『形而上学』B1-2 第二アポリア: 実体の学知と公理の学知の同一性

Met. Β1, 995b6-10; Β2, 996b26-997a15.


[B1, 995b6] また,当の学知には,実体の第一原理を見ることだけがあるのか,それとも万人がそこから証示するところの諸原理について見ることもあるのか.例えば同時に言明することと否定言明を行うことが一個同一でありうるのか否かや,その他のそうしたことどもについて.

καὶ πότερον τὰς τῆς οὐσίας ἀρχὰς τὰς πρώτας ἐστὶ τῆς ἐπιστήμης ἰδεῖν μόνον ἢ καὶ περὶ τῶν ἀρχῶν ἐξ ὧν δεικνύουσι ἅπαντες, οἷον πότερον ἐνδέχεται ταὐτὸ καὶ ἓν ἅμα φάναι καὶ ἀποφάναι ἢ οὔ, καὶ περὶ τῶν ἄλλων τῶν τοιούτων.

[B2, 996b26] (Q1) しかし実際,論証的諸原理についても,単一の学知に属するのか,それ以上の学知に属するのかが,論争の的となる(「論証的」と私が言うのは,万人がそこから証示するところの共通の考えである).例えば全てについて,言明するか,それとも否定を言明するかが必然であることや,同時にありかつありはしないことは不可能であることや,(Q2) 他のそうしたあらゆる命題,それらと実体が一つの学知に属するか,それとも別の学知に属するか,(Q3) また一つでないなら,いま探究されている学知はどちらでなければならないか.

ἀλλὰ μὴν καὶ περὶ τῶν ἀποδεικτικῶν ἀρχῶν, πότερον μιᾶς ἐστὶν ἐπιστήμης ἢ πλειόνων, ἀμφισβητήσιμόν ἐστιν (λέγω δὲ ἀποδεικτικὰς τὰς κοινὰς δόξας ἐξ ὧν ἅπαντες δεικνύουσιν) οἷον ὅτι πᾶν ἀναγκαῖον ἢ φάναι ἢ ἀποφάναι, καὶ ἀδύνατον ἅμα εἶναι καὶ μὴ εἶναι, καὶ ὅσαι ἄλλαι τοιαῦται προτάσεις, πότερον μία τούτων ἐπιστήμη καὶ τῆς οὐσίας ἢ ἑτέρα, κἂν εἰ μὴ μία, ποτέραν χρὴ προσαγορεύειν τὴν ζητουμένην νῦν.

  • P: Ap. 2 は明示的に ap. 1 と連続する.
  • M: B1 では Q2 が問われる.Q1 は Q2-3 (知恵の本性の問い) にとって予備的だが,それでも直後で詳論される.知恵の普遍性 (A2) ゆえに Q2 は自然な問いである.Q3 は分析論を the theoretical science par excellence とする立場への批判が込められているか (現に分析論は厳密かつ支配的と言える).
    • C: One might as well admit that this [first sentence] is a loose and elliptical sentence combining two distinct ideas: (1) that there is a problem with demonstrative principles, and (2) that this problem has implications concerning the unity vs. multiplicity of wisdom.
    • C: Q1 を (M のように) 文字通りに理解すると,ap. 2 は pro-contra パターンに適合しない上,「B1 で Q2 が問われ,B2 では Q1 と Q3 に応答し,Γ3 が Q2 に応答する」という複雑な構造を想定しなければならなくなる.それゆえ,Q1 はそもそも扱われていないと考えるべきである.
  • C: "τὰς κοινὰς δόξας": 「人びとに」共通という意味ではない (contra Alex.).B2 や Γ3 に従うなら,むしろ全学知に共通のものでなければならない (ゆえに「数学的諸公理」とも厳密には対応しない).
    • 複数の対象・領域に跨るが,それら全てにおいて一個同一の本性を有するわけではない (↔ καθόλου).
  • C: ἐπιστήμη は (1) 命題群とも (2) 感覚やファンタシア・ドクサと対立する知識の一様相 ("understanding") とも理解できる.実体の ἐπιστήμη と公理の ἐπιστήμη が同一だという主張は,
    • (a) 前者で取るなら,「実体の理論を探求していくと,必ず PNC などに行き当たる」という主張になり,
    • (b) 後者で取るなら,「無矛盾律を把握する作用 (act) そのものにおいて,ひとは必ず実体についての何らかの知識を得る (and vice versa)」という主張になる.
      • (a) は (b) より弱い.だが (a) さえ言えるかどうかわからない.我々にとって,PNC は規則であり,規則はそれ自体で真・偽であるわけではない.アリストテレスにとっても,論理学が学知でないのは,推論規則が前提命題の真偽と無関係だからである.

[996b33] (Q1-T) さて,一つであるということは理にかなっていない.(T1) というのも,なぜ幾何学に,何であれ何らかの学知より,それらをめぐって理解していることが固有であるだろうか.それゆえ,何であれ何らかの学知と同様なのであり,全ての学知に固有であることは許容されないのなら.それらをめぐって認識することは,他の諸学知にも固有でないのと同様に,実体を認識する学知にも固有ではないのだ.(T2) 同時にまた,如何なる仕方でそれらの学知があるだろうか.というのも,それらの各々が実際のところ何であるかは,今でも私たちは認識しているのである(現に少なくとも,それらは認識されたものとして他の諸学知も用いている).(T3) これら諸公理について論証的学知があるなら,何らかの基礎に置かれる類があり,それらの或るものどもは諸属性,或るものどもは諸公理である必要があるだろう(というのも,全てについて論証することは不可能だから).というのも,或ることどもから,或ることをめぐる,或ることどもの論証があることが必然だから.したがって,示される全ての事柄に或る一つの類があることが帰結する.というのも,全ての論証的諸学知は諸公理を用いるから.

  • T1:
    • C: inductive move → deductive move.
      • Bonitz (p.143) は後者が実体の学知が数ある学知の一つにすぎないとする点で 'fraus' と見なす.だがむしろ,普遍的だとしても共通公理を参照する仕方では個別学知と同様であるという主張である.また普遍性に依拠すると,これに続く議論と正面衝突する.
  • T3:
    • C: 公理の学知という impossible science の素描.公理が学知の対象になると,公理はもはや規則ではなく,特定の対象に関する情報を伝える real true propositions となってしまう.すると論証しうるものの共通の類,すなわちあらゆる〈あるもの〉の類があることになってしまう.

μιᾶς μὲν οὖν οὐκ εὔλογον εἶναι: τί γὰρ μᾶλλον γεωμετρίας ἢ ὁποιασοῦν περὶ τούτων ἐστὶν ἴδιον τὸ ἐπαΐειν; εἴπερ οὖν ὁμοίως μὲν ὁποιασοῦν ἐστίν, ἁπασῶν δὲ μὴ ἐνδέχεται, ὥσπερ οὐδὲ τῶν ἄλλων οὕτως οὐδὲ τῆς γνωριζούσης τὰς οὐσίας ἴδιόν ἐστι τὸ γιγνώσκειν περὶ αὐτῶν. ἅμα δὲ καὶ τίνα τρόπον ἔσται αὐτῶν ἐπιστήμη; τί μὲν γὰρ ἕκαστον τούτων τυγχάνει ὂν καὶ νῦν γνωρίζομεν (χρῶνται γοῦν ὡς γιγνωσκομένοις αὐτοῖς καὶ ἄλλαι τέχναι): εἰ δὲ ἀποδεικτικὴ περὶ αὐτῶν ἐστί, δεήσει τι γένος εἶναι ὑποκείμενον καὶ τὰ μὲν πάθη τὰ δ᾽ ἀξιώματ᾽ αὐτῶν (περὶ πάντων γὰρ ἀδύνατον ἀπόδειξιν εἶναι), ἀνάγκη γὰρ ἔκ τινων εἶναι καὶ περί τι καὶ τινῶν τὴν ἀπόδειξιν: ὥστε συμβαίνει πάντων εἶναι γένος ἕν τι τῶν δεικνυμένων, πᾶσαι γὰρ αἱ ἀποδεικτικαὶ χρῶνται τοῖς ἀξιώμασιν.

[997a11] (A) しかし実際,もし実体の学知とそれらについての学知が異なるのなら,それらのどちらが自然本性上いっそう支配的であり先行するのか.というのも,諸公理はこの上なく普遍的であり万物の原理であるから.また哲学者に属さないなら,それらについて真理や虚偽を観照することは他の誰に属するだろうか.

ἀλλὰ μὴν εἰ ἑτέρα ἡ τῆς οὐσίας καὶ ἡ περὶ τούτων, ποτέρα κυριωτέρα καὶ προτέρα πέφυκεν αὐτῶν; καθόλου γὰρ μάλιστα καὶ πάντων ἀρχαὶ τὰ ἀξιώματά ἐστιν, εἴ τ᾽ ἐστὶ μὴ τοῦ φιλοσόφου, τίνος ἔσται περὶ αὐτῶν ἄλλου τὸ θεωρῆσαι τὸ ἀληθὲς καὶ ψεῦδος;

  • C: Γ3 でははっきり定立の側が肯定される.(T1) 実体の学知の特殊性は反対定立への反論の側で語られている.(T2-3) 共通の類の不在は限定句 'qua being' によって迂回される.
    • 「実体の学知」というのも実は問題含みである (実体は真正の類ではない).だが PNC が実体の本質的属性の主張だとすれば ("πέφυκεν" 1005b7),実体の学知と公理の学知が一個同一だというのは正しいことになる (cf. Γ4, 1007a20-b18).