カテゴリー論の発展史 Kahn, "Questions and Categories"

  • Charles H. Kahn (1978) "Questions and Categories" in H. Hiż (ed.) Questions (Synthese Language Library), Dordrecht: D. Reidel, 227-278.

アリストテレスのカテゴリー論を総観的に論じる論文。内容上序論と本論からなる。序論としては,まずカント以来のカテゴリー論史を回顧し,そこから生じるアリストテレス解釈の近現代的バイアスを指摘する。本論ではアリストテレスその人のカテゴリー論に対して三段階の緻密な発展史的解釈を加える。解釈の大枠を与えてくれる点でも便利だが,細かな観察も閃きが冴えている。難点はやや長いこと。

原文は特に節立てされていないが,以下のメモでは内容に応じて適宜見出しをつけた。もう少し整理してレジュメを作る予定。

なお本論文は Kahn, Essays on Being のペーパーバック版 (OUP, 2012) に再録されているが,このリプリントは夥しい数のギリシア語の誤植があり,少なくとも既習者はお世辞にも快適とは言えない読書体験を強いられる*1。入手可能なら初出の論文集を見たほうがよい。


アリストテレスの諸カテゴリーが個別的対象に関する問いの諸形式のリストから導かれることは,遅くともオッカム以来指摘されてきた。カテゴリーは対象言語の全ての名辞を分類するものではなく,むしろ問いによって特定されうるような名辞のみを分類している。それゆえ,カテゴリーと問いの言語的形式には事実上の結びつきがある。だが,その結びつきにはいかなる哲学的意義があるのか? 論述の方向性は二通りありうる。

  • 一方で,アリストテレスの学説を広義の「カテゴリー論」の一例として扱い,疑問形と広義のカテゴリーの関係を論じることもできよう。
  • だが他方で,あくまでアリストテレスの学説に定位し,アリストテレスのカテゴリーと文法全般の関係を追求することもできる。

私たちは後者を選ぶ。だがその前に,より新しいカテゴリー論がアリストテレス理解に及ぼす無意識下の影響を検知するためにも,まずは広義のカテゴリー論について一瞥する。

形式的カテゴリー概念: フッサールから現代言語学

今日のカテゴリー論は全てカントの何らかの影響下で成り立っている。特にオクスフォードでは,〈カテゴリーが「我々の概念枠」に相対化されたア・プリオリで必然的な地位を持つ〉という見方がいまだに影響力を持つ。

とはいえ,現代の理論は,むしろフッサール『論理学研究』第2巻 (1901/19132) の「意味カテゴリー (Bedeutungskategorien)」説により多くを負っている。彼は「純粋論理文法 (reinlogische Grammatik)」の概念を提示し,意味の形式的カテゴリーとその結合法則とが論理や言語全般の基礎をなすと論じた。フッサールはこの法則のア・プリオリ性・必当然性を措定する点ではカントに従うものの,カテゴリーを明示的に文法や言語的意味の観点から鋳直す点に創意がある。

フッサールによれば,純粋文法の法則が,〈意味単位やそれに対応する表現の組み合わせが,有意味な全体をなすか,それとも無意味 (Unsinn) に終わるか〉を決定する。この意味での有意味性は,論理的無矛盾性や真理性に先立って,学的思考・言説の最小条件をなす。意味カテゴリーとは全体の有意味性を損なわない範囲で互換可能な意味のクラスである。この意味でフッサールは現代論理学や言語学の「置換クラス (substitution-classes)」概念を体系的に定式化した最初の人と言える。また「有意味な全体」を表す典型的なものが文ないし文枠組み (sentence frames)*2 であるとすれば,フッサールはまた well-formedness や文法性概念の祖であるとも言える。そして「意味カテゴリー」概念はカルナップの「記号の類」ないし「表現の類」観念として再び出現する。

フッサールとカルナップの歴史的連続性を仔細に辿ることはできないが,ポーランド学派が主要なつながりを付けていることは疑いない。とくに重要な人物がレシニェフスキである。彼は『論理学研究』の影響下で形式言語のための「意味カテゴリー」の最初の体系的理論を作った。レシニェフスキの草稿の大半はワルシャワ蜂起で失われたが,着想はアジュキェヴィチやタルスキらを通じてカルナップに到達した。今日では,カルナップ,タルスキ,バー=ヒレル,ゼリク・ハリス,チョムスキー,モンタギューらが形式的統語論・意味論を豊かに発展させ,そのうちで文法的カテゴリーの諸体系が厳密に定義されている。

非形式的カテゴリー概念: ライル

他方で私たちは,非形式的な意味カテゴリー概念も有している。こちらはライルの「カテゴリー錯誤」概念によって有名になった。ライルの 'Categories' (1938) は,アリストテレス解釈に直接関わっており,またカテゴリーと問いを結びつけている点で,とりわけ私たちの関心を惹く。ライルはフッサールも研究したが,カテゴリー論の哲学的動機に関してはむしろウィトゲンシュタインとカルナップの影響が強い。そしてライルはまさに,問いの種類を参照することで述語や名辞を分類するアリストテレスの方法に着目する点を,カルナップに負っているのである。ライルはこの方法を,問いは文枠組みとして分析できる――その中で疑問詞は,ギャップを埋めうる表現ないし文要素のタイプを示す――という観察に基づいて正当化する。この結びつきについて,ライルはカルナップの 'w... questions' に関する議論を参照しているのだ。

ライルの言うカテゴリー錯誤は,誤ったタイプの表現が文枠組みに結合されたときに生じる。そのときには不条理 (absurdity) が帰結するのだ。例えば 'Saturday is in bed' はいかなる文法規則も破っていないが,不条理である,と述べる。ただし後の著作が示すように,ライルはむしろ哲学的な文の (ウィトゲンシュタイン的な) 隠れた不条理を念頭に置いている。

だが「カテゴリー錯誤」概念は,次の3つの段階の区別をぼかしてしまうように思われる。

  1. 文法規則に直接的に違反するような非文。e.g. 'A man and is.'
  2. 文法的だが意味をなさないように見える文。e.g. 'Saturday is in bed', 'Colorless green ideas sleep furiously.'
  3. 表面上おかしくはないが,正当でない類比や概念上の混乱に基づく (とされる) 哲学的主張。e.g.「機械の中の幽霊」。

現代の統語論は 1 が文として認められない理由を説明している,と考えられている。2 のおかしさを説明するのはより困難だが,チョムスキーの試みに見られるように,やはり言語学の範疇に入るとみなしうる。だが 3 は全然言語学に属さない。フッサールからライルの 'Categories',『心の概念』への進展は 1 から 2, 3 への移行であり,「カテゴリー錯誤」概念のこの拡張は結果として,対立する論者の説を「無意味」だと批難する論理実証主義の手法の,より巧妙なヴァージョンをもたらしたのである。

排されるべき先入見

現代の理論との親近性がアリストテレス解釈にもたらす影響に注意しよう。影響の一つは「アリストテレスの図式は言語表現の分類のために作られている」という予想だが,これはアクリルが論駁した。これよりも隠微で支配的な影響は,「アリストテレスの学説は認知的意味の限界を設定している」――フッサール,カルナップ,ライルの意味理論がそうであるように――と考える傾向である。実際には,アリストテレスが文字通りの無意味である誤りを明らかにするためにカテゴリー図式を用いる箇所は,せいぜい一箇所しかない*3。カテゴリー図式は言語の表層構造と区別される意味での論理構造を明らかにするのに役立つとはいえ,文と擬似文,意味と無意味を区別する仕組みではないのだ。

文法的起源の推定: バンヴェニスト,トレンデレンブルク

だが,なぜ最も重要なカテゴリーが口語の疑問形で指定されるのか,という問題は残る。これに尤もらしい答えを与えたのはバンヴェニストの 'Catégories de pansée et catégories de langue' (1958) である。彼によれば,アリストテレスは思考のカテゴリーのリストの作成を意図していたのだが,それらのカテゴリーは元々言語のカテゴリーであって,アリストテレスは事実上単に,自らがそのうちで思考する言語の基礎的カテゴリーのいくらかを手にしたのである: 実体 - 名詞,量・質 - 二種の形容詞,関係 - 比較級,場所・時 - 副詞と地格的用法,なす・なされる - 能動相と受動相,置かれる - 中動相,持つ - 完了形。だがトレンデレンブルクがこの見事な説明を一世紀前にほぼ同じ形で先取りしている。トレンデレンブルクは κεῖσθαι を自動詞と関連付けている点でのみバンヴェニストと異なるが,これにしても統語論的には大まかに言って同じ説明になる。

他方,バンヴェニストが〈カテゴリーの文法的基盤にアリストテレスは無自覚に導かれていた〉と論じるのに対し,トレンデレンブルクは〈文法的な考慮は図式の発見に役立ったにすぎず,一度発見した後はその起源は無視され,もっぱら対象や概念の内在的な本性のみが顧慮された〉と論じる。バンヴェニストの言語相対主義が受け入れがたいのに対し,トレンデレンブルクのより穏健な仮説は考慮に値する。2つの異なる問いに答える必要がある:

  1. なぜカテゴリー図式を構築するのか?
    • 答え: 表層的な言語形式によって見過ごされがちな論理的区別を行うため。とはいえ,それに際して,言語そのものの語句を対照すること自体は,正当である。
  2. なぜこの10個のカテゴリーなのか?
    • 答え: バンヴェニストやトレンデレンブルクが明らかにしたような文法的考慮から,そうなった。ただしその際,当の区別の哲学的重要性に基づいて選別されてはいる。

カテゴリー論発展の三段階説

アリストテレスのカテゴリー論は以下の三段階に分けられる。

  1. 『トポス論』『ソフィスト的論駁について』
    • 10個のカテゴリーは述語および述定の種類の分類。主語の分析はなく,したがって第一実体の理論もない。
  2. 『カテゴリー論』『分析論』
    • 第一実体の理論を含むが,カテゴリーによって構築される〈ある〉(Being) の理論はない。
  3. 形而上学』Δ7,より広範には『形而上学』『自然学』その他の体系的著作全般
    • カテゴリー図式の十全な「存在論的」応用が見られる。この応用は ποσαχῶς λέγεται τὸ ὄν; への解答である。

この区分は時系列を反映していると考えるのが自然だが,歴史的主張ではない単なる説明の便宜としておいてもよい。いずれにせよ,これらは互いに両立不可能な見解であるわけではなく,一つの複合的な教説の発展の諸段階を反映していると見るべきである。

これら三段階に省察と発見の最初の段階が先行する。これを第0段階 (Stage Zero) と呼ぶことにする。第0段階は資料がなく,状況証拠から再構築されるほかない。先述の通り,証拠としては例えば (1) 10カテゴリーの名前と順序,(2) 挙げられる諸事例の性質がある。これらに加え,(3) κατηγορία という名前そのもの,(4) 出発点と思しき『ソフィスト』251A-B,(5)『トポス論』におけるカテゴリーへの言及の仕方,も挙げられる。

第0段階

κατηγορία は動詞 κατηγορεῖν (X が Y していると訴える) から派生する。アリストテレスはこれを転用して「X に Y を述定する (X について Y だと言う)」という術語を新たに考案した。だが述定への問題意識自体はプラトンから受け継いだもので,その最も劇的な表現は『ソフィスト』篇に見られる。

思うに我々は人間を何らか多くの名前で呼びながら語る――それに色や形や大きさや悪徳や徳を帰することによって。それらにおいて,また他の無数のことどもにおいても,我々はそれが人間であると言うだけではなくて,善やその他の数限りないものでもあるとも言う。そして他のものどもは――この同じ仕方で各々を一であると仮定すると*4――再びそれ自身多であり,多くの名で我々は語るのである。(Soph. 251A8-B3)

プラトンはここで,〈一つのものと多くの名前〉という意味論的対比の下側に,〈一つの基体と多くの属性〉という論理的ないし存在論的問題を見て取っている。プラトンはすぐに言説の真偽の条件を与える〈形相の結合〉に移り,また S-V 形式の単純な命題に即した言説そのものの分析に移る。アリストテレスは同じ道をより緩慢に辿る: 名詞-動詞分析は『命題論』で,基体と属性の論理的-存在論的関係は『カテゴリー論』および述定の理論全体で行う。述定の理論において,ὑποκείμενον / κατηγορούμενον は ὄνομα / ῥῆμα に対応する言語外的な事物を指す。

プラトンが〈多くの属性が単一の基体について述べられる〉とだけ指摘する地点で,アリストテレスは立ち止まって,属性を述べる仕方がどれだけあるかを探求し,τὰ γένη τῶν κατηγοριῶν を区別する。結果として前述の考慮に基づき対象言語の分析が粗描される。ただし (1) 語ではなく事物の分類であり,(2) 基体の分類ではなく,所与の基体に関する述定の分類であり,(3) また不完全・不整合である。というのも,おそらく網羅的でも排反的でもないうえ,時と場所の副詞を導入しつつ他の副詞に言及しておらず,また「場所・質・量・実体の変化」に対応する「時間の変化」は語られていないから。

ともあれ,第0段階の哲学的動機は上述のプラトン的問題の探求にあったと言えよう。(イデア論批判を準備する意図があったかどうかは定かではない。) この段階の言語的考察は哲学的考察を支配はしないものの導いている。アリストテレスにおける言語・思考・実在の厳密な並行関係 (Int. 1) に基づくなら,言語分析が哲学的に興味深いものとなるのは,それが,事物の実在的関係を言説内に見出し反映することで,論理的誤謬を避け・明らかにするときだけである。この限りで哲学的文法・概念分析・存在論はそれぞれ別個の企てではない。ただし述定の分析において最初に言語的考察が優勢になることは自然である。

第1段階

『トポス論』はカテゴリー図式の使用を認められる「最初の」著作だが,既に図式自体とその使用の間に乖離が見られる。第一に問答法ゲームが扱うテーゼは典型的には全称命題であり,つまり主語が一般名辞である。それゆえ,『トピカ』は「態勢」「所持」という人間中心的カテゴリーを数えてはいてもほとんど用いていない。加えて,最初は実体にのみ指定されていた「何であるか?」の問いは,各カテゴリー内の本質的 (= 推移的) 述定を特定する問いになる。つまり第1段階の視座は,疑問形によるカテゴリー分類という第0段階の視座を前提しつつ,「何であるか」の適用範囲の拡大によって,新たに,本質的な (同一カテゴリー内の) 述定 / 付帯的 (カテゴリー横断的) 述定の区別を得る。その哲学的帰結は『分析論』が導くが,基本的視座自体は ('ἐν τῷ τί ἐστι κατηγορεῖσθαι' という術語とともに)『トピカ』に既に現れているのである。こうした「何であるか」の定義的使用はプラトンの延長線上にあり,むしろ狭い用法のほうがアリストテレス特有である。

以上の点は『トピカ』の新規性だが,第1段階は第0段階の観点を引き継いでもいる。それは,カテゴリーが「述定の類」であって,基体がそこに含まれない点である。例えば「特定のある人」は第一のカテゴリーに基本的には含まれない。この点『カテゴリー論』とは異なっている。

『トピカ』におけるカテゴリー図式の哲学的動機は概ね明快かつ一貫している。すなわち,単一の言語形式に隠れている論理構造の違いを見出し,論証の誤りを明らかにすることである。詳しく言うと,主として以下の2つの機能がある。

  1. 同名異義的な (≒「様々な仕方で語られる」) 語の様々な用法を区別すること (e.g. Top. A15: 「よい」の多義性の分析),
  2. 言語表現の形式 (σχῆμα λέξεως) に由来する誤謬を解決すること (e.g. SE 22: ὁρᾶν は τέμνειν 同様に能動相だが,意味は受動的である)。

主要な哲学的問題への応用例として,『ソフィスト的論駁について』22章は第三人間論の論駁にもカテゴリーを用いる。すなわち普遍的な「人間」は実体ないし τόδε τι ではなく質・関係等々のどれかであると論じ,無限後退を断ち切るのである。これはイデアを独立した οὐσία とみなすプラトン的な概念把握の断念を含意するが,アリストテレスはそのことを指摘してはいない。

アリストテレスのカテゴリー図式は当初からイデア論を念頭に置き第三人間論への対処法として構想された〉という Owen 説は,〈SE 22 と (初期アカデメイアの論争を反映した) De Ideis の第三人間論への対処は並行的である〉という Kapp, Wilpert の発見に裏打ちされている。Kahn は『パルメニデス』の第三人間論よりむしろ『ソフィスト』を出発点として説明するが,2つの説明の仕方は両立不可能ではない。ただ『ソフィスト』から始めた方が単線的・段階的発展を跡づけることができる。このとき Owen の説明は第2段階に妥当する (そして SE 22 は既にこの段階を視野に入れている)。〈アリストテレスの論理学的関心と形而上学的関心は初めから緊密に結びついている〉という Owen の反 Jaeger テーゼの正しさは疑いを容れないが,哲学的問題に適用する前に論理学的分析をそれ自体として発展させることの方がアリストテレスのやり方に適っている (cf.『分析論前書』と『後書』,『形而上学』Δ巻の focal meaning 論とその Γ巻の存在論への応用)。

第2段階

カテゴリー的分析の存在論的含意は『カテゴリー論』で (おそらく最初に) 明示される。よく言われるように,個物を「第一実体」とする点で反プラトン的傾向は明瞭である。『カテゴリー論』によれば,第二実体の場合,その呼称の形式は「或るこれ」を意味表示するように思われるが,実際はむしろ何らかの質を表示する。「というのも,第一実体のように基体が一つであるわけではなく,むしろ「人間」や「動物」は多くのものについて語られるからである」(3b16ff.)。ここでは「普遍者は実体ではない」という SE 22 の論理学的論点が存在論的に再定式化されている。このことの反プラトン的含意は『形而上学』Z13 以降で明示される。

『カテゴリー論』2-5章は述定理論を展開する。ここで主述関係は一次的には存在論的であり,二次的に意味論的である。そしてこの理論において,カテゴリーは述定のみならず基体をも含む。それゆえ語 'κατηγορία' の使用は最初の段階では避けられ,カテゴリーはむしろ「結合しない語が表示するもの」のクラスとして定義される。このことが意味するのは,カテゴリーの内容が今や (主述いずれにもなりうる) 三段論法理論の項と同一視されるということである。また4つの主なカテゴリーのみが詳細に論じられていることも「科学的」応用への方向性を示唆する。

『カテゴリー論』の理論は「何であるか?」を特定の実体に関する問いとしてのみ用いる点で『トピカ』の理論より狭く見える。だが前者の方が「先」で第0段階に位置することはありえない。というのも第一に,『カテゴリー論』には 'τὰ γένη τῶν κατηγοριῶν' という表現が全く見られず,'κατηγορία' は γένος τῶν κατηγοριῶν を意味する派生的用法が主である。また『カテゴリー論』は本質的述定の存在を認知している: καθ’ ὑποκειμένου λέγεσθαι (↔ ἐν ὑποκειμένῳ εἶναι) がそれである。

『分析論後書』においてカテゴリー論のより深い哲学的帰結が導かれる。イデア論は知識の対象と言説の真偽の存在論的条件を説明するために要請されていたが (Parm. 135b5-c2),『後書』で構築された知識論とカテゴリーに基づく述定の説明はそれを不要にする。イデア論は先述の仕方で不整合であるのみならず,余分でさえある (『後書』A22)。

『分析論』はカテゴリーの哲学史的に重要な別の側面も明らかにする。すなわちポルフュリオスの木の最上位に位置する究極的な一義的述語としてのカテゴリーである。既に『トピカ』で,類種間の述定が推移的であること (143a21),「一」「ある」が類にならないこと (121b4-8 etc.) は述べられているが,カテゴリーが最も広い類だとは『オルガノン』のどこにも明言されていない。原因はおそらく「述定の類」と (プラトン的・プレディカビリア的な) 定義的な「類」とが元々全然別個であることである。カテゴリー図式が全ての ὄντα に適用されることで両者は融合し始めたが,完全に融合することはなかった。両者が恐らく最も接近したのが『形而上学』Δ28で,そこでは ἕτερον σχῆμα κατηγορίας τοῦ ὄντος が ἕτερα τῷ γένει λέγεσθαι の一様式であると述べられている。『前書』A27 においてもある程度の融合が示唆されている。ここでは ὄντα が (1) 述項になりえない感覚的個物,(2) 述項にも主項にもなりうる普遍者,(3) 述項にしかなりえない最上項に分類される (43a25-43)。(3) がカテゴリー的類であることは明白に思われるが,アリストテレスは明示せず,後に説明すると約束する。約束が果たされるのは『後書』A19-22 (esp. A22) である。

だが,〔述定の連鎖が〕上方に無限ではないだろうことも明らかである。というのも各々には,何らかの質や量やそうしたものどもの何か,あるいは実体のうちの何かを表示するだろうものが述定されるから。これらは限られており,述定の類も限られている。というのも,質,量,関係,能動,受動,場所,時のいずれかであるから。 (A22, 83b12-17)

〈各カテゴリー内の述定が有限である〉というこの議論の前提が成り立つのは,カテゴリーそのものが最も普遍的な述語であるときのみであるように思われる。しかし特筆すべきことに,アリストテレスはそれを明記していないし,また少なくとも『形而上学』I2 では οὐσία が類であることが明白に否定されている。

『分析論』におけるもう一つの宿命的な革新は,述定的な繋がりそのものの多様性を示すためにカテゴリー図式を使用していることである。「これがそれに属すること,すなわちこれがそれについて真であることは,カテゴリーが分割されるのと同じだけの仕方で把握されねばならない」(APr. A37, 49a6-8)。A36 では〈「属する」は「ある」が語られるのと同じだけの仕方で把握されねばならない〉と述べられているのだから,ここで我々は「ある」の多義性の分析というカテゴリー図式の存在論的・形而上学的応用の入口に立っている。

第三段階

〈ある〉の類ないしカテゴリー (述定) という見方は学問的著作 (非『オルガノン』) に通底する。例: Phys. A3, Γ1, GC, De An. B1, EE A8 etc. しかし就中『形而上学』に見られる。この見方に関する最も「初期の」論述は Metaph. Δ7 である:

述定の形式を指示する (σημαίνει) ものとちょうど同じだけのものが,自体的にあると言われる。というのも,語られるのと同じだけの仕方で〈ある〉は指示するから。それゆえ述定のうちあるものは「何であるか」を指示し,別のものは「どのように」を,また別のものは「どれだけ」を,また別のものは「何に対して」を,また別のものは「なす」「なされる」を,また別のものは「どこ」を,また別のものは「いつ」を指示するのだから,〈ある〉はこれら各々と同じものを指示する。というのも,「人間が健康である (ὑγιαίνων ἐστὶν)」と「人間が健やかだ (ὑγιαίνει)」は何ら違いがなく,「人間が歩いている・切っている (βαδίζων ἐστὶν ἢ τέμνων)」と「人間が歩く・切る (βαδίζει ἢ τέμνει)」も何ら相違しないのであり,他のことどもについても同様だからである。(1017a22-30)

ここの 'σημαίνειν' は語と意味の関係を表していないのだから,「意味表示する (signify)」ではなく「指示する (indicate)」と訳されるべきである。またカテゴリーは APo. A22 のそれと同じである。

Kirwan は,この箇所の区別・分類の対象が (1) 命題「X is F」の理解の仕方か,(2)「存在する (exist)」の諸義か,と問う。どちらも不正確だが,部分的にはアリストテレスの意図を捉えている。(1) の方が意図により近い。カテゴリー的分析の眼目は,真なる命題的主張の背後にある実在の主述構造を明らかにすることだからだ。この構造の要素たる ὄντα は「実体 (οὐσίαι)」と「属性 (ὑπάρχοντα)」であり,実体はむろん第一のカテゴリーに属するが,属性は「何であるか」を含め8つのカテゴリーに分類される。ὄντα の分類である限りで「存在する」と書き換えることは可能だが,作為的な操作だと言える。

アリストテレスは X is Y と XY's の論理的同値性を指摘することで,〈ある〉の分類が全ての単純な文について成り立つことを明らかにしている。このことは,『カテゴリー論』が「結合されていない語」から図式を導入した仕方から自然に帰結する。『カテゴリー論』の 'σημαίνειν' はカテゴリーと λεγόμενα の関係を表しており,λεγόμενα を言語表現と解するのは自然である。だが λεγόμενα は概念・事物でもありうる。(この曖昧さはアリストテレスの意味論的語彙の貧弱さに由来する。)『カテゴリー論』の 'σημαίνειν' を語-事物関係に解するなら,『形而上学』Δ7 の 'σημαίνειν' にもその意味を期待するのが当然であろう。現代の読者が πολλαχῶς λεγόμενα 説を語「ある」の多義性の説明として理解しがちであることの背景には,20世紀の哲学的動向のほかに,こうした事情も存している。

だが,その解釈は取れない。'σημαίνειν' は〈ある〉や諸カテゴリーのみならず,各カテゴリー内の τὰ κατηγορούμενα も含む複雑な意味論的関係の諸側面を表現しており,関係項は言語表現ではない。この意味論的用法は『カテゴリー論』1章の「同名異義的なもの (ὁμώνυμα)」のそれと類比的である。ただし『形而上学』Γ2 では〈各カテゴリーの〈ある〉は単に「名前のみが共通である」わけではない〉と論じられる。

同名異義性と同様,πολλαχῶς λέγεσθαι も (1) 単一の語・句・派生語,(2) 当の語句の適用対象となる諸事物,(3) 当の諸事物の説明規定 (λόγος τῆς οὐσίας) のあいだの三重の関係である。『形而上学』Δ巻の各章はこの仕方で語を分析する。〈ある〉の場合は (1) 語「ある」,(2) あらゆる実体・属性,(3) 8つのカテゴリーが関係項となる。こうした複雑性,および「名詞-動詞」構文における「ある」の潜在的使用も視野に入れていること,のゆえに,'σημαίνειν' の用法はごた混ぜになっている。以上のことを念頭に置いて,Δ7 の以上の一節を正確に解釈したい。

  • 「述定の形式を指示する (σημαίνει) ものとちょうど同じだけのものが,自体的にあると言われる。」ここで論じられる「もの」は (2) 実体・属性であり, (3) カテゴリーに即して「同じだけ」と数えられている。(3) で指定された仕方で,各々の事物には (1) 語「ある」を適用することができる。ここでアリストテレスは〈あるとは特定のものであることだ〉という『ソフィスト』篇の教えを発展させている。
  • 「というのも,語られるのと同じだけの仕方で〈ある〉は指示するから。」語られるのは (2) 個々の事物だが,それらは (3) 8つの異なる仕方で語られるのである。
  • 「それゆえ述定のうちあるものは「何であるか」を指示し,別のものは……だから,〈ある〉はこれら各々と同じものを指示する。」(2) 個々の物が (3) カテゴリーを指示する。それに対応して,〈ある〉も (3) 特定のカテゴリーを指示する。〈ある〉が述定の観点から考えられていることは直後の一文が明らかにする。ここの 'σημαίνει' は語-概念の関係を示すように見えるが,直前の事物-カテゴリーの σημαίνειν を参照している。

結局,この箇所の 'σημαίνειν' の統一的解釈は不可能である。この表現は (i) 言語表現-個物関係 (denotes), (ii) 言語表現-カテゴリー関係 (connotes),(iii) 個物-カテゴリー関係という三重の関係を示す。アリストテレスは究極的には (iii) に関わっているのであり,語「ある」の分類という説明はミスリーディングである。

存在 (existence) の概念は述定のカテゴリー的分析によって完全に吸収されている。ソクラテスにとって〈ある〉とは人間であることであり,白にとって〈ある〉とは,色,すなわち (何らかの実体に属する) 質であることである,等々。実体のみが「実体に属する」という注記を要しない。このことが,実体への他のカテゴリーの存在論的依存を示している。

以上見たごとく『形而上学』Δ7 には,はじめ論理形式の分析のために案出され用いられていたカテゴリー図式が,十全に存在論に応用されているのだ。反対に,カテゴリーが初めから〈ある〉の分類のために案出されたと考えるのは誤りである。そうだとすると Δ7 は恣意的で循環した試みになってしまう。この論点は,存在論そのものの本性を理解する上でも極めて重要である。〈ある〉の分析は,実在の直接的点検や対象・概念の目録を通じてではなく,λόγος の分析と述定理論を通じてなされるのだ。

存在論全般をさらに論じることなしにカテゴリーの理論をこれ以上辿ることはできないが,若干の注記は必要である。第一に〈ある〉の focal meaning 説 (Γ2, Ζ1, 4-5) はカテゴリーのみならず生成と消滅,欠如と否定,実体と属性等々様々に応用される。アリストテレスはこうした観察を通じて,同名異義的と呼んでいた事例が本当に「名前のみが共通」であることはほとんどない,という事実の重要性に気付いた。この洞察から〈ある〉の多義における一次的・二次的用法の区別の応用が進展した。すなわちアリストテレスは,「第一実体」(Cat.) の特別視をやめ,「第一義的にある」ものが実体であるとし,それ以外のものの存在論的依存関係を指摘する。(これが語の意味に関する議論ではないという点では focal meaning という術語はミスリーディングであろう。) 第二に実体のみが疑いなくあると言われる。第三に,存在論的依存関係は,実体以外のカテゴリーの説明規定が実体の説明規定を前提するという論理的事実に反映されている,と指摘される。

それゆえ〈ある〉の多義性は実体の〈ある〉という単一の本性・原理への言及により統一的な体系をなすことになる。この結果,「あるかぎりのある」の研究としての第一哲学の可能性が説明・正当化される。パルメニデス - プラトンから継承された存在論は実体の研究として再定義され,結果として τὸ ὄν の veridical な含意に大きく依拠した「ある」の彼岸的な含みは消える。つまり修正的形而上学から記述的形而上学に転換する。

結局のところ,カテゴリー論はアリストテレス形而上学の中心的テーゼではない。実体とそれに依存するもののより深い分析は φυσικῶς になされなければならない。存在論の到達点から見れば,カテゴリー論の寄与はごく控えめで基礎的である。だがそのことこそ,カテゴリー図式が日常的に用いられるさまざまな疑問形に根ざすべき,一層の理由になるのである。

*1:ハードカバー版から収録されている他の論文には目立った誤植はないので,増補作業が拙劣だったのだろう。精度の低い OCR で読み取ったものをそのまま印刷したのかもしれない。ほんま頼むで OUP.

*2:「文枠組み」が何を指すのか不明だが,「x は白い」のような関数のことだろうか。

*3:原注11: Thompson は APo. A22 (エイドスを「さえずり」と評する箇所) を挙げるが,これとても有意味性の基準を明示的に用いている例とは言えない。

*4:原注20: この箇所の ὑποθέμενοι (posit [as subject]) はアリストテレスの ὑποκείμενον を予示している。[面白いが,普通に読めばここは単に「仮定する」という程度の意味になるはずで,やや強引な解釈ではないかとも思う。]