Wiggins (2001), SSR, Preamble #2 用語法の注意.術語の導入

  • David Wiggins (2001) Sameness and Substance Renewed, Cambridge University Press.
    • "Preamble, chiefly concerned with matters methodological and terminological". 1-20 [うち 8-12 (§4-6)].

4. 哲学的用語法: マニフェスト

理想的にはあらゆる術語は (i) 定義されており (ii) メタ言語のうち対象言語と被らない部分に属しているべきである.術語が対象言語に入り込まざるをえない場合でも,対象言語のうちに元々ある表現と本質的に異なりはしない語によって,対象言語で述べられている事柄を要約・体系化する役割を果たしてほしい.

本書の「実体」「存続者」etc. の準術語的用法は上記の理想を必ずしも満たしてはいないかもしれないが,少なくとも,英語という対象言語における通常の使用の一般化の手段となることを意図している.より詳しく言えば,日常的英語における用法を determinations とする determinables たることを企図する.特に「実体」の場合,このことを念頭に置かないと,質のない基体のような含みを呼び戻しかねない.

5. 種的述語と種的概念: および概念と概念理解

「実体」と「何であるか」に関連しつつメタ言語に属する術語に「種的術語 (sortal predicate)」がある.この Locke 的な語彙を,本書は概ね Strawson, Individuals 第二部に沿う形で用いる.Locke は実体カテゴリー内の述定とそれ以外の述定というアリストテレス的区別を受け継ぎつつ,次のように述べる (Essay III, iii, 15):

明白に,事物は一定の抽象観念と,すなわち名まえが結び付けられた一定の抽象観念と一致するときだけ,その名まえのもとに種ないしスペキエスに類別されるのであるから,おのおのの類あるいは種の本質は,(もし類から類的と呼ぶように,種から種的と呼ぶことが許されるとすれば) 類的あるいは種的名まえが表わす抽象観念にほかならない,そういうことになる*1

我々は Locke の観念の体系に代えてフレーゲの (ないしはそれを改造した) 直感的な意味論を採りたい.種的述語は (他のプレディカビリア同様) 意義を表現し,それゆえ概念を表す (stand for).この概念が個物に当てはまる.Frege が Husserl に宛てた書簡中の図を参照のこと*2.述語を理解し,それがいかなる概念を表すのかを知るとは,それに対応する物を真 (the True) に結びつけ,対応しない物を偽 (the False) に結びつける規則を把握することである (それゆえ概念の外延とは,この規則を定める関数のもとでの真の逆像である).この規則を把握するとは,述語を充足するために物がどうある・何である (・何をする) べきかを把握することだ.うち最後の把握は Frege 的な概念の把握そのものである.このようにして「馬」はヴィクターやアークル*3がそれであるところの事柄を表す.「速く走る」も同様である.ここから人は「馬」も「速く走る」も属性であると主張するかもしれない.それを否定しようとは思わないが,ここで規則の概念は前理論的であり,概念の同一性の外延的基準と不可分なものではない.外延的基準は完全に直感的な見方の数学的定式化の (ここでは不必要な) 副産物にすぎないからだ.

したがって〈馬〉概念 (the concept horse) は馬性のような抽象物ではない.それは何か普遍的で,形而上学や科学で語られる対象である.

この見方のもとでは概念は指示 (reference) の水準にある.だが「概念」は同じくらい意義の水準でも語られる.後者の語法は直接間接に Kant の影響下にある議論において見られる.こちらの場合,概念が対象に当てはまるとか,概念が外延をもつとか語ることは,それほど適切でなくなるだろう.こちらの Kant 的用法は「概念理解 (conception)」と呼んで区別しよう:

  • 思考者 T が〈馬〉概念の適切な概念理解を有している iff. T が物を〈馬〉のもとに下属させることができ,物が馬とみなされるためには何が必要かを知っており,馬がどんなものか (what horses are like) について十分な量の情報を持っている.

一言で言えば,馬の概念理解とは,「馬」が表すもの (馬の概念) の概念理解である.「〈馬〉概念の把握」は「述語「馬」が表すもの,すなわち馬,の適切な概念理解」の約めた言い方と理解されるべきである.

6. 実在的と名目的

第3章で用いる「実在的 / 名目的」という用語法について一言しておく.述語の解明が,その実在の外延のメンバーに消去不可能な言及を行うとき,その述語は実在的であり,そうでないとき名目的である.

名目的述語の場合,しばしば完全に明示的ないし明確な解明が可能であり,決して指示詞的要素を必要としない.例:「x が家である iff. x は風や雨や熱による破壊を防ぐ防護物である」.

対照的に,典型的な実在的定義は以下のものである (伝統的にそう呼ばれるだけで,本当のところこれは定義ではない):「x がミズハタネズミである iff. x はこの動物と適切な仕方で類似している (「適切な仕方で」は少なくとも部分的に指示される動物の自然本性に依存する)」.たんに定義が実在の標本に依存するというだけではなく,その適用の可否もこれらの標本についての事実に決定的に依存しているのだ.それでも,実在的定義は意味論の領野のうちにある.これなしに日常的談話の真に迫った解明はありえない.世界についての知識とは独立な言語や意味についての知識という考えは捨てなければならない (この点で「二つのドグマ」に全面的に従う).

*1:『人間知性論 (三)』大槻春彦訳,岩波文庫,1974年,106ページ.

*2:Wiggins (1984) に載っている.本文で言及するなら再掲してほしかった.

*3:実在の競走馬らしい.