プラトンにおける関係的属性 Mignucci (2021) "Relatives in Plato"

  • Mario Mignucci [1988] (2021) "Relatives in Plato" in Ancient Logic, Language, and Metaphysics, 279-299.

Andrea Falcon による英訳.原論文は "Platone e i relativi" (1988) Elenchos 9, 259-284.


I

古代にはフレーゲの理論に比するような関係計算はないが,興味深い萌芽的関係理論は存在する.それらの興味深さは,今日のフレーゲ的関係理解の根幹にある哲学的前提を明らかにする点にある.

以下では Phd., Symp., Parm. をもとにプラトンの関係観を素描する.

II

プラトンによれば,イデアは実在し,感覚的事物はイデアに与るがゆえに当のものである.以下ではイデアを |F|, |G|, |H|, ... と表し,個物を a, b, c, ... と表す.a が |F| に与ることを Par(a, |F|) と書こう.Phd. 99d-102e の暗黙の前提 (ただし Parm. 113c3-5 では明記される) は,イデアは個物のうちにない,つまり個物はイデアをもつ・所有するわけではない,ということだ.これを以下のように表そう:

  • (2) Par(a, |F|) → ¬Imm(|F|, a).

ただしプラトンによれば,シミアスは大きさをもつ (102c2).ゆえに,大きさのイデアと私たちに現れる大きさは区別する必要がある.後者は前者の事例 (instance) といえる.

大きさの事例は個物である.シミアスの大きさはパイドンの大きさと異なる."τὸ ἐν ἡμῖν μέγεθος" がこれらを指すと考えるのは自然である.これらを f, g, h, ... と表し,イデアとの関係を Ist(x, y) で表すことにする.このとき:

  • (3) Imm(f, a) → ∃|F| Ist(f, |F|).

また分有を以下から定義できる.

  • (4A) Par(a, |F|) ↔ ∃f(Imm(f,a)∧Ist(f,|F|)).

以上を要約してプラトンは以下のように述べる:

[...] εἶναί τι ἕκαστον τῶν εἰδῶν καὶ τούτων τἆλλα μεταλαμβάνοντα αὐτῶν τούτων τὴν ἐπωνυμίαν ἴσχειν. (Phd. 102a10-b3)

δοκεῖ σοι, ὡς φῄς, εἶναι εἴδη ἄττα, ὧν τάδε τὰ ἄλλα μεταλαμβάνοντα τὰς ἐπωνυμίας αὐτῶν ἴσχειν, οἷον ὁμοιότητος μὲν μεταλαβόντα ὅμοια, μεγέθους δὲ μεγάλα, κάλλους δὲ καὶ δικαιοσύνης δίκαιά τε καὶ καλὰ γίγνεσθαι; ― πάνυ γε, φάναι τὸν Σωκράτη. (Parm. 130e5-131a2)

述語が対象に呼称を与える (denominates) のは,当の述語が当の対象について真であるときである.したがって,ある述語 F がイデア |F| と意味論的に関係することを Rel(F, |F|) と表すなら:

  • (5) Par(a, |F|) → ∃F(Rel(F,|F|)∧F(a)).

これを以下のように強めるのは自然である:

  • (5A) Par(a, |F|) ↔ ∃F(Rel(F,|F|)∧F(a)).

これにより (4A) に代わる分有の特徴づけが得られる.もちろん (5A) の意味は Rel の理解に依存する.かりに F の指示対象に |F| と対応する内在的性質があることだと理解するなら,言語に依存しない特徴づけが可能である.Rif(x,y) によって x が y を指示する関係を表すなら:

  • (6) Rel(F,|F|) ↔ ∃f(Rif(F,f)∧Ist(f,|F|)).

このとき,以下のように想定できる.

  • (7) Rif(F,f) → (F(a) ↔ Imm(f,a)).
  • (8) Imm(f,a) ↔ ∃F(Rif(F,f)∧F(a)).

(6)-(8) から (4A) ⇔ (5A) が言える.プラトンはこの同値性にコミットしていないが,分有概念への二つのアプローチを示している以上,どのような条件でこれらが同値になるかを見ておくのは有用である.

III

パイドンに戻る.

εἰ δή, ἦ δ᾽ ὅς, ταῦτα οὕτως λέγεις, ἆρ᾽ οὐχ, ὅταν Σιμμίαν Σωκράτους φῇς μείζω εἶναι, Φαίδωνος δὲ ἐλάττω, λέγεις τότ᾽ εἶναι ἐν τῷ Σιμμίᾳ ἀμφότερα, καὶ μέγεθος καὶ σμικρότητα; ― ἔγωγε. (102b3-6)

シミアスを a*, シミアスのもつ特定の大きさを g*, 特定の小ささを p* として,(4) から以下が出る.

  • (11) Imm(g*, a*).
  • (11) Imm(p*, a*).

だが大きさと小ささが対立する性質だとすると同時に内在するとは言えない:

ἀλλὰ γάρ, ἦ δ᾽ ὅς, ὁμολογεῖς (a) τὸ τὸν Σιμμίαν ὑπερέχειν Σωκράτους οὐχ ὡς τοῖς ῥήμασι λέγεται οὕτω καὶ τὸ ἀληθὲς ἔχειν; (b) οὐ γάρ που πεφυκέναι Σιμμίαν ὑπερέχειν τούτῳ, τῷ Σιμμίαν εἶναι, ἀλλὰ τῷ μεγέθει ὃ τυγχάνει ἔχων: (c) οὐδ᾽ αὖ Σωκράτους ὑπερέχειν ὅτι Σωκράτης ὁ Σωκράτης ἐστίν, ἀλλ᾽ ὅτι σμικρότητα ἔχει ὁ Σωκράτης πρὸς τὸ ἐκείνου μέγεθος; ― ἀληθῆ. ― (d) οὐδέ γε αὖ ὑπὸ Φαίδωνος ὑπερέχεσθαι τῷ ὅτι Φαίδων ὁ Φαίδων ἐστίν, (e) ἀλλ᾽ ὅτι μέγεθος ἔχει ὁ Φαίδων πρὸς τὴν Σιμμίου σμικρότητα; ― ἔστι ταῦτα.

この箇所の解釈は全体的に争われている.

(a) は (1*)1「シミアスはソクラテスより大きい」が偽だということは意味しないはずであり,その積極的意味が探求されてきた.Castañeda の解釈によれば,(1*) の問題は,それに意味を与える存在論的構成要素の同定が難しい点にある.もう一つのありうる解釈としては,(a) は単に (1*) (2*) がそのまま受け取ると矛盾が生じるという点で不明瞭だと言わんとしている.

(b) の解釈についても合意がない.Burnet や Gallop は πεφυκέναι と τυγχάνειν の対比が本質的/付帯的属性の区別を含意していると読む.Castañeda はこの解釈を批判して,(b) に以下の形式的構造を見て取る.

  • (***) A であるがゆえにではなく,B であるがゆえに,p である.

すなわち,シミアスであるがゆえにではなく,τυγχάνει ἔχων する大きさゆえに,πεφυκέναι Σιμμίαν ὑπερέχειν である.これはシミアスが πεφυκέναι ὑπερέχειν だということを含意し,ゆえに上記の区別は棄却される.

Castañeda 解釈は可能だが唯一の選択肢ではない.οὐ のスコープが Σιμμίαν ὑπερέχειν τούτῳ なら Castañeda 解釈になるが,πεφυκέναι までなら "not by nature" という意味になり,議論は本質的/付帯的属性の区別に訴えることになる.(b) が (***) 形式である点に異論はないとしても,τῷ Σιμμίαν εἶναι と τῷ μεγέθει ὃ τυγχάνει ἔχων の対比は読み取れる.

だが,大きさと小ささが付帯的属性だとしても,それらが同時に同じ対象に内在しうることはなお説明を要する.

τῷ Σιμμίαν εἶναι でないとは,シミアスの特定の体格ゆえではないという意味に理解できる.「a が b より頭ひとつ分大きい」から「a が b より大きい理由は頭である」とは言えないということが先立って指摘されている (100e5-101a5).シミアスがソクラテスより大きいことは,シミアスの大きさだけでなく,ソクラテスの小ささにも依存する.ゆえに,τῷ μεγέθει ὃ τυγχάνει ἔχων であるとは,シミアスが大のイデアの分有によってもつ内在的性質が,絶対的性質ではなく,ソクラテスの小ささに相対的であることを意味する.この読みは (c) からも確証される.

だが,いかなる意味で,ソクラテスの小ささはシミアスの大きさに相対的なのか.Castañeda によれば,シミアスの大きさとソクラテスの小ささの間には,それらが大のイデアと小のイデアの結合的事例 (connected instances) であるような関係が存在する.つまりそれらは,他の内在的属性と対になるときにだけ成立する内在的属性である.

この説明の欠点は,シミアスのもつ関係の数だけ内在的属性があるというプラトンの理論の帰結を説明できない点にある.例えばソクラテスがシミアスとパイドンの両方より小さい場合,なぜソクラテスの小ささがシミアスの大きさとパイドンの大きさの両方と交わってはいけないのか.そしてこれと同様に,パイドンの大きさに対するシミアスの小ささと,ソクラテスの小ささに対するシミアスの大きさが,なぜ反対の内在的属性であってはいけないのか,も説明できない.

むしろ (c) は,シミアスとソクラテスが異なる内在的属性を持っているということを意味している.シミアスの内在的属性は,単なる大きいという属性ではなく,むしろ「ソクラテスの小ささとの関係におけるシミアスの大きさ」という表現に対応する属性であり,これは「シミアスの大きさとの関係におけるソクラテスの小ささ」という表現に対応する属性とは別の属性である.要するに,「シミアスの大きさ」が指すものは関係的属性と見なされる必要がある.いま x が y より大きいことを Lr(x,y) と表し,シミアスのソクラテスと相対的な大きさを g* と表すなら:

  • (14) g* = the x s.t. Imm(x, a*) → Lr(a*, b*).

このように理解すれば,相対的な大きさと相対的な小ささはもはや反対の属性ではなくなる.

(a) で (1*) や (2*) が真でないとされる理由も,絶対的性質について述べているという偽なる命題を取り出す分析が可能だからだ.シミアスが大きくかつ小さいということ自体はプラトンも認めている (102c10-d2).

IV

πότερόν ἐστι τοιοῦτος οἷος εἶναί τινος ὁ Ἔρως ἔρως, ἢ οὐδενός; ἐρωτῶ δ᾽ οὐκ εἰ μητρός τινος ἢ πατρός ἐστιν—γελοῖον γὰρ ἂν εἴη τὸ ἐρώτημα εἰ Ἔρως ἐστὶν ἔρως μητρὸς ἢ πατρός—ἀλλ᾽ ὥσπερ ἂν εἰ αὐτὸ τοῦτο πατέρα ἠρώτων, ἆρα ὁ πατήρ ἐστι πατήρ τινος ἢ οὔ; εἶπες ἂν δήπου μοι, εἰ ἐβούλου καλῶς ἀποκρίνασθαι, ὅτι ἔστιν ὑέος γε ἢ θυγατρὸς ὁ πατὴρ πατήρ: ἢ οὔ; ― πάνυ γε, φάναι τὸν Ἀγάθωνα." "οὐκοῦν καὶ ἡ μήτηρ ὡσαύτως; Ὁμολογεῖσθαι καὶ τοῦτο. ― ἔτι τοίνυν, εἰπεῖν τὸν Σωκράτη, ἀπόκριναι ὀλίγῳ πλείω, ἵνα μᾶλλον καταμάθῃς ὃ βούλομαι. εἰ γὰρ ἐροίμην, ‘τί δέ; ἀδελφός, αὐτὸ τοῦθ᾽ ὅπερ ἔστιν, ἔστι τινὸς ἀδελφὸς ἢ οὔ;’ φάναι εἶναι. ― οὐκοῦν ἀδελφοῦ ἢ ἀδελφῆς; Ὁμολογεῖν. ― πειρῶ δή, φάναι, καὶ τὸν ἔρωτα εἰπεῖν. ὁ Ἔρως ἔρως ἐστὶν οὐδενὸς ἢ τινός; ― πάνυ μὲν οὖν ἔστιν. (Symp. 199d1-e8)

"ὁ πατήρ ἐστι πατήρ τινος" は同一性言明とも述定とも取れる."being father" を λxF*x と表すなら:

  • (18) λxF*x = λx∃yRF*(x,y) (同一性),ないし
  • (19) F*(x) ↔ ∃yRF*(x,y) (述定).

論理的には同値.以下では (19) の形式で考える.プラトンの所見を一般化すると,ある一般語が関係的である Rel(F) とは:

(20) Rel(F) ↔∀x(F(x)↔∃yR(x,y)∧Mn(R,F)).(ただし Mn(x,y) は x が y の意味を決定するという関係.)

以下,"F" の意味を決定する関係を RF と書く.

他方プラトンはまた,「より大きいものはより小さいものより大きい」(Pol. 283d11-12)「二倍は半分の二倍」(R. IV, 438c1-2) などの言い方もする.x が二倍であることを Db(x),x が半分であることを Hf(x) と書くと:

  • (21) Db(x) ↔ ∃y(RDb(x,y)∧Hf(y)).

だが,関係項を限定するためには意味を特徴づける関係をもてば十分である:

  • (22) λxDb(x) = λx∃yRDb(x,y)
  • (22) λxHf(x) = λx∃yRHf(x,y).

こうした特徴づけはプラトンの特徴づけに忠実なものと言える.だが,プラトンが「不完全な属性的述語」(例:「重い」)と「不完全な関係的述語」を混同していたとは言えない.プラトンは何かとの関係を含意するような不完全述語にだけ注目しているからだ.

V

以上は内在的属性・述語に関する議論だが,Parm. に基づいてこれをイデアに拡張できる.Parm. の議論は大ざっぱに言えば以下の通り.イデアが可知的なら,私たちの知識とイデアの間に関係がある.だが関係項は同類的でなければならない――イデアイデア,属性は属性,個物は個物と関係するんでなければならない.ゆえにイデアと個物の間に知識関係は存在しない (133b4-134c3).以下では次の箇所に注目する.

οὐκοῦν καὶ ὅσαι τῶν ἰδεῶν πρὸς ἀλλήλας εἰσὶν αἵ εἰσιν, αὐταὶ πρὸς αὑτὰς τὴν οὐσίαν ἔχουσιν, ἀλλ᾽ οὐ πρὸς τὰ παρ᾽ ἡμῖν εἴτε ὁμοιώματα εἴτε ὅπῃ δή τις αὐτὰ τίθεται, ὧν ἡμεῖς μετέχοντες εἶναι ἕκαστα ἐπονομαζόμεθα: τὰ δὲ παρ᾽ ἡμῖν ταῦτα ὁμώνυμα ὄντα ἐκείνοις αὐτὰ αὖ πρὸς αὑτά ἐστιν ἀλλ᾽ οὐ πρὸς τὰ εἴδη, καὶ ἑαυτῶν ἀλλ᾽ οὐκ ἐκείνων ὅσα αὖ ὀνομάζεται οὕτως. (Parm. 133c8-d5)

τὰ παρ᾽ ἡμῖν は内在的性質である.パルメニデスは次の例によって論点を明確化する.

οἷον, φάναι τὸν Παρμενίδην, εἴ τις ἡμῶν του δεσπότης ἢ δοῦλός ἐστιν, οὐκ αὐτοῦ δεσπότου δήπου, ὃ ἔστι δεσπότης, ἐκείνου δοῦλός ἐστιν, οὐδὲ αὐτοῦ δούλου, ὃ ἔστι δοῦλος, δεσπότης ὁ δεσπότης, ἀλλ᾽ ἄνθρωπος ὢν ἀνθρώπου ἀμφότερα ταῦτ᾽ ἐστίν: αὐτὴ δὲ δεσποτεία αὐτῆς δουλείας ἐστὶν ὅ ἐστι, καὶ δουλεία ὡσαύτως αὐτὴ δουλεία αὐτῆς δεσποτείας, ἀλλ᾽ οὐ τὰ ἐν ἡμῖν πρὸς ἐκεῖνα τὴν δύναμιν ἔχει οὐδὲ ἐκεῖνα πρὸς ἡμᾶς, ἀλλ᾽, ὃ λέγω, αὐτὰ αὑτῶν καὶ πρὸς αὑτὰ ἐκεῖνά τέ ἐστι, καὶ τὰ παρ᾽ ἡμῖν ὡσαύτως πρὸς αὑτά. ἢ οὐ μανθάνεις ὃ λέγω; (133d6-134a1)

a が主人であることを M*(a) と表す.このとき:

  • (24) M*(a) → ∃yRM*(a,y)

プラトンは以下の制約を課す:

  • (25) M*(a) → ∃y(RM*(a,y)∧Ind(y))
    • ただし Ind(y) は y が個物であることを意味する.

そしてイデアの側や属性にも同様の制約が課される:

  • (26) x = |M|* → ∃y(R|M|*(x,y)∧For(y))
    • ただし For(y) は y がイデアであることを意味する.
  • (27) x = m* → ∃y(Rm*(x,y)∧Prop(y))
    • ただし Prop(y) は y が属性であることを意味する.

ところで第一に,イデア |F| が関係的だとは,関係が「|F| とは何か」の答えを与えることである.属性も同様.

  • (28) Rel(|F|) ↔ ∃x(R(|F|,x) ∧ Mn'(R,|F|))
  • (29) Rel(f) ↔ ∃x(R(f,x) ∧ Mn''(R,f))

第二に,関係項の同類原理 (Principle of Homogeneity of the Relatives, PHR) が存在する.PHR の最も自然な理解は以下である.

  • (30) R(x,y) → ( (Ind(x)→ Ind(y))∧(Prop(x)→Prop(y))∧(For(x)→For(y)) ).

ここからイデアの不可知性が帰結する.

(30) へのありうる異論として,これを受け入れると個物と内在的属性も関係できなくなる,というものがある.この異論に応じて,始域の要素と終域の要素ではなく始域と終域の同類性だけが要求されているという弱めた解釈もありうる.だがテクスト上の根拠はなく,主人と奴隷の例はむしろ強い定式化を支持する.

VI

以上の分析は,プラトンが絶対的述語・属性・イデアと関係的述語・属性・イデアの区別に気づいていたことを示している.彼は関係の本性を詳論したわけではないが,彼の議論は概ねアリストテレス以降の方向性に向かっている.プラトンフレーゲと違って「シミアスはソクラテスより大きい」のシミアスのみを論理的主語と見なす.このアプローチは関係の論理学の構築を困難にする一方で,主張の焦点がシミアスにあること,「ソクラテスより大きい」が述定されていることを説明する.


  1. 原文はなぜか (3*) というナンバリングになっているが,(1*) と同じ命題.他もナンバリングがおかしい箇所を適宜修正した.