『分析論』の眼目 Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, ch.5
- Sylvain Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, Vrin.
- 2ème partie. Science et nécessité.
- (Introduction.) 107-109.
- Chapitre V. La démarche analytique. 111-124.
- 2ème partie. Science et nécessité.
- 71 経験を加工しありうる学知の対象とするために,言語の分析から始めて操作概念
(就中「ある」と「必然」) をアリストテレスが生み出した仕方を,これまで見てきた.他方,学知は特定の言語 (言明的言語 le langage apophantique) を用いるので,さらに学知を構成する命題が特定の特徴をもち特定の規則によってつながることが必要である.これが『分析論』(An.) の研究対象である.
- An. については「オルガノン」という特徴づけはミスリーディングである: An. は学知の「方法」の記述ではない (cf. ch.5).むしろ学知の可能性の諸条件を明るみに出すのがこれらの論考の目的である.
- APr. は学知を純粋な形式面から考察し,APo. は用いられる命題の面から考察する.本書はこれらにおいて必然性が果たす役割を研究する.
- APr. が必然性が伝達する (se transmet) 仕方を探究するのに対し,APo. はまずもって必然性の起源に関心を有する.起源は最終的には原理にある.
- 原理を検討すると,最終的には狭義の分析論の領域を出て経験と学知の関係 (経験から学知への移行) を検討しなければならなくなる (ch.8).この時点で (のみ) 探究の「方法」が問題になる.
- 72 Kant は KrV で PNC が "das allgemeine und völlig hinreichende Principium aller analytischen Erkenntnis" だと述べている (A150/B189-A153/B193).
- これによって Kant は PNC の重要性を言うとともに,PNC がもっぱら認識の形式に関わる限りで,あらゆる認識の単に消極的な条件として PNC のねらいを限定してもいる.PNC が認識内容をも与える積極的条件と見なされるとき,分析論は「仮象の論理学」に変わる (A60/B84-A62/B86).以下の諸章ではいわば認識と PNC (より正確には RCP) の純粋に (Kant 的な意味で) 分析的な捉え方の明確化を行う.
- この捉え方が,アリストテレス的学知における必然性全般の基礎となっている.このことはしかし,アリストテレス的学知が超越論的仮象に陥っていることを意味しない: An. の論理学は学知成立の十分条件であることを意図していない.むしろアリストテレスにあっても認識内容は経験からしか出てこない.それゆえ論理と経験の分節 (articuler) が問題になる.
第5章: 分析的アプローチ
『分析論』の地位
- 73 An. の学知理論は古来学問方法論と見なされてきたが,この解釈はアリストテレスの諸論考と整合しない.
- Barnes は単に既に得られた学知の教育法であると論じた.だが諸論考はむしろ問答法的である.
- Irwin はアリストテレスが諸分野で分析論の方法と全然異なる「強い」問答法を用いていると論じた.だが,そうした断絶を見る必要はない.
- Couloubaritsis は,諸論考は論証的方法の応用ではないにしろ,当該領域の論証に先立つ所与――公理論的方法が必要とする原理――を制定するねらいを有していると論じる.
- この解釈は生物学的著作に関する近年の研究に裏付けられている (cf. Gotthelf & Lennox (eds.) (1987) etc.).
- 74 以下では最後の解釈指針に棹さして An. の地位を論じる.
- まず (アリストテレス自身のものと思しき) 標題 τὰ ἀναλυτικά を検討しなければならない: なぜこの標題なのか,そこから探究の本性と目的について何がわかるか.
分析
- 75 語 ἀνάλυσις は幾何学に起源をもつ (Einarson 1936).完全な記述は後 3c のパッポスに見られる.パッポスのテクスト自体両義的で解釈を要するが,Hintikka & Remes および Gardies に依拠しつつ方法を以下のようにまとめることができる.
- 分析は「問題」の解決ないし「定理」の論証に用いられる.前者の場合 τὸ ζητούμενον は一定数の所与からなされる作図であり,後者の場合は一定の図形への一定の性質の帰属である.
- 分析は発見法であり証明法ではない.
- 分析の際はまず τὸ ζητούμενον が得られたものとしてその諸条件を検討する (上昇的アプローチ).遡って得られた諸条件が単に充分である場合,分析は別の前件の探究となる.
- 分析は τι τῶν ἤδη γνωριζομένων ἢ τάξιν ἀρχῆς ἐχόντων に達したときに終わる.この二パターンは別物である: 分析は既に得られている命題ないし解法にまで遡らずに問題・定理を別の問題・定理に還元するだけのこともある.
- 分析が不可能ないし偽な事柄に達した場合は帰謬法になる.ただし:
- 推論が全て同値な命題間の推論である場合のみであり,
- また分析は通常総合とセットで肯定的解決に達するものであって,偽ないし不可能な条件への到達は探究目標ではない.
- 76 アリストテレスが幾何学的な意味での「分析」に言及する箇所として APo. I 12, SE 16, および就中 EN III 5, 1112b11-27.
- EN では (a) 熟慮と「問題的」分析が対比され (γένεσις ~ 作図),(b) 発見的側面が強調され (ἐν τῇ εὑρέσει = ἐν τῇ ἀναλύσει),(c) 熟慮が結果 (~ 目的) の措定と実現の諸条件 (~ 手段) からなるとされ,(d) τὸ πρῶτον αἴτιον で止まるとされ,(e) 不可能に達する場合もあるとされる.
- したがって,アリストテレスが理解する限りでの分析のねらいとは,検討対象の可能性 (問題的分析) ないし真理性 (定理的分析) を明らかにするための,検討対象の諸原理の発見である.
- もとより τι τῶν ἤδη γνωριζομένων / τάξιν ἀρχῆς ἐχόντων は同一とは限らない.これは我々にとっての可知性 / 自体的な可知性に対応する.個々の事例において問題になるのはどちらの意味での「原理」であるかを決定することである1.
『分析論』の分析的アプローチ
- 77 なぜ τὰ ἀναλυτικά という標題なのか.
- 78 Byrne 説は Ross 説より良い.だが Byrne 説は依然 An. を学問的認識獲得の方法論とするものである.
- これに対して以下では,τὰ ἀναλυτικά が,分析的方法を学知の問題一般に適用するという An. のアプローチを表していると提案する.この仮説によれば,An. のねらいは,学知が既に得られているという前提から出発して,その可能性の条件へと遡っていくことで,学知一般の構築可能性を示すことである.
- 79 そうしたアプローチは予め一定の学知観を前提しなければ意味をなさない.それゆえ An. の目的は学知の定義や学知観の正しさの証明にはない.
- 学知観自体は APo. I 2, 71b9-16 が示すように単なるエンドクソンである.幾何学はモデルになるがモデル以上ではない.
- 80 An. の目的は学知観の「分析」すなわち学知を可能にする十分条件の解明である (*APo. I 2, 71b19-23).
- 81 まず推論が三段論法的形式に還元され,さらに (学知の格である) 第一格に還元される (APr.).この二段階の手続きこそアリストテレスが「分析」と呼ぶものである (Mignucci 1975, 283).
- 82 この結果に基づいて論証的学知を可能にする前提命題のタイプが検討される (APo.).論証的学知が原理を前提すること,および原理の本性が示される.ここでもやはり論証的認識の可能性が前提され,その可能性の諸条件が問われる.
- 例えば論証の連鎖の有限性を示す論拠は,無限だと認識が不可能になる,ということである (I 19-22).それを可能にする (22, 82b37-83a1)「本質」の認識を持てるのかという問い (Barnes 19932, 175) はこの段階では問題にならない.
- 83 APo. I は論証,II は定義と因果性を扱うが,定義と因果性は (互いに不可分な) 論証の可能性の条件である.
- 84 だが一旦可能性の条件が引き出されたなら,それらの諸条件自体が可能であることも示されねばならない (さもなければ帰謬法で学知が不可能になる).すなわち,原理自体が認識可能でなければならない.この点を示すのが APo. II 19 のねらいである.原理認識 (νοῦς) は可知的内容の直接的受容 (「知的直観」) などではなく,ἐπαγωγή の過程により作り上げられる性向であり,アリストテレスは分割と問答法のような過程を考えている (§142-168).
- 85 以上の解釈から An. と他著作との関係について言えば,前者が後者の方法論だというわけではなく,むしろ論証的学知の可能性の条件を明らかにする点で,前者は後者の予備的探究なのである.そうした探究が学知の確立を可能にするのは,いかにして特定の学知の諸命題を配列するかを教えるからではなく (それはむしろ総合に対応する),むしろそうした学知を確立するために措定すべき原理の種類を教えるからである.
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そんなまとめ方でいいんだろうか.↩