意味表示 = 意味の二重性 Shields (1999) Order in Multiplicity, Ch.3

  • Christopher Shields (1999) Order in Multiplicity: Homonymy in the Philosophy of Aristotle. Oxford: Oxford University Press.
    • Chap.3. Homonymy and Signification. 75-102.

3.1 非一義性と意味表示

(非) 一義性は明瞭でない場合もある.また連合的か離接的かが明瞭でない場合もある (惑乱的1 seductive).Top. I.15 の指標のほとんどは論争的でない文脈でしか役立たないので,それらは脇におく.ここでは意味表示の違いという方法だけに着目する.

まず意味表示の違いが非一義性に十分だと示す.ついで意味表示が広い意味で意味関係 (meaning relation) だと示す.さらに,意味表示の違いが非一義性に必要だと示す.それゆえ意味の違いも必要になる.図式化すると:

  1. "a is F" と "b is F" の "F" が違う事柄を意味表示する (signify) iff. "F" が非一義的である.
  2. 意味表示は意味関係である.
  3. それゆえ,"a is F" と "b is F" の "F" が違う事柄を意味する (mean) iff. "F" が非一義的である.
  4. 非一義性は同名異義性に必要十分である.
  5. したがって,"a is F" と "b is F" の "F" が同名異義的である iff. "F" が違う事柄を意味する.

意味表示 (σημαίνειν) が意味関係であることは論証を要する.それどころか,一見して受け入れがたい帰結をもたらす: 意味の違いが同名異義性の必要十分条件なら,ある自然言語の熟達した話者のあいだで非一義性に関して論争はありえないはずだ (しかし実際には例えばプラトンアリストテレスの間で δίκη の非一義性について争いがある).またアリストテレスが惑乱的同名異義性を認めることもできなかったはずだ.

代わりに,意味表示は非意味論的な本質特定 (essence specification) 関係を意図していたのだと論じられることもある (Irwin 1982).言語話者が本質を特定できるとは限らないので,その場合,上記の問題はなくなる.

以下では意味表示が意味関係かどうかの諸々の議論を検討する.結論を述べると,意味表示は意味関係だが,アリストテレスにとっても私たちにとっても「浅い言語的意味関係」(shallow linguistic meaning relations) ではない (ゆえに以上の受け入れがたい帰結は生じない).だが,深い意味関係 (deep meaning relations) をアリストテレスが認めていることも,問題含みと見なされうる.それは属性と概念の同一視を伴うからだ.以下ではこの点につきアリストテレスを擁護する.

3.2 意味論的諸テーゼ

意味論的現象の扱いに関する最重要箇所は De Int. 冒頭である.ここでは思考と音声の類比が示されており,部分的にはその類比から,アリストテレス的な意味論的テーゼを取り出せる:

  1. 合成性: 複合的語・思考の意味論的値は,その諸部分の関数である.
  2. 規約性: 文字・音声と思考の関係は規約的である.
  3. 関係主義 (relationalism): 規約的意味論的単位は,それが割符となっている事柄から意味論的値を得ている.
  4. 意味表示: 3 の関係はアリストテレスが「意味表示」と呼ぶものである.

3.3 意味表示

Int. 1 は (原子的意味論的単位は真理値を評価できないという文脈で)「山羊鹿」が意味表示すると述べる.ここで意味表示は指示とは区別される意味と同定されているように見える.

だが,他の箇所はこうした解釈と必ずしも整合しない.非両立性は次の三項関係によって示せる:

  1. 「山羊鹿」は意味表示を持つ (Int. 16a16-17; APo. 92b5-7).
  2. 「意味表示」とは意味のことだ.
  3. 「人かつ馬」(ἱμάτιον) は意味表示を持たない (Int. 18a19-27).

1 と 3 が明記されている以上 2 は誤りであるはずだ.

だがそもそも,(i) Int. 1 を理解可能にし,かつ (ii) 1 と 3 が成り立つような,意味表示の一義的説明が一体ありうるのかどうかは問うてみる価値がある.(i) (ii) 両方が成り立つなら,意味表示は指示でも意義 (sense) でもありえない.それゆえ,両者より広いか,両者と全然乖離した概念であるはずだ.

意味表示が意味論的概念から乖離した概念だとしても,(i) と (ii) が満たされるかという問題は残る.例えば本質だとすると,本質を持つのは存在者に限られるので (APo. 92a4-8),「山羊鹿」は意味表示を欠くことになる.また,語とものがともに意味表示するという発想 (Cat. 3b10-23; Top. 122b16-17, 142b27-9; APo. 85b18-21; Met. 1017a22-7, 1028a10-16) も「山羊鹿」と「人かつ馬」を区別する助けにはならない.

おそらく解決策となるのは,アリストテレスがそもそも「人かつ馬」を有意味だと思っていなかった,というものだ.アリストテレスは意味表示しない理由を「人かつ馬のものはありはしないから」と述べている.非存在が十分条件だと述べているのだとすると矛盾している.おそらくはより強い条件を念頭に置いており,自己矛盾する表現は無意味だということだけが含意されていたのだろう.Int. 8 の文脈もこうした解釈を支持する.

3.4 意味表示の二つの問題

以上は意味表示と意味の関連に関する一反論の解決にはなっているが,意味表示が意味であることを確立できたわけではない.事実また他の箇所では語が本質を意味表示していると考えている箇所もある.

そこで第一に,意味表示が意味と関係するという説と,意味表示が本質の意味表示であるという説の関係が問われうる.両者は果たして両立不可能なのかどうか.

また第二に,意味表示が本質の意味表示だとすれば,その関係を言語に熟達した話し手が知っているとは限らないことになろう.そして科学者がその関係の確定を試みることになる.だがこうした説明は,De Int. で意味表示の規約性が強調されていることと相容れないように思われる.なるほど,De Int. の規約説が想定する論敵は Crat. に見られる自然的意味表示説であり,それは本質の意味表示説とは異なる.しかし,意味表示が規約で決まるのか科学が決めるのかという点では両立不可能であるという反論はありうる.そして,「普通の話し手は自分たちの使うすべての語の深い意味表示を知っている」という前提を,アリストテレスは放棄できないように見える (Top. 103a9-10; SE 168a28-33; Met. 1006b25-7): 多くの箇所で意味表示は意味の役割を担っている.

以上二つの問題があるので,アリストテレスにおける本質と意味の関係についてさらに検討する必要がある.

3.5 同名異義性と語の意味,ということへの反論

見てきたように,アリストテレスは語を同名異義的と呼ぶこともある.そこで,議論を近代語訳する際にも意義や意味という語が使われてきた.だが,アリストテレス自身による同名異義性の説明は一貫して語ではなく物を同名異義者としている.そこで,同名異義性はそもそも語の異なる意義をしるしづけるためのものでは全くないのだとする論者も出てきた (Irwin 1981, 524).私はそこまで強い結論は出せないと思っており,以下で反論を加える.

元の議論は次のようなステップに分解できる:

  1. 名前と説明規定 (λόγος) は同じものを意味表示する.(したがって,「憐れみ」と憐れみの説明規定 \phi は同じものを意味表示する.)
  2. 説明規定は名前に対応する定義を表す.
  3. したがって,名前と定義は同じものを意味表示する.
  4. 定義は本質を意味表示する (Top. 101b38).
  5. 本質とは,ある類のメンバー全てに共通の,普遍的な,説明において基本的な性質である.
  6. 意味は,ある類のメンバー全てに共通の,普遍的な,説明において基本的な性質ではない.
  7. 意味表示が意味と同一なのは,意味関係が意味表示関係と同一であるときに限られる.
  8. 6 が正しければ,意味関係は意味表示関係と同一ではない.
  9. したがって,意味表示は意味ではない.

1, 2 は真である.4 も定義の諸種に気をつければ問題ない.問題は前提 5 と 6 である.後ほど特に 6 を検討する.

アリストテレスの「定義」には広狭両義ある.なるほど Top. 141a24ff. では定義が一意に本質を特定すると述べられているが,別の箇所では「私たちによりよく知られる」仕方で知るための定義も許容されている (141b23-4).したがって 4 はややミスリーディングである: 全ての定義が本質を述べるわけではない.

関連して,アリストテレスが定義の同一性を意味表示の同一性から説明していることも注目に値する (Top. 147a29-b25).こうした点は定義の意味表示の両方に関するリベラルな・非術語的な態度を示唆する.

3.6 私たちによりよく知られる / 本性上よりよく知られる

アリストテレスによれば,科学的推論は「私たちによく知られるもの」から始まり「本性上よく知られるもの」に向かう (Phys. 184a16-21 et passim).私たちの例えば犬についての最初の信念は感覚知覚に基づいており,犬の本性についての偽なる信念を含んでいる.そうした信念は探究が進むにつれて修正される.最初の信念は犬の現れ方の情報をエンコードしている.

アリストテレスは思考の内容が現れの様態 (modes of appearance) を伴っていると示唆する.犬の形相はその本質と同じだが,主体は当の形相を,現れの様態に具現化される偶然的付随的事情のもとでしか把握できない.主体が本質を把握できるのは,形相が主体に知られる仕方が本性上知られる仕方と合致する場合のみであり,これは科学的探究の終点においてのみ達成される.

上記の事情は APo. 93b29-94a14 における定義の種別にも反映されている.アリストテレスはここで存在の知識を伴わない名目的表現としての定義を取り出しており,その水準では本質への気づきを伴う必要がない.つまりアリストテレスは,様々な現れの様態のもとでの定義を暗黙的に許容している.この点に鑑みても,意味表示を一面的に扱うことには留保が必要である.

なお φαντασία の役割に関するアリストテレスの見解も,暗黙的に現れの様態に依拠している (EN 1147a24-b5; An. 434a16-21): 錯覚に基づく行為が説明可能になるのは,行為者への環境的刺激が,当の行為者に対して適当な現れを持っているときである.アリストテレスは φαντασία が正しい必要がないことを認識していた.誤知覚・幻覚 etc. における φαντασία の役割は,行為者への de re ではない思考の帰属を伴っている.

3.7 概念と属性

以上は結論 9 に対する懸念となる.加えて,前提 6 にも問題がある.6 はアリストテレスが定義論や行為論で現れの様態に暗黙的に訴えていることと整合しないからだ.

6 は,概念と属性を鋭く区別するなら,魅力的な考えとなる.だがこの区別には議論がある (Carnap 1956, Bealer 1982).そして,アリストテレスが 6 を支持していると見なすべき明瞭な理由はない.6〔の否定〕 へのコミットメントが「アプリオリな概念分析がときには総合的な属性同定に導くだろう」という信念を要求するのなら,6〔の否定〕は誤っていると言えるだろう.だが,6〔の否定〕を認めたからといって,そうした想定を受け入れる必要はない2

アリストテレスの定義は,自然学的過程・属性への参照を含んでいる場合も,そうでない場合もある.必要とされる定義の種類は探究領域によって変わる (cf. An. 403a29-b3 (怒りの定義)).確かにアリストテレスは単なる言語分析によって例えば熱の本性を明らかにできるとは考えていない.しかしだからといって 6 を認めるべき理由にはならない.第一に,そうした領域が哲学者の探究対象だとは限らない.第二に,問題となる属性が質料から離れてある場合には,哲学者は質料的な実現のされ方を見ることなしに定義を与えることができる (Phys. 194a12-b9, 198a22-31; Met. 1037a14).また 6 を斥けたからといって,「狭い意味での言語分析だけで哲学者が問題とする本質が明らかになると言わねばならなくなるわけではない.

むしろ,アリストテレスは,深い意味と狭い意味を区別できる.例えばエウテュフロンが敬虔について独りよがりな説明をしたとき,彼は言語に熟達していなかったわけではない.むしろ浅かったところに問題があるのだ.意味が浅いか深いかは,本質が明らかになるほど十分に探究されているかどうかに存する.この区別に応じて,アリストテレスは「意味表示」を強い意味でも弱い意味でも意味関係として用いていると言うことができる.

3.8 結論: 意味表示の形式,意味の形式

以上の結論は同名異義性について熟達した話し手の間で不一致が生じる次第の説明になる.単純な事例 (非惑乱的 DH) の場合は熟達した話し手の間で不一致は生じないが,それは浅い意味で十分だからだ.だが,興味深い事例の場合は探究と分析が必要になる.

なお,意味表示の違いは非一義性を明らかにしうるのみであって,連合や中核依存性の確立には使えない.次に中核依存性の一般枠組みを見ることにする.


  1. 前章まで逐語的に「蠱惑的」と訳していたが,意味不明なので微修正する.

  2. この一節は理解できない."and it is hard to …“ 以下の ”(6)“ が (6) の否定を指しているのだとすると意味が通ると考えたので,そのように補った.p.100 冒頭もこの理解の根拠になる.