アリストテレス的枠組みに収まる「反対者の還元」解釈 Berti (1973) "La riduzione dei contrari"
- Enrico Berti (1973/2012) "La «riduzione dei contrari» in Aristotele" in E. Berti (2012) Studi aristotelici, Morcelliana, 253-280.
[253] Γ2 でアリストテレスは何度も,全ての反対者が一と多という二つの原理に還元される (ἀνάγεται, si riducono) と主張しており,そうした還元 (ἀναγωγή) が妥当だと彼自身見なしているという明確な印象を与えている.参照されている『反対者の選択』が現存せず,またアレクサンドロスがその箇所の注で (彼には知られていた) プラトン『善について』を引いていることから,当の教説はプラトン起源のものだとされてきた.
だが近年 P. Merlan が,Γ2 の反対者の還元はアカデメイア派の教説であるのみならず,Phys. I や Met. Λ の三要素説 (質料,形相,欠如) と対立するものであり,アリストテレス形而上学における還元不可能な二元論の存在を証言していると主張している.Merlan によれば,この還元は,〈πρὸς ἕν に述定されるという事実による多様な〈あるもの〉の実体への還元〉の延長であって,諸類に分かたれる実体の非質料的で不動の第一実体への還元,そして最終的には第一実体を構成する一と多への還元である.還元すなわち事物から原理への上昇は分析・分解であり,原理から事物への下降すなわち派生・導出は総合・再構成のプロセスということになる.かくしてアリストテレスは最終的に,別の箇所では拒否している (Met. A, Λ, M, N) プラトン的導出体系 (Ableitungssystem) を公言しているのだ.
[254] こうした対立の有無を調べるために,人々が「還元」の意味を明確化しようとしたのは当然である.H. Wagner は同じく「還元」先の一と多を実体の原因と同一視する一方,一・多と「第一実体」の関係は明言しない.Elders の解釈も Merlan と合致する; 彼は Γ2 を以降の諸巻に先んじる初期作品と解し,また「一」を「ある」の形相因として,「ある」の多義性は還元不可能性を意味せず,πρὸς ἕν は本質的に καθ᾽ἕν と同じだとする.
[255] 他方 H. J. Krämer は Merlan の解釈を緩めて,反対者の還元はプラトン−アカデメイア派の教説から直接派生するが,同一ではないとする.また Γ2 と三要素説・可能態−現実態説のあいだに対立ではなく連続・発展を見る.Krämer によれば,アリストテレスの変更は,還元を,ある概念からより普遍的な概念への純粋に「認識論的」性格のものとし,原理から全てのものへの真の「導出」を拒否した点にある.それでもアリストテレスは,全ての事物を双欄表に配置し,第一列を「一」と同一視したのだ.
H. Happ もまた,解釈の緩和を支持する.彼も還元のプラトン起源は認めるが,それがアリストテレスの他の教説,就中三要素説と矛盾するとは考えない (それどころか三要素説を Γ2 に見出す).また還元が純粋に認識論的だとも考えない.Krämer 同様 Happ も第一実体と「一」を同一視し,「多」はその他の実体にあるとする.
[256] 以上理解された意味での「還元」は,緩和されたとしても,いくつかの問題を引き起こす.こうした「還元」が分析として理解されるなら,一からの派生は「導出」・総合と解されるほかない.だが,その場合,還元は (Krämer や Happ が言うような) 連続 (ἐφεξῆς) の秩序とも,諸カテゴリーの実体への参照とも合致しない.そうした関係は導出可能性を排除するからだ.
そこで幾人かは,対立を解消するため,反対者の還元にアリストテレスは与しないと理解する (Décarie, Berti 1965).別の人々は「還元」を単なる分類と解し,プラトン的還元との関係を否定する (Leszl).だが,どちらも満足な解決案ではない.前者がまずいのは,アリストテレスが他人の教説として参照しているのが,「還元」ではなく,実在すべてが反対者からなるという確信だからだ.後者がまずいのは,「分類」の対象が反対者ではなく「諸原理や他の人々が提出したものども」(1005a1-2) だからだ.
[257] それゆえ,アリストテレス形而上学内部の対立の存在を宣言する前に,「反対者の還元」の他の解釈がありうるかどうかを調べるのがふさわしい.それは,発展史がだめだからでも,アリストテレスがえらいからでもなく,それがおよそ哲学者,つまり自己矛盾を犯さないよう努める人々を扱う際の正しい解釈規範だからだ.
Γ2 を読み直すと,諸カテゴリーの実体への依存関係の提示・実体の ἐφεξῆς な配列と,「反対者の還元」とは区別すべきだとわかる.「還元」はそうした手続きの代理・延長ではなく,あくまで超越範疇としてそれらに従属する.そうすれば,アカデメイア−プラトン的な「分析」の意味を保持しつつ,〈あるもの〉や実体の諸種の間に分析的・還元的関係をもたらさずに済む.
[258] 還元と πρὸς ἕν 述定の関係を正確に理解するには,Γ2 全体を,B の第4アポリア1に留意しつつ再読する必要がある.B1 では二つの問題が区別される: (a) 実体だけを研究するのか,自体的属性も研究するのか.(b) 問答家がエンドクサから行う,同と他 etc. の研究は,誰に属するのか.実際のところアリストテレスは,実体の学という彼自身の形而上学と同・他・類似・非類似等々を論じるプラトン的伝統的問答法との連絡をつけるという,単一の課題を念頭に置いていたのだ (Jaeger).このことは B2 での定式化や Γ2 の解決が証明している.
実体の学としての形而上学 (φιλοσοφία) という見方は Γ1 や Γ2 冒頭から来ている.アリストテレスは形而上学をある限りのあるものとその自体的属性の学と規定し,それから,形而上学が〈ある限りのあるもの〉の第一原因を探求すると主張することで,A2 の定義と接続する.
[259] だがそこで,〈あるもの〉は多義的で類をなさないという問題が生じる.これは B で明記されたアポリアではなく,むしろアカデメイアの問答法の伝統のなかでアリストテレスが行った語の分析から導かれる.応答は実体を中心とした πρὸς ἕν な述定を用いて行われ,そこから,〈ある限りのあるもの〉の学知が可能でありまずもって実体の学知となることが帰結する.この点は同章でこれ以後疑義に付されることはない.
[260] 続いて〈ある限りのあるもの〉の学知がその自体的付帯性も扱うことが示される (B の第4アポリアの解決).一般的解釈に反して,この論証は πρὸς ἕν 述定を用いたものではない: πρὸς ἕν 述定の役割は〈ある限りのあるもの〉の統一であり,〈ある限りのあるもの〉とその自体的付帯性の接続ではない.ただし〈ある限りのあるもの〉の統一性に焦点が合わさるたびに πρὸς ἕν 述定は再浮上する.
[261] 第4アポリアはもっぱら APo. の理論的学知の概念をもとに解決される:
ἅπαντος δὲ γένους καὶ αἴσθησις μία ἑνὸς καὶ ἐπιστήμη, οἷον γραμματικὴ μία οὖσα πάσας θεωρεῖ τὰς φωνάς: διὸ καὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὂν ὅσα εἴδη θεωρῆσαι μιᾶς ἐστὶν ἐπιστήμης τῷ γένει, τά τε εἴδη τῶν εἰδῶν. (1003b19-22)
この一節は〈あるもの〉の γένος を言う点が〈あるもの〉の多義性と衝突するとして問題視されてきた.だが,ここでの εἴδη は〈あるもの〉の諸義 (=諸カテゴリー) ではなく自体的付帯性を指す.実際これに続いて,それらは τοῦ ἑνὸς εἴδη すなわち〈同〉〈類似〉etc. と合致すると言われる (b33-36).後者は πάθη (1004b5-6), ἴδια (b15-16), τὰ ὑπάρχοντα (1005a14) である.
[262] それらが εἴδη とも ἴδια とも呼ばれうるのは,前者は述定が καθ᾽ ὅ に行われるもの (i.e.,〈ある〉の概念) の観点,後者は述定が καθ᾽ οὗ に行われるもの (i.e., 個別の〈あるもの〉の観点) を示しているからである.これらに関しては〈ある〉は単一の類として振る舞う.そして〈あるもの〉の εἴδη τῶν εἰδῶν とは,〈あるもの〉の諸種 (i.e., 〈同〉〈類似〉etc.) に即して各〈あるもの〉に述定される属性である (cf. Met. B1, 995b25-27).
[263] 自体的属性の研究と自体的属性の属性の研究とが同じ学知に属する理由は,同じ類に属するものを単一の学知が研究するからである.このようにして第4アポリアに一般的回答が与えられる.以降ではもっぱら〈ある〉の諸属性の内容が語られ,それらが問答家の議論の対象と一致することが示される (cf. Parm. 142b-155e).
「〈同〉〈類似〉等々」の「等々」には〈等〉が入る.これらに〈他 ἕτερον, diverso〉〈非類似〉〈不等〉が対立する (1004a18).〈他〉の種として〈異 διαφορά, il differente〉があり,〈異〉の種に〈反対〉がある.後にこれらに「〈先行〉〈後続〉〈類〉〈種〉〈全体〉〈部分〉等々」が付け加わる (1005a16-18).
[264] これらの語彙の意味は Δ および I から取り出される.Δ によれば,
- 〈同〉には〈一〉と同数の意味があり,ゆえに〈同〉も〈ある〉と共外延的である.
- 〈他〉は〈同〉と対立する意味をもち,それゆえ同数の意味と外延をもつ.
- 〈反対〉は〈異〉を通じて〈他〉に含まれる.同じ類の中で最も異なりの大きいのが〈反対〉である.〈反対〉にも〈他〉と同数の意味がある.
- "ἐπεὶ δὲ τὸ ἓν καὶ τὸ ὂν πολλαχῶς λέγεται, ἀκολουθεῖν ἀνάγκη καὶ τἆλλα ὅσα κατὰ ταῦτα λέγεται, ὥστε καὶ τὸ ταὐτὸν καὶ τὸ ἕτερον καὶ τὸ ἐναντίον, ὥστ᾽ εἶναι ἕτερον καθ᾽ ἑκάστην κατηγορίαν." (Δ10, 1018a35-38)
以上は I でも追認される (I 3, 1054b).また Δ では〈先行〉〈後続〉も〈ある〉と同数の意味があるとされており (Δ11),部分・全体や類・種も同様と推測できる.ゆえにこれらは全て〈ある〉〈一〉と共外延的な超越概念,ないし間カテゴリー的・間分野的概念である.
[265] ただし〈類似〉〈等〉の外延は単一のカテゴリーに限定される.ゆえに厳密には〈ある限りのあるもの〉の属性ではない.
Γ2 のこの場面で「反対者の還元」の最初の徴候に行き当たる: "σχεδὸν δὲ πάντα ἀνάγεται τἀναντία εἰς τὴν ἀρχὴν ταύτην: τεθεωρήσθω δ᾽ ἡμῖν ταῦτα ἐν τῇ ἐκλογῇ τῶν ἐναντίων" (1003b36-1004a1).反対への言及は従前の議論によっては説明できない.ここまでは〈同〉〈類似〉〈等〉などを扱っており,ゆえにむしろ〈異〉〈非類似〉〈不等〉などへの言及が予期される (cf. B1).アリストテレスいわく,〈同〉〈類似〉〈等〉が還元される先の原理は (いわゆる反対者の「原理」の一方である) 〈一〉でしかありえない.反対者の肯定的な側は全て〈一〉に還元される (1004b33-34, 1005a4-5).そして否定的な側は〈多〉に還元される.
[266] 〈一〉がいかなる意味で反対者の原理なのかを理解するためには,「還元」の正確な意味を確定する必要がある.それは以下に示されているように思われる.
ἐπεὶ δὲ μιᾶς τἀντικείμενα θεωρῆσαι, τῷ δὲ ἑνὶ ἀντίκειται πλῆθος ... ὥστε καὶ τἀντικείμενα τοῖς εἰρημένοις, τό τε ἕτερον καὶ ἀνόμοιον καὶ ἄνισον καὶ ὅσα ἄλλα λέγεται ἢ κατὰ ταῦτα ἢ κατὰ πλῆθος καὶ τὸ ἕν, τῆς εἰρημένης γνωρίζειν ἐπιστήμης. (1004a9-20)
諸属性と〈一〉〈多〉との関係は,諸属性が λέγεται κατὰ ταῦτα することに存する.これは πρός τι と異なり,普遍的概念の特殊の種として述定されることを意味する (cf. Δ10, 1018a36-37; I4, 1055a35-36).類は原理とみなしうるが,実体とは異なり離在する原理としてではなく,(特に定義・本質・形相を構成する) 要素 (内在原因) の意味でそうである (B3, 998a20-b14; H2, 1042b31-32).したがって〈一〉〈多〉は反対者の形相因であり,また反対者である限りの事柄の諸属性の形相因である.
[267] この「還元」は反対者の諸概念から原理への分析であり,これを逆に辿ると原理から反対者への演繹・再構成が可能になる.これは πρὸς ἕν とは無関係である.反対者の還元は特定の概念をより普遍的な概念に解消する分析的性格をもつ点でプラトン-アカデメイア派の還元と類比的だが,適用対象が反対者に限定される点でプラトンと異なる.
反対者の還元は,一と多を万物の原理とすることを拒否する Met. A, Λ, M, N の教説と矛盾しない.これらで批判されているのは一と多は個別の実在の原理だという主張であり,「反対者の還元」が支持する,一と多が超越的諸属性の類だというテーゼではない.アリストテレスが一と多を万物の原理とすることを拒否するのは,一と多の実有性の条件としてプラトン-アカデメイア派が一と多の一義性を (彼が思うに) 暗に想定しているからである.「反対者の還元」ではまさにこの想定が否定されている.
[268] 反対者の還元の正確な意義 (= 真正のアリストテレス的性格をもつ証拠) は,欠如の教説への言及に存する.一と多が同じ学知に属する理由は,多が一の否定ないし欠如であり,否定ないし欠如の研究は,それが参照する一の研究だからである.否定は一の端的な不在だが,欠如はある確定的対象における不在であり,したがって ὑποκειμένη τισ φύσις を前提する (1004a12-16).ここには明らかに三要素説があり,ゆえに「反対者の還元」が挿入されている: 一は形相 (= 一性・確定性を表す形相的確定 una determinatione formale),多は一の欠如 (= 一性・確定性の欠如 mancanza di unità e determinatezza).他の反対者にも同様の分析が当てはまる.したがって「還元」ということで意味されているのは以下のことである:〈形相-欠如〉の組からなる各種の形相因には何らかの形相的確定-欠如があり,それらは何らかの一性 (確定性) と多性 (不確定性) を表す限りで,一と多から意味を得る.
[269] つまり一と多が原理なのは,(プラトニストが考えたように) 他の存在者がそれに依存するからではなく,他の述語がそれに還元されるような述語だからである.
「還元」の後でアリストテレスは,既に見た通り,反対者の属性も同一の学知に属することを示す.その際に用いられるのは反対者の研究が同一の学知に属するというテーゼであるが,このテーゼ自体,〈形相-欠如〉の教説に基礎を置いている: 形相と欠如は同一の概念によって表現されるので,その概念に基礎を置く学知は両方を扱う.このようにして第4アポリアは完全に解決される.
[270] 「還元」がアリストテレス形而上学と完全に整合することは,「還元」の説明のすぐ後に明らかにされる.すなわち,一とその諸属性の多義性を言い,そのうち第一のものとその他との関係が問われている.一/多はカテゴリーに関わらずあらゆる形相と欠如を表しうる.ゆえに一が πρὸς ἕν 述定に服する以上,一に還元される全属性も πρὸς ἕν 述定に服する.一の諸義が依存する先は実体である.ゆえに,若干の解釈者が論じるように,実体が一/多に還元可能であるわけではないし,実体が一と一致するわけでもない.
[271] これによりアリストテレスは,実体の形而上学と,アカデメイア派の一と多とその諸属性の学としての問答法とを結びつけることができるようになる.これにより B の「実体とその自体的属性の研究が同一の学知に属するか」というアポリアに回答が与えられたことになる (1004a32-b4).
問答法 (esp. Sph., Parm.) との対比は 1004b8-10 および b17-26 から明らかである: 問答家は〈ある限りのあるもの〉の学知と対象を同じくするが,多義性を区別せず実体との関係を確立しないために当の学知を認識できない; 問答家は「反対者の還元」を発見したが πρὸς ἕν 述定は発見しなかった.
[272] Γ2 末尾には「反対者の還元」の新用法が見られる.これまで自体的属性が〈ある限りのあるもの〉の学知,〈一である限りの一〉の学知の対象であることの論証に用いられていたのに対し,ここでは〈ある限りのあるもの〉の学知が,それら反対者を対象とする限りで,一つであることの論証に用いられる.後者は「万物が反対者からなる」という前提をもつ人 (= 大半の先行者.cf. 1004b29-30) に対する ad hominem な論証である.
この前提をアリストテレスがそのまま共有するわけではない.むしろ,反対者を一と多の「属性」(i.e., 事物が一性・多性をもつ限りで事物に属する超越的属性) と捉える限りでしか共有しない.先行者が挙げる反対者は ὡς εἰς γένη ταῦτα πίπτουσιν (1005a1-2),つまり一と多の特殊例とされる.この単純な分類は真正の還元とは異なる.アリストテレスは最後に πρὸς ἕν 述定と還元の両立と (a2-11) これにより第4アポリアが解決されたこと (a13-18) 念押しして章を閉じる.
[273] 以上の議論は他の諸巻からも確証できる.I ではこの議論がより体系的になされる: 一は〈ある〉同様,実体ではなく,カテゴリーと同数の意味がある (I 2, 1053b16-28).つまり実体一般も第一実体も意味しえず,ゆえに「還元」は (第一) 実体への依存とは無関係である.また Γ2 同様,I によれば一はむしろ実体に従属する (1052a33-34).多についても同様である (I 3, 1054a29-32).
[274] それから I はやはり Γ2 と同様に三原理説を引き合いに出して反対者概念を説明する.それらはまずもって τὰ πρῶτα καὶ τὰ γένη τῶν ἐναντίων, οἷον τὸ ἓν καὶ τὰ πολλά に当てはまる,τὰ γὰρ ἄλλα εἰς ταῦτα ἀνάγεται (I4, esp. 1055b26-29).
[275] 双欄表の肯定側において第一のものが実体であり,そのうち第一のものが現実態の実体である,という Λ7, 1072a30-32 の議論も以上とは衝突しない.実際それが一と同一視できないことは直後で明言されている (a32-34).ここでは (単純) 実体が肯定側の諸義のうちの第一のもの (πρὸς ἕν 述定によって参照されるもの) だと言われているにすぎない.
K3 ではこの区別は維持されていないように見える.K とこれまで検討した ΓΔIΛ との対立は,知られる通り,K の真正性に疑義を生じさせる.K3 は Γ2 と平行的であるが,1060b31-36 には πρὸς ἕν と καθ᾽ ἕν の混同が見られる.
[276] 続いて「医学的」「健康」の諸義が πρὸς ταὐτό に ἀνάγεσθαι すると言われ,〈あるもの〉も同様とされる (1060b36-1061a10).ここにも術語の混乱が見られる.
πρὸς ἕν 述定と καθ᾽ ἕν な反対者の還元との混同はその後にも見られる (1061a10-15).Γ2 では反対者の還元が先行する研究である ἐκλογή ないし διαίρεσις τῶν ἐναντίων の結果とされるが,ここでは πρὸς ἕν 述定が正当化に用いられている.
[277] 最大の混乱は "διαφέρει δ᾽ οὐδὲν τὴν τοῦ ὄντος ἀναγωγὴν πρὸς τὸ ὂν ἢ πρὸς τὸ ἓν γίγνεσθαι" (1061a15-17) というくだりに見られる.ここでは超越的な一が πρὸς ἕν の実体と混同されている.この後の文章も混乱している (1061b11-17).
[278] このように K は反対者の還元について Γ etc. と非常に異なる捉え方を示している.ただしこのことは K の真正性を否定する十分な理由とは言えない (非常に尤もらしい仮説ではあるが).アリストテレスが K では厳密さを欠く仕方で意見を述べたのかもしれないし,K は Γ 以後の発展を示すのかもしれない.ただし後者の説については,K が意識している Γ の教説が πρὸς ἕν / καθ᾽ ἕν の区別をあまりに重視している点が問題になる.
[279] (還元の教説の再要約.)
[280] したがって反対者の還元は還元的-演繹的体系をなすが,カテゴリー-実体関係や実体間関係にまで及ばない点で,アカデメイア派の原理論に似た Ableitungssystem と見なすことはできないのである.