主語と述語の概念 Kahn (1973) The Verb 'Be' in Ancient Greek, Ch.2

  • Charles H. Kahn (1973/2003) The Verb 'Be' in Ancient Greek. D. Reidel.
    • Chap.2. Subject, predicate, copula. 38-59.

単純に言語哲学的に面白い.次章からようやくギリシア語の分析に入る.

§1. 「主語」「述語」「繋辞」の形式的または統語論的定義

混乱を避けるため「主語」「述語」「繋辞」の用法を予め明らかにしておく.英語の場合は語順が決まっているから定義は簡単: 初歩的な事例 (NVΩ, N is Φ) では N が主語,is が繋辞.二階の事例はここから拡張していけばよい.

述語は Φ とも is Φ とも取れる.is Φ にしておくと VΩ との類比が保たれる (チョムスキーの「動詞句」に対応).一方で Φ を述語と言いたい場合もある.イェスペルセンはこれを predicative と呼んで区別するが,区別しなくても支障は少ないので,ここでは広狭両義で「述語」と呼ぶことにする.

N is N の形式に限り,どちらが主語かについて,ギリシア語では英語にない多義性が生じうる.通常は文脈か冠詞によって多義性が回避されるが,常にではない.特に is identical with の意味のときに決まらない場合がある.

こうした形式的定義は,印欧語,さらには名詞・形容詞・動詞などのある任意の言語に拡張できる.

§2. 主語と述語の統語論的・意味論的・存在論的・判断的 (概念的) 観念のあいだの区別,および「話題」と「評言」という言語学的術語との対比

以上の扱い方はいくつかの深い問題に触れていない.まず,主語 (subject) ということで語や表現ではなく特定の人や対象を指したい場合もある.特に「主語として理解されるもの」(understood subject) について語る場合がそれである.6章で論じる例では,εἰμί は人が主語のときに「生きている」を意味し,行為・状況・出来事が主語のときに「起きている」を意味する.これは名辞の種類の問題ではなく,語の意味論的・言語外的区別に基づいている.以下では「主語」「述語」の4-5個の意味を区別する.主要な眼目は文法的主語と言語外的主語の区別にある.これは簡単な区別だが,「主語として理解されるもの」とか「心理的主語」についての議論はしばしばこの点について混乱している.

以下では S. と P. を相関語句として扱い,両者の関係を「述定」と呼ぶ.また A が B の主語であることを「B が A に述定される」と呼ぶ.以下では述定を4-5種類に区別する: 統語論的・意味論的・存在論的・概念的 (判断的) 関係.前二者は言語の理論に必ず必要である.後二者は少なくとも歴史的重要性を持ち,また前二者とは区別される必要がある.加えてこれらが話題-評言関係 (topic-comment relation) と区別される.現代の言語学的理論では主語-述語関係に取って代わりがちだが,ここではこれを修辞的関係として叙述する.

  1. 統語論的述定は表現間の関係である.上で形式的定義を与えた.
  2. 意味論的述定は言語外的対象 S. と語・句・文 P. との関係である.S.-P. 形式の文の場合,文法的 S. が言語外的 S. を指示・表示することになる.
  3. 存在論的関係は人や対象などと,「それについて言われるもの」である属性・行為・状態との関係である.この用法はアリストテレスの『カテゴリー論』以来今日まで見られる.本書ではあまり使わないが,前二者との区別は重要である.1 や 2 はこうした実体-属性存在論に依存しない (それを支持するかもしれないが).後述するように,1 や 2 の定義の背後に何らかの存在論的な見方がおそらく必要である.だが属性や普遍を持ち出す必要は必ずしもない.
  4. 「概念的 S. / P.」を「論理的 S. / P.」の代わりに用いる.これらは判断ないしフレーゲ的「思想」の構成要素をなす.これらは S. や P. の観念 (notion) のことであり,ポール・ロワイヤル論理学におけるような古典的な判断理論に見られる.それらの (アリストテレスよりはおそらくストア派にいっそう依拠する) 理論においては,推論における命題の項 (terms) は観念 (ideas) として解釈される.思考や自然世界に属性や述語的概念を置くことの困難を避けて,ストア派は λεκτά の領域を創出した.これは中世のアリストテレス主義において intentiones として再登場する.ポール・ロワイヤルの理論はこうしたアリストテレス以後の理論の再定式化である.――ただしこうした概念的 S. / P. は統語論的に解釈できる.ゆえに,ここでこの概念を用いる必要はない.
  5. 近年発展している「話題-評言」という術語は,古い「心理的」観念を救い出す試みを代表している.その目的は二つ: (1) S. と P. の古い論理的・存在論的つながりを捨て去ること,(2) 印欧語の「主語」「述語」を特殊例とするより一般的な観念を定義すること.二つの目的は部分的には両立しない.そこで二つの「話題」観念が生じることになる.第一は修辞的 (ときに心理的) 観念であり,注意を引くこと,聞き手の予期,文脈から所与とされること,等々に関わる.この意味では「話題」は文脈から所与とされること,「評言」は新しい,予期されない,注意の前景をなすものである.これには統語論的 S.-P. 関係と本質的なつながりはない.第二は統語論的概念であり,I.-E. の主格,英語の名詞の最初の位置,韓国語の特定の接尾辞などによって特定される.

§3. アリストテレスにおける主語と述語

本書は特にギリシア語資料を扱うので,もともとのギリシア語の議論を思い出しておくのは有用だろう.プラトンアリストテレスはともに統語論的述定関係に気付いていたが,これを ὑποκείμενον / κατηγόρημα とは呼ばず,むしろ ὄνομα / ῥῆμα と呼んでいる.アリストテレス存在論的関係を指して ὑποκείμενον という語を用いる.κατηγορούμενον は意味論的「述定」と存在論的属性の両方を指す.ストア派の場合 ὑποκείμενον は物体,κατηγορήματα は λεκτά ないし意味であるが,いずれにせよ統語論に属さない.

§4. 主語と述語の一般的定義に向けて

文の S.-P. への統語論的分析と,物と行為・状態・属性の言語外的区別のつながりが保たれてきたことは偶然ではない.実体-属性の形而上学は文の主述構造の世界への投影だとしばしば考えられてきたが,これは逆であり,むしろ主述構造が人間の言語使用の根本的条件を投影しているのだ.

その条件とは,言語とは個人が別の個人に話すために用いられ,お互いのことだけでなく動植物や人工物やその他の比較的持続する対象について話せる必要がある,ということである.その場合,それらに言及する道具が必要であり,名詞クラスがその目的のための基礎的な道具となる.それゆえ名詞は個体を表示する語を部分クラスに持つ指示表現として定義できる.この定義は指示と個体の概念を前提している.個体概念は十分にプリミティヴかもしれないが,指示の概念は主述構造によって説明されうるかもしれない.そしてそれが今度は名詞-動詞や名詞-形容詞という基本的形式から説明されうる.あるいは,名詞概念,指示概念,主述構造の統語論的概念は同等にプリミティヴだと言うことができるかもしれない.

名詞-動詞はしばしば純粋に形式的に区別できるが,とはいえ,名前を普通名詞で翻訳することは指示の概念なしには説明できないだろう.語彙的,統語論的,意味論的分析の相互関係は概ね以下のようなものだ: 基本的な語クラスと NV 形式の単純な二語文から文法的 S. / P. を定義できる.そしてこれを複雑な文に拡張できる.指示の概念を用いて言語外的な S. / P. を定義できる.大まかに言ってこれが『ソフィスト』から『カテゴリー論』で辿られた行程である.これとは別に,統語論的分析から始めるやり方,指示の概念をプリミティヴに取るやり方がある.おそらく最後の方式が哲学的には最も解明的である.

語彙的・統語論的・意味論的概念の相互依存関係についてはサピアも述べている (Language, p.119).サピアの立場を本節では支持するが,それは4つの論点にまとめられる.

  1. 語クラスや文構造の普遍的特徴は個体の存在によって条件付けられている.
  2. 物とそれについて私たちが語る事柄との区別は文法的 S.-P. 構造に反映される.
  3. 特定の言語タイプの形態論的・統語論的特徴と独立した一般的言語学においては,名詞は典型的に指示表現として働くメンバーを含む語クラスとして (ひとまずは) 定義できる.動詞クラスは名詞と結合して二語文を作るものとして区別される.
  4. この区別はごく基礎的であり,ほとんどの言語にその形式的表現があるほどである.

ここで私は S. と P. の一般的定義を試みてはいない.定義の手続きとして,二語文における語クラスの区別から出発するものと,指示表現から出発するものの二方向ありうると述べただけである.

§5. 名詞-動詞構造または主述構造の普遍性への幾つかの制約

ギリシア語資料に移る前に,語の S.-P. 構造の一般的主張に対する鋭い異論に触れておくのは有用だろう.ハッキングは近年,全言語が S.-P. 文タイプを用いるというテーゼを批判した (Hacking (1968) "A Language without Particulars" Mind 77, 168-85).皮肉なことに,ハッキングはサピアが絶対的権威であるところのヌートカ語に依拠している.ハッキングは上記の 1 を認めつつも 2 を拒否し,また特に 4 を拒否しようとする.ハッキングはヌートカ語の文がストローソンの言う feature-placing, すなわち S.-P. 構造なしに状態や過程を報告するものとして理解できると言う.

ヌートカ語などの深層構造についてハッキングが正しいかどうかは判断できないが,ヌートカ語が例外をなすとサピアが考えなかった理由を考えてみることはできる.サピアは特定の語幹が,接尾辞を繰り返し付加されつつも,S.-P. の区別に中立的であり続ける仕方を詳しく叙述している.語根 inikw- 「火」は,接尾辞 -ihl 「家」が付加され,-'minih によって複数化し,-'is によって指小辞化し,過去時制の接尾辞 -it によって就職されても,依然として名詞的/動詞的規定に関して開かれている.サピアによれば,分節的終端 (articular ending) 'i が付加されることで語は名詞的になる.inikwihl'minih'isit-'i は「家で燃えていた小さな火」を意味する.一方で様相的な接尾辞が付加されることで「一義的に動詞」になる.なるほどハッキングが言うように,「名詞的接尾辞」(nominal suffix) が付くこよにとって名詞として翻訳できる何かができると言うのはミスリーディングだろう.とはいえ,それは特殊者を導入する指示表現として使うことができる.動詞についても同様である.ハッキングは,形態論的/語彙的対比の背後に,指示表現と,述語の文を形成する役割との機能的対立があることを見落としている.

ただし,ヌートカの語-文が S.-P. 形式を持つと見なせないという重要な点で,ハッキングは正しい.ハッキングが示せたのは,名詞的/動詞的形式を区別できる言語が,それを用いて S.-P. パターンで文を構成するとは限らないということである.

というわけで,仮にサピアが言うように S.-P. 構造の痕跡が全言語に見られるとしても,それが全言語において支配的な形式だとまでは言えない.文法的/言語外的 S. のない純粋に動詞的な文がある (e.g., νείφει).ギリシア語の場合そうした動詞は「非人称的」形式と言える.ただ以前 P.-S. を相関的に定義したので,これはむしろ単純に一語文と呼ぶことにしたい.こうした語-文は名詞-動詞の区別を持つあらゆる言語で動詞として分類できるのではないかと思う.そしてこの意味で動詞概念は S.-P. 構造とは独立に定義できる.印欧語,就中ギリシア語においてそうした非人称的一語文は最小限に切り詰められているが,ヌートカ語のような言語ではむしろ統語論の基本的な単位をなしうる.

主述構造の普遍性へのこうした疑念は,もちろん,ギリシア語の be 動詞に関する当座の研究に直接的には無関係である.だが,be 動詞に結びつく述定概念が S.-P. 形式を前提する限りで,間接的には関係する.もっとも5章で扱う真理的用法などはこうした内部構造を捨象している.とはいえ εἰμί の優越的用法が繋辞的であるには違いなく,その限りで,この構造の普遍性の問題は,εἰμί の普遍性の問題でもある.この問題はここでは解決できない.ここで試みたのは,名詞句-動詞句理論が全言語の記述として適切化という厳密に言語学的な問いと,S.-P. 構造が指示と述定という基本的な言語的機能の非対称性を反映していないかという哲学的問題とを区別することであった.仮に前者が否定的に解答されるとしても,後者は肯定的に答えられねばならない.そうだとすると,印欧語の S.-P. 構造は指示と述定の区別をごく自然に反映したものだと言えるだろう.