ギリシア哲学における「ある」の意味 Kahn, "Greek Verb 'To Be' and the Concept of Being"

  • Charles H. Kahn, “Greek Verb ‘To Be’ and the Concept of Being” in Foundations of Language 2 (1966), 245-65 [repr. Kahn, Essays on Being (New York, Oxford University Press, 2009), ch.1].

ギリシア語の be 動詞 εἶναι の真理用法(veridical use)*1に着目して、これをギリシア存在論パルメニデスプラトンアリストテレス)における「ある」(Being)の中心的な語義とし、J. S. ミル流の繋辞‐実在二分法(copula-existence dichotomy)にもとづくギリシア哲学批判を退ける論文。

この論考の諸々のテーゼはその後さまざまなかたちで補足・修正されている *2 が、「ある」の真理用法を第一に据えるという点は一貫している。

要約 *3

本論文はギリシア存在論の文献学的基礎(philological basis)を扱う。すなわち、いかにして哲学者は「ある」という語の前哲学的用法に影響されたか、を問う。あらゆる思考は言語の構造によってある程度左右されるが、それは必然的に限界ないし不利益を意味するわけではない。ある言語特有の論理的混乱というものはありうるが、哲学者はつねに言語のうちにない区別を設けることができる。ギリシア哲学のアラビア語という非常に異なる言語への翻訳が実り多いものであったことも、ギリシア哲学が言語により限界づけられてはいなかったことを示す。とはいえ、ある言語においては特定の観念をより容易かつ自然に形成しやすいことは事実であって、ギリシアにおいて論理と哲学が生み出されたこともそこから説明できる。――以上は本論考の前提である。

哲学の伝統における「ある」の重要性は論を俟たないが、他方この概念は英米哲学において、区別すべきいくつかの概念を混同しているという疑いを持たれてきた。典型的には実在と述定のあいだの区別である。(論理学者はさらに存在量化、包含関係、同一性等々の区別を設けるだろうが、こうした区別はギリシア語の εἶναι に直接関係しないのでここでは扱わない。)

実在と述定の区別はミルに遡る(vid. A System of Logic, I, iv, 1)。だが、実際にテクスト(例えば『ソフィスト』篇)の個々の箇所についてこの区別を適用しようとしてもうまくいかない。さらに深刻な問題は、この区別が統語論的な区別(述定的―絶対的)と意味論的な区別(実在―その他の意味)をまとめ上げたものだということだ。こうしたまとめ方は二種類の区別が直接的に相関するときのみ許されるが、少なくともギリシア語については明らかに相関しないし、英語についても疑わしい。

ἔστιは ‘there is’ の意味は有していたが、本質との対比における実在の一義的な概念を表してはいない。この意味でギリシア人は実在の観念を持たなかった。たとえばアリストテレスによる「ある」の意味の分類(Metaph. Δ 7)がこのことを示唆する。

さらに、プロタゴラスの『真理』冒頭の「ある」も実在用法としては解釈できない。むしろこのテクスト(やそれを引用する Tht. 152a)の「ある」は、事実をまさにそうであること(what is the case)として肯定する用法として解するべきである。アリストテレスはこの意味での「ある」が ‘τό κυριώτατα ὄν'(最も正統的な「ある」)だとするが(Metaph. 1051b1)、これは哲学的には全く正しく、したがって Ross や Jaeger によるこの箇所の emendation は誤っている。

哲学の文脈を措くとしても、「ある」の真理用法が最古のものの一つであることは疑いない。PIE における *sont- (*es- の現在分詞)は真理を意味する最も標準的な表現である(cf. satya, sooth.)。このイディオムはアッティカ方言においても与格形 τῳ ὄντι に見られるが、むしろイオニアの韻文に頻出する。そしてこのことが示唆するのは、パルメニデスの「ある」が「事実そうである」の意味に解釈しうるということだ。

真理用法について次の二点が指摘できる。第一に、あらゆる事実(そうであること being-so)は「ある」の述定用法から定式化できる。したがって述定用法は「ある」の語の意味を構成するうえで基礎的な役割を果たすと言える。第二に、真理用法は、文と事態のいずれについて述べたものかについて本質的に曖昧である。これは言語と実在の関係性を自明視するギリシア哲学の態度につながっているように思われる(vid. Cra. 385b7, Soph. 263b, Metaph. 1011b27)。

ところで、εἶναι は真理の意味のほかに二つの特徴をもつ。両者は真理用法ほど哲学的に重要ではないにせよ、存在論の発展を興味深いしかたで照明するものである。

第一に、εἶναι は持続的アスペクト(durative aspect)を有する。この特徴は次のことを説明する。 (1) 持続する現在としての永遠の観念、(2) 存在と生成の対立、(3) ギリシアの「ある」の概念と中世‐近代の(不安定性を含意する)実在概念の通約不可能性。

第二に、εἶναι は地格的意義(locative value)を持つ。「ある」とは「どこかにおいて、ある(to be somewhere)」ことである。実在することと「どこかにある」ことは、ふつうの人びとにとって――そしてパルメニデスを含むプラトン以前の哲学者にとって――論理的に同値であった。プラトンはこのことを意識して、イデアを慎重に νοητὸς τόπος に置いたのである。

とはいえ εἶναι の中心的な意味はあくまで真理・事実の意味である。ギリシアの「ある」と今日の実在の意味を分かつ主要な相違点は、前者が事実や関係について述べられ、後者が個物について述べられる、という点だ。

もちろん εἶναιの地格的意義ゆえにこの区別はやや曖昧になる。正確に言えば、ギリシア存在論の語彙は、事態の存立(Bestehen von Sachverhalten)*4 の特別なケースとして人や物を扱う方針へと哲学者たちを向かわせたのだ。ὄντα のみならず、ギリシア語においては「事実」と「物」がつねに互換的である(χρήματα, πράγματα, ἔργον, γεγονότα)。この混同が、哲学者たちが述定と実在の「ある」を混同したという、皮相で不正確な非難の根底にある。

この混同は古典期ギリシア哲学の深刻な欠点と見なされるかもしれないが、εἶναι のこの不分明な用法が、真理と実在の問題をもっとも一般的なかたち――「『ある』とはなにか」、すなわち、真なる知識の対象、真なる発言の基盤はなにか――で問うことを可能にしたのである。

感想

Kahn の本論考は哲学と使用言語の関係という大問題について軽く触れるところから始まる。最初はこれがなぜかよく分からず、たんに読者の気を惹くための工夫だろうと思っていたが、実はここもミルの引用されていない箇所での主張への応答になっている (cf. “The Greeks seldom knew any language but their own. This rendered it far more difficult for them than it is for us, to acquire a readiness in detecting ambiguities.” (Logic, I, iv, 1))。そういうわけで、ミルへの対決姿勢は論文の構成にも示されていると言えるように思う。

読後感として、さしあたり次の点は気になる。

(1)「文献学的基礎」をこのように据えることの是非、つまり哲学のテクストで問題にされてきた「ある」は真理性の意味(sense of verity)に解すべきであると主張してよいか。(これはもちろん各論で見ていくしかない。)

(2) そもそもミルの批判はどれほどの現代的意義を持つのか。これは勘だけど、今日われわれが ‘be’ の多義性について論じるとき真っ先に念頭に置くのはミルの述定‐実在用法という区別ではなくて、「論理学者」によるより細かい区別ではないか。Kahn は後者の区別を「ある」という語の問題ではないとして通り過ぎるが――そしてそれがこの論考の主題に直接関わらないのは事実だけど――後者の区別を踏まえて考えることはそれはそれで必要だと思う。

(3) 「事実」と「物」を統一的に扱うパースペクティブにおいて「『ある』とはなにか」という問いが可能になった、として、そうしたパースペクティブはわれわれにとってどれほど有意義なのか。(常識的に考えてこれはたんなる(現代的な意味での)存在論的カテゴリーの混同に見える。)――これは両者を区別することの眼目がどこにあるかという問いとセットで考えるべきだろう。

*1:とりあえずこう訳すが定訳は不明。

*2:Essays on Being の introduction および ch.5 が一連の探究を概観・総括している。

*3:Postscripta は省略する。

*4:„Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.“ (Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus, 2.) cf. „Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.“ (Ibid. 1.1.)