは少なくとも疑問の場合には「盲目的」ケースと同一視しにくい.)
    2. Radix malorum est cupiditas が何を意味しようと,それは真である.
    3. 1テモテ 6:10 やマルコ 10:25 が何を言っていようと,前者が真なら後者も真である.
    1. モーセが何かを述べたのなら,それは真である.

Ramsey なら,9 を次のように分析するかもしれない.

とはいえ Ramsey は,日本語において「真」が余剰であることを示しえていない.だから,「真」の概念なしにこうした量化子の意味を理解できるかどうかは,依然として問題である*1

Prior は代文 (prosentence) を我々の言語に付け加えることで,「真」を余分なものにしようとした.これによれば,次のような文の分析が可能になる.

    1. If Moses says something, then it is true.
    1. If Moses says that somewhether, then thether.

だが,「真」の理解と独立にこれらを理解できるかは問題である.

3.2 他のラディカルな理論

歴史的にみて,次のヴァージョンは Strawson のパフォーマティヴ理論である.彼は,2 は 1 が表す命題についての命題を表してはいないと考え (↔︎ Tarski),1 と 2 が同一の命題を表すとも考えなかった (↔︎ Ramsey).Strawson によれば,2 は 1 について何かを述べているのではなく,むしろ 1 を是認 (endorse) しているのである; 術語的に言えば,コンスタティヴではなくパフォーマティヴである.(他の日常言語学派の哲学者は「よい」(good) を似た仕方で分析した.)

だが,Strawson は一番単純な例以外をほとんど考えていない.真に論理的に複雑な場合に,同様に分析できるかは怪しい.(「よい」の分析も同様.)

また,コンスタティヴとパフォーマティヴが排他的であるかも疑わしい.ジャーゴンの考案者である Austin は,最終的には排他的でないと考え,Strawson との論争で一種の対応説を擁護した.

Ramsey 説に最も近い後年の見解は,1970年代の Dorothy Grover やその Pittsburgh の同僚たちによる代文説 (prosententialism) である.Grover は,「それは真だ」という表現自体が,Prior のいう「代文」に他ならないと考えた.

しかし,この説も 7 や 8 の疑わしい解釈に基づくほか,「〜は真である」が (真正の述語でないのみならず) 独立して意味をなす単位でさえないという尤もらしくない主張を保持している.

Brandom の新代文説 (neoprosententialism) は,これらの特徴を回避している.彼は「〜は真である」を代文形成オペレータ (prosentence-forming operator) と見なした.「箴言 16:18」のような句は,偽装された一般化ではなく,前方照応的な表現である.

新代文説の問題は,明白な先行詞 (precedent) のないところで代名詞にあたる挙動を代文に帰しているという点のほかに,例えば以下の文がフェルマーの定理と同じ内容を持つという尤もらしくない含意を有する.

  • 数論における最も有名な予想は真である.

3.3 引用符解除

次に出てくるのは Quine の引用符解除説 (disquotationalism) である: 引用が文を名詞的なものにするのに対し,真理述語はそれを等価な文に戻す働きをする.真理述語には一般化を表現するという不可欠な働きがあり,そのことが,真理述語がそれ自体としては形而上学的・認識論的・倫理学的であることなしにこれらの分野のテーゼに登場する理由である.

Quine は真理述語の内在的 (immanent) 用法と超越的 (transcendent) 用法を区別する.前者は或る言語内で完結する使用であり,他言語への適用は後者になる.反命題主義者 Quine は前者を優先する.我々の言語内でも,指標詞を含む場合は,文の言い直す (transpose) 必要がある.加えて他言語の場合は翻訳する (translate) 必要もある.

特にこれまで接触したことのないグループの言語との間の翻訳の場合,翻訳の良し悪しはあっても,正誤を決めることはできない (悪名高い根源的翻訳のテーゼ).確定的に翻訳できない場合に真理述語を他言語に適用するのは,証拠ないしはあらゆる非言語的事実にさえ規定されきらない理論的外挿 (a theoretical extrapolation underdetermined by evidence or even by all nonlinguistic facts) でありうる,と Quine は言い,これについては対処しない.こうした見解はもはやデフレ主義とは言えないにせよ,準-デフレ主義 (quasi-deflationist) とは呼べるかもしれない.

なお「等価」の定式化は問題である.全ての文脈における交換可能性は要求が高すぎる (e.g. 信念の文脈).真理保存性に訴えることもできない (循環するため).

3.4 他の穏健な理論

近年もっとも議論されているのは Horwich のミニマリズムである.Horwich は Quine とは違って命題主義者であり,また「等価」を一定の仕方で説明している.彼によれば,真理述語を理解しているとは,任意の T-双条件命題 (と認識しているもの) を受け入れる傾向性を有することである.古典論理を背景にすれば,これは T-intro. と T-elim. (と認識しているもの) の推論をする傾向性に他ならない.(「認識」条件は誤りの可能性を考慮して入っている.)

Horwich が強調するところでは,この理論は真理概念の理解を A-概念 (acceptance, assertion) や I-概念 (inference, implication) の理解に依存したものとはしていない; 何かが受け入れ可能 (acceptable) だと考えることなしにそれを受け入れる (accept) ことはできる.(さもなければ,受け入れる前に,受け入れ可能だということを受け入れる必要が生じ,無限背進する.)

だが,こうした解法には代償がある.諸々の T-双条件文を公理とすることに対する Tarski の批判が的中するからだ: そうした真理の見方からは一般法則を導くことができない.例えば「何かがしかじかであるとき (things are thus)」のようなプレースホルダーに対しても T-intro. や T-elim. の推論を行う傾向性を有する必要があると思われる.また,もし真理述語の理解が「各々の」ではなく「全ての T-双条件文が受け入れ可能だと認識すること」等々だとされるなら,T-概念の獲得が A-概念や I-概念の保有に依存することになるだろう.

なお,命題と属性について語ってよいとするなら,上記見解は「真理は命題Pへのそれの帰属がPと含意しあうような命題Pの属性である」と定式化できる.McGinn の自己消去理論 (self-effacement theory) がそれであるが,これはデフレ主義だと見なされない場合もある.このように,デフレ主義の定式化はおろか,何がデフレ主義かにも争いがある.だが,冒頭で示したデフレ主義の特徴づけに当てはまる何かが正しいに違いない,という考えは,いまだ普及している.

3.5 標語づくり (sloganeering)

近年デフレ主義は Ramsey や Quine にない類のレトリック––おそらく Rorty に由来する––をしばしば伴う.例えば「真理は (実質的な) 属性ではない」.これは人気のある標語だが,デフレ主義の特徴づけとしてはうまくない.「属性」の捉え方によって多義的 (または無意味) になるからだ.

すなわち,「属性」には畳語的な見方と実質的な見方がある.例えば「何々がかくかくしかじかを行う」を「何々はかくかくしかじかを行うという属性を持つ」と拡張するとき,属性は畳語的 (pleonastic) である.こうしたものだけを真正の属性と認める哲学者がいる.他方,そうではない,例えば「人間である」といった実質的 (substantive) な属性だけが真正の属性であるとする哲学者もいる.また両方 OK・両方だめという立場もある.

「真理は属性ではない」というスローガンに,畳語的用法だけを認めるラディカルや,実質的用法だけを認める穏健派は同意するかもしれない.実質的用法だけを受け入れるラディカルにとっては控えめに過ぎ,畳語的用法を受け入れる穏健派にとっては完全に間違いである.

むしろ,先ほどの「「真理であるとは何か」を言うのに「何かを真理と呼ぶことは何を意味するか」以上のことを言う必要はない」の方がましな定式化であろう.

もう一つの候補は,「真理についての実質的な問いは存在しない」というものだ.これはしかし一見不合理である: 或るフランス人が ma mère est fâchée と言い,傍観者が「彼の言ったことは真である」と述べたとしよう.すると我々は「なぜ?」と問うことができるし,それは実質的な真理についての問いでありうる.––だが,デフレ主義者はこれに応答できる.すなわち,この問いへの回答は,語の意味や感情についての実質的な回答と,真理についてのトリヴィアルな回答に分かれるのである.

3.6 指示

真理についてのデフレ主義者は,"他の alethic な概念,例えば指示 (reference) についてのデフレ主義も採用することが多い.とりわけ真理についての代文主義者は指示についての代名詞主義者であることが多く,ミニマリスト,引用符解除主義者,についても同様である.もっとも,「デフレ主義」は近年流行のラベルであって,極めて多様な教説に付されているので,alethic な概念についてのデフレ主義が或る「X についてのデフレ主義」にコミットしていると決めつけるのは早計である.

*1:どれくらいいけてる批判なのかよくわからない (次の代文説批判も同様).量化子の推論上の振る舞いが「真」の概念と独立に理解できるという可能性は充分あるのではないか.