緩やかな多義性としての اشتراك Janos (2021) "Avicenna on Equivocity and Modulation" #2

  • Damien Janos (2021) "Avicenna on Equivocity and Modulation: A Reconsideration of the asmāʾ mushakkika (and tashkīk al-wujūd)" Oriens 49, 1-62. [here 22-62.]

5. 多義語と変調語の関係の明確化

一見して,asmāʾ mushtaraka と asmāʾ mushakkika には確固たる区別があり,後者のみが哲学的語彙に関係するように見える.だが,そう単純ではない.

  • 自然学・形而上学著作においても,理論枠組みの多くの中心的語彙 (e.g., ʿaql, ṣūra, quwwa, ṭabīʿa, nafs, mumkin) が多義的だとアヴィセンナは述べている (ism mushtarak, bi-shtirāk al-ism, bi-l-ishtirāk, ʿalā sabīl al-ishtirāk, etc.).
  • 哲学者たち (falāsifa) の術語の解明の書である Kitāb al-Ḥudūd においても,多くの術語が多義語とされ,変調という表現は用いられない.
    • 実際,調べてみれば,アヴィセンナ哲学の多くの術語は変調的というより多義的である.少なくとも「多義的」という表現のほうがアヴィセンナの著作によく登場する.
  • かつ,アヴィセンナは同じ語を文脈によって多義的とも変調的とも呼ぶことがある: 形相 (ṣūra),運動 (ḥaraka),実体 (jawhar),可能性・偶然性 (imkān) がそうである.一貫して変調的と呼ばれるのは存在 (wujūd) と一性 (waḥda) のみである.

〔表1 (pp.25-31): アヴィセンナ著作中の多義語/変調語一覧.〕

アヴィセンナの整理は複雑で矛盾を含んでいる: tashkīk / ishtirāk の分類はランダムではないとしてもごちゃついており,同じ語が両方に分類されることもある.このことは両概念の重なり合いを示唆する.

この点は二通りに解釈できる.

  1. 語は文脈により多義的にも変調的にも用いられうる.
    • al-Samāʿ al-ṭabīʿī II.2: 完全性 (kamāl) は bi-l-tashkīk に語られる.ただし他の概念との関係に応じて一義的・多義的・変調的に捉えうる.
    • Ilāhiyyāt V.8: 何性 (māhiyya) は多義的概念ともみなせる.なぜなら,何性は類/種/個物に多義的に適用されうるから.
    • Maqūlāt I.4: "al-mawjūd fī shayʾ" は事物によって一義的/変調的/類似的に当てはまる.
    • だが,この説明には限界がある.論理学著作ではカテゴリーをはっきり区別している.かつ al-Samāʿ al-ṭabīʿī の議論はどちらかと言えば多義性と変調性の区別に関係する.
  2. 多義性と変調性は本質的に重なり合っている.
    • Goichon や Marmura は tashkīk を ishtirāk と本質的に等価とみなす.
    • だが,wujūd や waḥda の特殊性は説明を要する: アヴィセンナは wujūd は多義的でないと明言している.
      • そこで Treiger, Druart, De Haan は,tashkīk を一義性の一種と見なす.
    • また wujūd を ʿayn と同じカテゴリーに入れてしまうと,様々な方法論的問題が生じるだろう.
      • アヴィセンナは多義性が様々な著者にもたらした混乱を各所で戒めている.
      • 少なくとも,完全に多義的な非術語と,相対的に多義的な術語の区別が必要である.
        • 例: Kitāb al-Nafsアヴィセンナは quwwa が多義的であるため全体としての魂を特徴づけるには不適切であり kamāl のほうが好ましいと論じる.だが quwwa も魂論において重要な役割を果たしている.

6. 強い多義語と弱い多義語を区別し,tashkīk の強調点を確定し,asmāʾ mushakkika を弱い多義語と同定する

解決策は強い多義語と弱い多義語を区別することだ.

  • 後者はアリストテレスの πρὸς ἕν や後の「意図的」(intentional, ἀπὸ διανοίας, Simpl. In Cat. 31.22ff.) 多義語の系譜に位置づけられる.
  • この仮説はアヴィセンナが al-ishtirāk と al-ishtirāk al-baḥt or al-ṣirf を区別していることからも裏付けられる.

では,弱い多義語は変調語とどう関係するのか.同じだという解釈は可能である.だが,tashkīk は焦点的意味で特徴づけられることも意味論的差別化可能性で特徴づけられることもあり,前者をもとに一部の研究者たちは「変調的一義性」と見なしてきた.実際 tashkīk al-wujūd の場合,前者の特徴が形而上学の可能性を担保する (Ilāhiyyāt I.5).「健康」(ṣiḥḥī) の例が用いられている点からも Met. Γ2 の影響は明らかである.存在者である限りの存在者が個々の存在者とは異なる (Ilāhiyyāt I.2, 5) という主張も一義性と見なす根拠となってきた.とはいえ,wujūd が maʿānī kathīra をもつとは述べられており,tashkīk を変調的多義性と見なすことは少なくとも可能である.

かつ,「変調的一義性」より「変調的多義性」という解釈のほうが望ましいと思われる.

  • まずアヴィセンナが形式的・明示的に tawāṭuʾ と tashkīk を結びつけたことはない.
  • Jadal, al-Masāʾil al-gharība al-ʿishrīniyya, al-Samāʿ al-ṭabīʿī の文面は tashkīk が弱い多義性であることを示唆する.
  • ギリシア語の注釈者たちは τὸ ὄν を特殊な多義語 (特殊な一義語ではなく) とみなしていた.
  • またアヴィセンナの同時代人 Abū l-Faraj b. al-Ṭayyib (d. 1043) も al-mawjūd を asmāʾ mushakkika として論じている.
  • ファーラービーやその弟子ヤフヤー・イブン・アディーも wujūd を ism mushtarak として扱う.
  • アリストテレス研究も πρὸς ἕν を多義性の一種として扱ってきている.
    • アヴィセンナギリシア・アラビアの解釈伝統から袂を分かったということは明白でなく,かつ尤もらしくない.
  • アヴィセンナの多義語の定義はしばしば変調語のそれに近い.逆も同様.
    • 多義語 miqdār の定義 (Ilāhiyyāt I.2) は「尺度」という焦点的意味に縛られている.
    • 多義語 imkān の定義 (Qiyās III.4) も bi-l-taqaddum wa-l-ta ʾakhkhur に諸カテゴリーに当てはまるとされる.
      • Qiyās で ishtirāk と tashkīk は極めて近接しており,jins と (したがって一義性と) 対置される.
    • Mubāḥathāt の語り手 (おそらくアヴィセンナに近い弟子) は,Ilāhiyyāt で wujūd が al-asmāʾ al-mushtaraka に属すると述べられていると言われる.これは現存写本にはないテクストであり,失われた写本からの引用か,(蓋然性は低いが) 別のテクストからの引用か,単なるパラフレーズか,でありうる.とにかく弟子が wujūd をこう理解していたという点は説明を要する.
    • Maqūlāt I.2 では wujūd のような語が "wa-rubbamā summiya bi-smin ākhar" とされ,これは ishtirāk か ittifāq のことだと思われる (tawāṭuʾ ではありえない).
  • 哲学的観点からしても,変調性と一義性は区別すべきである.
    • tashkīk は何性の付随物 (lawāzim) に当てはまる一方,一義性は本質にとって構成的な (muqawwim) もの (例:「動物」という類) を特徴づけるとされる.だが,wujūd が一義的だとしても,それは類をなすがゆえにではない.
      • Benevich は,wujūd が一義的であり神の lāzim だというファフルッディーン・ラーズィー (d. 1210) の考えがアヴィセンナにまで遡れると論じるが,尤もらしくない.

ゆえに,asmāʾ mushakkika は "modulated equivocals" ないし "core-dependent modulated equivocals" と見なすべきである.この解釈の帰結として,(a) mushakkika な語 (e.g., waḥda),(b) (弱) mushtaraka な語 (e.g., nafs),(c) mushakkika かつ mushtaraka な語 (e.g., imkān) は全て同じカテゴリーに属することになる.

結論

〔前略.〕アヴィセンナの理論をこのように捉えれば,彼の死後の wujūd 理論の二分化をより正確に理解できる.ファフルッディーン・ラーズィーやアッラーマ・ヒッリーが tashkīk al-wujūd を一義性の一種と理解したのに対し,バフマンヤールやナスィールッディーン・トゥースィーは緩やかな多義性と理解した.ヒッリーは Kitāb al-Shifāʾ の大注釈 Kitāb Kashf al-khifāʾ min Kitāb al-Shifāʾ でこの論争状況を明記している.以降のイスラームやラテン西洋における存在の一義性/多義性論争は,アヴィセンナの tashkīk 理論にその起源を有すると言える.