第二論駁と第一論駁の関係.PNC のスコープ Dancy (1975) Sense and Contradiction, Ch.V

  • R. M. Dancy (1975) Sense and Contradiction: a Study in Aristotle, D. Reidel.
    • Chapter V. The Second Refutation. 94-115.

例によっていくつか自分の誤読を発見した.


アリストテレスは論敵が実体の拒否に肩入れしていると主張し (1007a20-33),それがなぜ間違っているかを説明しようとする (a33-b18).これが新しい論駁になるのは,それが「人間」が一つのものを意味表示すると譲歩させるのに用いうる「存在論的図式」(ontological scheme) をもたらすからである.この存在論的図式は,第一論駁のいくつかの段階を言い直すことで導入される.

図式そのものはこの論駁の後半で擁護される.これを見てから,言い直しを行う前半に戻ってくることにする.この言い直しは第一論駁のスコープの厳しい限定を伴う.

I. 実体,本質,および,なぜ我々はそれらを必要とするかについて

アリストテレスは論敵が「実体,ないしはそれがあるとは何であるか」(1007a21) を否定しなければならないと言う.ここで実体の否定とは,(Cat. から想像されるような) 個体の否定ではなく,むしろ本質的述定の拒否である (ただしアリストテレスは,個体の否定も帰結すると考えている).

アリストテレスは「実体」(substance) を二種類の文法的環境 (grammatical environment) において用いている:「動物,植物,それらの諸部分」(Z2),「各々のものはその実体と異なりはしないと思われる」(Z6).前者は単なる「実体」(full stop) だが,後者の「実体」は属格を取り,本質と同一視される.Δ8 ではほぼこの区別を明示し,四種類を区別する:

  1. 諸要素,動植物 etc.; 他のものに述定されないが,他のものが述定されるもの.
  2. あることの原因であるもの.
  3. 1 の本質的な構成要素.
  4. 本質.その説明が定義となるもの.

最初の区別は 1 と 2-4 の区別に相当する.Γ の論駁は 2-4 を否定する者を対象とする.ここまでは簡単.

しかし「何かの実体」の否定は「実体」(full stop) の否定を導く,ともアリストテレスは考える.これは簡単ではない.以下では 1017a26-27, 31-33, 33-b17 に即してこの図式を粗描する.

実体 (full stop) とは,その存在に他のものの存在が依存するものである.Cat. では第一に個体がそれだとされる.なぜかと言うと,他のものがそれに述定される主語だからだ (2b37-3a1; cf. Δ8).

一方で,個体は「何であるか」を問いうる.それへの適切な答えは二次的に実体と言える.理由の一つは第一実体とは何かに答えているからであり (2b28-37),もう一つはそれ自体主語基準をほぼ満たすからだ (3a1-6; ここは混乱している).

後者は Cat. では「第二実体」と呼ばれ,Γ, Z ではものの実体 (本質) を与えるとされる.第二実体を表す表現 (「人間」) とものの実体を表す表現 (「人間にとっての〈あること〉」) は異なるが,アリストテレスはこの文法的違いについて注釈を加えている (Z6: あるものはその本質と同一である).また「一つを意味表示する」を説明する次の一文でもその注釈を加えている:

λέγω δὲ τὸ ἓν σημαίνειν τοῦτο· εἰ τοῦτ᾽ ἔστιν ἄνθρωπος, ἂν ᾖ τι ἄνθρωπος, τοῦτ᾽ ἔσται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι. (1006a32-34)

これは第二実体を指す.そうである以上その存在は個物に依存するはずである.実際 A9, 991b2-3 はそう述べており,反プラトン的傾向を鮮明にしている.しかし一方で,依存関係は相互的である: ソクラテスソクラテスであるためには人間でなければならない (煉瓦工である必要はないが).特に Z では本質を第一実体と称する傾向にある (Z7, 11, 13).これはプラトン的方向性と言える.一方で,元の図式を保存する試みも見られる (Z1-2, Z6).Γ4 の「ソクラテス」の例からは,こちらの方針を採用していることが分かる1.この図式が第二論駁で浮上する:

というのも,付帯的な事柄もこれによって本質存在を規定するだろうから.というのも,白いものは白いが,まさに白いものでありはしないがゆえに,人間に付帯するだろうから.(1007a31-33)

「まさに白いもの」は術語である: Cf. APo. A22, 83a24-32. 't' が実体を意味表示するとき,x が t である iff. (1) x はまさに t であるものである,または,(2) x は或る t である.実体と属性の区別はこの二パターンの区別に依拠する (1007a26-27, a35-b1; 83a25-28, a30-32).

アリストテレスによれば,論敵は実体すなわち本質を破棄し,全てを付帯的とする.ここから無限背進が生じる (1007b1):「先行する」ものがないので,「X なるものとは何か?」という問いの連鎖からどこにも行き着けない (1007b1ff).

では,どうして PNC 否定論者は実体・本質を否定することになるのだろうか.

II. 本質に関する論敵の諸コミットメント

アリストテレスによれば:

総じてこのことを述べる人は本質存在すなわち〈あるとは何であったか〉を破棄している.というのも,この人々は,「万物が付帯し,〈人間にとってのあること〉や〈動物にとってのあること〉そのものが,ありはしない」と述べねばならないから.(1007a20-23)

ここには最低二つの問題がある.第一に,これまで見た中では,これとは反対に,論敵はむしろ任意の述語を本質的と見なしていたように思われる (「X は Y である」の X は Y に相関する).第二に,アリストテレス自身は述語が本質的か付帯的かによって PNC の地位が変わると考えていたのだろうか.――これら二つは相関する問いである.以下これらを扱う.

というのも,人間にとってのあることそのものがなにかあるだろうとすれば,これは〈人間にとってではないあること〉や〈人間にとってのありはしないこと〉ではないだろうから (しかるに,それらはこのことの否定言明である).というのも,意味表示していたものは一つであったし,それは何かの本質存在であったから.(1007a23-26)

論敵は「人間にとってのあることは,人間にとってのありはしないことだ」といったことに直接肩入れするわけではない.むしろ論敵は,語が意味表示するものと,語がそれについて真であるところのものの区別を把握しそこなっているために,この誤謬に陥るのである.つまりここで我々は第一論駁の圏域にある.「意味表示していたものは一つであった」云々も明らかに第一論駁の (D)「「人間」が意味表示するのは二足の動物である」を念頭に置いている.

ここでは既に「人間」が一つのものを意味表示すること (1006b11-15),および何かについて真であることと意味表示の区別 (b15-18, 1007a1-7) について譲歩が引き出されている.これに続く箇所にも新しい議論はない:

「本質存在」が意味表示できるのは,それにとっての他の何らかの〈あること〉がないからである.もしそれにとって,〈人間にとってのあること〉そのものが,〈人間にとってではないあること〉そのもの,ないしは〈人間にとってのありはしないこと〉そのものであるだろうとすれば,他のものであるだろうし,... (1007a26-29)

ここでは「一つのものを意味表示する」は単なる一義性以上のことを意味しているように見える.これは第一論駁のスコープに関わる (後述).

アリストテレスがここで述べているのは,論敵が第一論駁の筋から離れるなら,「人間」が意味表示する一つのものを選ぶことは不可能になる,ということだ.その場合,述語は何かの実体を意味表示することはできず,高々付帯性しか意味表示できない.

というのも,付帯的な事柄と本質存在はこれによって区別されるだろうから.というのも,白いものは白いが,まさに白いものでありはしないがゆえに,人間に付帯するのだろうから.(1007a31-33)

というわけで,「どうやって論敵が超付帯主義者 (ultra-accidentalist) になるのか」という最初の問題には,第一論駁に応答することで,と簡単に応えられる.論敵が元来超本質主義者 (ultra-essentialist) だからこそこういう論駁をしたのだとも想像される.

二つ目はより厄介である: 例が「人間」であり「青白い」でないことが効いてしまっているのか.答えは否だが,見過ごしてよい問題だとは思われない.まずアンスコムの議論を検討する.

「高い」を例に取ろう.何かが高いかどうかは基準に相対的だが,そのことは「高い」の多義性を意味せず,状況依存だということにすぎない: X が高いかどうかは,X の本質によって異なる.これは第一論駁の適用範囲を限定する結果のように思われる.(他の例だとより難しい (「80代」など).ただし cf. APo. A22, 83a32.)

尤も Γ4, 1008a7ff. に鑑みて,PNC の範囲の制限はアリストテレスの意図に反する.では,以上の議論は,アリストテレスの期待未満のことしか示せていないのか.

そうではない.「何かの実体」は第二実体に限られないからだ.これは Cat. 的想定だが,他のテクストには反例が見られる (Top. VI.12, 149b37, Po. 6, 1449b22-24, Phys. IV.2, 210a11-13, Met. Z7, 1032b3-5, 就中 Top. VI.8, 146b3-5)――本質は実体以外のカテゴリーについても言いうる.(これは前述の「X の実体」から「実体」(full stop) への移行と衝突しない.属性の場合「X の実体」と X は別物である (Met. Z6, 1031b22-28).)

では,論駁で「人間」の代わりに「色白い」を用いた場合どうなるのか.二つ提案がある.

第一には,次の (Dp) のような定義から始めて,(1p) のような前提へと導くようなやり方である:

  • (Dp) 色白いこれこれとは,標準的なこれこれよりいっそう突き刺すような色をしたこれこれである.
  • (1p) 必然的に,何かが色白いこれこれなら,標準的なこれこれよりいっそう突き刺すような色をしたこれこれである.

だが (おそらくより尤もらしい提案として) 第二に,「その他の限定を加えて」と明示するやり方がある (cf. SE 5).いずれにせよ面倒であり,もっぱら面倒を省くためにアリストテレスは実体を例に選んだのだ.


  1. 100 頁前後ではもう少し込み入った議論をしているが,あまり理解できていないので省略する.