トランス・フェミニズム Bettcher (2014) "Feminist Perspectives on Trans Issues" #3

  • Talia Bettcher (2014) "Feminist Perspectives on Trans Issues" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), 47-77.

8節から終わりまで.「トランスジェンダーフェミニズム」という見出しを付けてきたが,トランスジェンダーだけを扱った記事ではないのであまり適当ではなかったかもしれない.


8. クィア理論以後のフェミニズム的連帯

バトラー以後,非トランス・フェミニストがトランス研究に顕著に貢献した.レイモンドやハウスマンと対照的に,それらはトランス・フェミニストと非トランス・フェミニストの連帯を促進する真摯な成果である.

8.1 世俗的ユダヤ人とトランスセクシュアル女性

ナオミ・シーマン (Naomi Scheman (1997)) は周縁化された生が「生きられてきたし,ゆえに生きうるものだ (are lived, and hence livable)」という前提から出発する.

シーマンは世俗的ユダヤ人とトランス女性を対比する.

  • キリスト教規範性 (Christianormativity) は他の全ての宗教を回心に基づいて表象するため,世俗的ユダヤ人としてのアイデンティティをもつという事態の説明を難しくする.
  • 同様に,異性愛規範性は男女の「自然な」二元性を要求するため,トランスセクシュアルは別の性であると主張して自身の歴史を否定するという矛盾した態度を伴うものと見なされる.
    • ただし,キリスト教規範性が全ての宗教が選択と回心で動くとするのに対して,異性愛規範性は全てのジェンダーが出生時に決まっているとする.

シーマンによれば,「ユダヤ性」も「女性性」も家族的類似性をもつ概念である.しかし,祖先によって「ユダヤ人」カテゴリーに割り当てられた人や,生まれによってあるジェンダーを割り当てられた人は,そうした概念の存立に必須の基盤をなす.

  • シーマンは,生まれつきの女として抑圧を経験してきた個人 ("perinatally pinked") の受けた傷を癒やす「女性として生まれた女性 (womyn-born-womyn)」の空間が必要であると考える.
  • だがシーマンによれば,MTF も女性性へと「回心」したものとして理解できる.
    • たしかに,宗教と違って単なる選択 (choose) ではない,などの類比の破れはある.
    • だが,集団のなかに参加するという考え方をすれば,絆・価値・コミットメントの共有の重要性を強調できる: 重要なのはアイデンティティではなく忠誠と連帯である.

8.2 関係的なものとしてのジェンダー

クレシダ・ヘイズ (Cressida Heyes (2000)) は,ヘイルに従って「女性」が家族的類似性をもつ概念だと論じ,またシーマンに従ってトランス女性と非トランス女性の区別が強調されるべき場面があると述べる.

ヘイズはレイモンドやハウスマンを批判する一方で,トランスジェンダー政治 (例: ファインバーグ) に見られる,ジェンダーを孤立した個人の表現と見る傾向にも異を唱える.ジェンダーは関係的であり抑圧的システムにしばしば埋め込まれている (例: 「本物の男」であることは,女性に敵対的・破壊的に関係することを伴いうる).ヘイズによれば,進歩的変容と,抑圧や周縁化を推進する変容とを区別する,「変容の倫理」(ethics of transformation) が必要である.

8.3 人種と性の類比

ヘイズはトランスセクシュアリティと仮説上の「人種転換主義 (transracialism)」における性と人種の類比 (sex/race analogy) を検討する.レイモンドはこの類比を用いてトランスセクシュアリティを道徳的に疑わしいと論じた.他方,クリスティーン・オーバーロール (Christine Overall (2004)) は,人種超越主義の道徳性も同様に認めねばならないと論じる.

ヘイズはレイモンドを批判して,「人種転換的医学的介入の要求はない」という主張は経験的に偽であると述べる: 様々な整形施術は現に存在する.またヘイズによれば,当の類比は,個人のアイデンティティを帰る動機が,「利点と欠点の透明な政治的評価」に基づいているという問題のある想定に基づいている.

ヘイズによれば,オーバーロールの分析はもう少し細やかだが,やはり人種と性の各々がもつ歴史を捨象してしまっている.以下の諸点で「人種転換主義」はより実現可能性が低い.

  • 例えば,性は人種と異なり今なお中核的存在論的事実と見なされている.
  • また歴史的に,遺伝が人種を規定する役割を果たしてきた.
    • また人種には性にはない「パッシング」の歴史がある.

8.4 抱負的アイデンティティ

Overall (2009) は性/ジェンダー転換の形而上学についての二つの説を批判する.どちらも,本当のところ変化は存在せず,ひとは元の性/ジェンダーにとどまる,という「仮装仮説」(masquerade hypotheses) に基づく.

  • 非トランスの人々が取ることの多い第一の説によれば,性/ジェンダーの転換を行う人は,本性を隠し,仮面を被っているにすぎない.
  • トランスの人々が取ることの多い第二の説によれば,性/ジェンダーの転換を行う人は,仮面を剝いで,元々そうだった真の自分になるにすぎない.

オーバーロールによれば,これらの説に含まれる幻想・欺瞞の要素は,多くのトランスの人々の生活の実情にそぐわない.

むしろ,性/ジェンダー転換は,人生をよりよいものにする個人的変容と自己実現の抱負 (aspirations) と類比的である (例: 移民になること,断酒プログラムに参加すること,入信すること,母親になること).起こるのは性/ジェンダーの本当の変化である.ジェンダーをもつ具象的自己が不変なものとしてあるわけではない.むしろ人格の同一性は,転換後のあり方が,転換前の自己が望み追求したあり方である,という点に存する.

この説の望ましくない帰結は,例えばトランス男性が転換前に自分が男性だと真なる仕方で言えなくなってしまうことだ.オーバーロールは性を生殖器で定義している.ゆえに陰茎形成術を受けないトランス男性は依然女 (female) だということになり,また女性 (woman) であることになるかもしれない.問題は,コストゆえにこの手術を選ばない人も,自分を男性だと見なしているということだ.

Overall (2012) は以下を区別する:

オーバーロールによれば,ジェンダーアイデンティティは抱負的であり,性も (シス・トランスの人々が手術などを求める限りで) 抱負的なものになりうる.

そして,トランスとシスの人々はともに,強制的なジェンダー維持のシステムに巻き込まれ,維持の方法やアイデンティティの表出方法の諸制約に従属し,またジェンダー維持に関連する様々な危険 (例: トランスフォビックな暴力,シス女性に対する暴力) に晒され,またジェンダーの抱負において様々な連続性・非連続性を経験している.こうした仕方で,オーバーロールは非トランス・フェミニストとトランスの人々の間の連帯の根拠を見出すプロジェクトを継続している.

9. トランスの身体化の現象学

ゲイル・サラモン『身体を引き受ける』(Gayle Salamon (2010)) は,ジェンダー身体化 (gendered embodiment),とりわけトランスが経験する「感じられる身体」(felt body) と身体の外的な見かけとの違和の現象学にかかわる.サラモンは,ジェンダーが社会的に構築されたものかをめぐるバトラーとプロッサーの論争に立ち返る.サラモンは,プロッサーがフロイトとアンジューを誤読していると指摘した上で,固有受容感覚が文化を超越するという見方が尤もらしくないと論じる.サラモンによれば,身体を読解可能ないし不可能にする社会的諸力こそ,身体化の感覚を形作るものなのである.

  • サラモンはシルダー『身体の心理学』(Schilder (1950)) に依拠し,身体イメージが生得的でなく世界との経験的接触を通じて出来上がっていくのだと主張する.ゆえに,身体感覚と外的な見かけとの不一致はトランスに限られない.
    • だが,この環境に訴える説明が,トランスの「間違った」身体化の経験をいかにして説明できるのかは明らかではない.
  • 内的感覚に加え,ひとは自身の身体に愛着をもつ.サラモンによれば,身体の「自分のもの性」(mine-ness) はこのナルシスティックな愛着に依存している.
    • しかし,これをセクシュアリティやエロティシズムに還元されない仕方で説明できるのかという問題がある.シルダーの「リビドー的愛着 (libidinal investment)」には強い性的含意がある.こうした観念に訴えると,身体違和を性的な感じ方 (sexual feelings) に還元してしまう恐れがある.
      • サラモンはここでバトラーの (性的なものを特権化しているように見える)「形態学的イマジナリー」(morphological imaginary) に訴えてしまっている.
    • 必要なのは,身体違和を基礎づける,性的でない愛着を説明することである.

ただしサラモンは,トランスのセクシュアリティ経験の説明においては,トランスセクシュアリティのエロティシズムへの還元を注意深く避けている.彼女はメルロ=ポンティの性的図式 (sexual schema) と転置 (transposition) の概念に依拠して,次のように述べる: 性的欲求を経験するとき,ひとは欲求対象に向かう (oriented toward).転置において,身体は欲求と置き換わる (欲求そのものになる).

この場合,重要なのは,現実の身体の部位ではなく,性的欲求に占めるその役割であり,転置の過程である.サラモンのメルロ=ポンティの使い方は,身体の部分を組み込む際のエロティックなものの役割に関して,バトラーの形態学的イマジナリーに似る.だがサラモンの議論は,「ジェンダーの内的感覚」が他の人々に見て取られるようになる仕方を説明している.

10. トランス/フェミニズムに向けて

多くのトランス女性は,女性であるために,性差別と性暴力のメカニズムをよく知っている.また性暴力とトランスフォビアは分かちがたく結びつく場合もある (例えばトランスジェンダー女性の見かけだけから娼婦と見なされる場合).そこで,トランス女性に対する抑圧を出発点とした「トランスフェミニズム」の立場が,幾人かの論者によって素描されてきた.

10.1 トランスフェミニストマニフェスト

エミ・コヤマは,トランスフェミニズムを,「まずもって,自分たちの解放が全ての女性やそれ以外の解放に本質的に結びついていると考える,トランス女性による,トランス女性のための運動」(2003, 244) だと定義する.トランスフェミニストが携わる問題には,身体イメージ,女性への暴力,健康,リプロダクティヴチョイスなどがある.

コヤマはヘイズが指摘したジェンダー表現の自由ジェンダーの政治的含意の緊張関係に関する議論を深める.コヤマは,伝統的ジェンダーの受け入れが医学技術への安全なアクセス,「本当の女性」として認められること,トランスフォビックな暴力の回避に必要である状況を認識する.そこで,「トランス女性はあらゆるステレオタイプを根絶すべし」という潔癖な要求に懸念を表明し,個々の女性にジェンダーの扱い方の決定を委ねる,よりスケールの大きい連帯的政治を優先すべきだと論じる.

コヤマはまた,ミシガン女性音楽祭におけるトランス排除の問題を取り上げ,術後のトランス女性が,術後のトランス女性だけを受け入れる「妥協的」ポリシーを受け入れようとしたことを批判する.そうしたポリシーは裕福なトランス女性に不当に有利であり,ゆえに階級差別的・人種差別的である.かつ,非トランス女性のための空間が必要だとしても,そのことはトランス女性の音楽祭への入場を排除するものではない.コヤマによれば,トランス女性の排除は,フェミニストの連帯が一枚岩の共有された経験を必要とするという前提に立つかぎりで,内在的に人種差別的である.

10.2 トランス女性マニフェスト

ジュリア・セラーノ (Julia Serano) は,(男・男性性が女・女性性より優れているとする) 伝統的性差別と, (男/女が排他的カテゴリーをなすという) 対立的性差別 (oppositional sexism) を区別する.セラーノは,トランス女性の外見上の女性性を標的とする差別をトランスミソジニーと呼ぶ.例えばメディアはトランス女性を姿を偽る性的捕食者として,ないしは不憫,滑稽,まがい物として表象する場合がある.またセラーノによれば,女性的な男の貶価は伝統的性差別の一形態である.

セラーノは,「間違った身体」の気づきを要求することなしに伝統的ジェンダーアイデンティティを捉える語として,「無意識の性 (subconscious sex)」の存在を措定する.セラーノは,生物学的性と無意識の性が一致している人を有利にするものをシスセクシュアリズムと呼び,これに対して男は男らしく,女は女らしくすべしという想定をシスジェンダリズムと呼ぶ.

セラーノは,女らしさの属性の多くは生物学的基礎を有するという立場を取る.だがセラーノは,そうした「個人的共鳴」と強いられた社会的黙従を理論的に区別できていないことに加えて,女の従属の度合いと深さを過小評価しているように思われる.セラーノによれば,多くの (非トランス) フェミニストは,女らしさを否定的に評価し,それによってある種の性差別に与してしまっており,さらに言えば,トランスの女性性に対するフェミニストの批判は内在的に反フェミニストである.だが,この立場は,政治的に問題のあるジェンダー行動の分析の余地を残していない.セラーノの議論の問題は,ジェンダーを根本的に関係的なもの (ジェンダーを有する他の人々に対する特定の遇し方を伴うもの) だと捉えていない点にある.ジェンダーが関係的である限り,それは倫理的評価の対象となりうる.

セラーノは男女間の性差別的関係を見逃しているわけではない.だがセラーノによれば,女性性から生じるネガティヴな関係的特徴は,女性性そのものではなく,その不適切な解釈・評価から生じるのである.問題は,女性性をそうした関係的社会的意味づけからどう抽象するのかである.少なくともフェミニストは社会的意味付けに深く巻き込まれた有害な男性性・女性性を憂慮してきたのであり,この点でフェミニスト自身を性差別的だとするのは不当であるように思われる.

10.3 邪悪なペテン師,またはごっこ遊びをする人

ベッチャーは,「間違った身体」説と,新たなトランスジェンダー・ポリティクスが主張する脱二元論的 (beyond-the-binary) ヴィジョンの両方を批判する.

  • 「間違った身体」説は,自身の生殖器を間違っていると思わないトランスの人々の自己アイデンティティを無効化している.
    • 例えば生殖器再構築手術を行った MTF も,「女性」の支配的意味からすると微妙な事例になってしまう.
  • 脱二元論的ヴィジョンは,二分法のなかで全てのトランスの人々を周縁化する点で,トランスのアイデンティティを無効化している.

ベッチャーは,トランスの自己アイデンティティの主張の正当化を試みる代わりに,そうした主張が理論の推定上妥当な出発点だと見なされねばならないと考える.

  • 多くのトランス下位文化において,「女性」「男性」といった語の意味は,トランス男性・女性が範例的事例となるような仕方で変化している (例えばXY染色体が女性であることの否定の根拠にならない).
  • 加えて用法も変化しており,それが言明の文法に反映される: もはやカテゴリーが対象に真に述定されるかどうかだけの問題ではない.むしろ,ジェンダーに関する一人称の現在の主張が,当人が深い意味で「誰であるか」の言明でありうる.

ベッチャーは多くのトランス抑圧の本性を,真正性の基本的否認 (Basic Denial of Authenticity, BDA) ないし現実強要 (reality enforcement) として特徴づける.

  • この種のトランスフォビアにおいて,トランス女性は見かけ・現実・暴露・発見・欺きに関する言説のうちに置かれる.
    • 例えばトランス女性は「本当のところ女性に扮した男性である」と見なされうる.
      • これは様々な形での生殖器の確認 (genital verification) と結びついている (不適切な暴露・接触から婉曲的な質問まで).
    • 非トランスとしてパッシングしている場合,トランスの個人は (「暴露された」とき) 欺瞞的だと見なされうる.トランスだと分かる場合,無害なごっこ遊びをしているものと見なされうる.どちらの場合にもトランスの自己アイデンティティは無効化される.
  • 厳密な男女二元論に訴えるトランスフォビアの説明は,現実強要をうまく説明できていない.そうした形でのアイデンティティの無効化は,しばしばトランス差別者の当惑から来ているのではないからだ1
  • また可視化を目指すトランス政治は,トランスの人々が置かれている上記の欺瞞/ごっこ遊びのダブルバインドの状況下では,成功の見込みがない:「自分について本当のことを言う」という要求は間違っている.

現実強要とそれに対する抵抗を認識すれば,ジェンダーを社会的構築物とみなす立場と,トランスのアイデンティティを真剣に捉える政治的必要との見かけ上の対立は緩和されうる.トランスの人々は現実強要により不可避的に欺瞞・まがい物として構築されている.全てのジェンダーが社会的に構築されているという一般的主張は,そうした構築のされ方について特段述べていないだけである.現実強要を考慮するなら,ジェンダーの真正さの主張は,トランスフォビックな抑圧への対抗とみなすことができ,それゆえ (バトラーに見られるように) 主張者を単に反動的・保守的と見なさなくともよくなる.

ベッチャーの中心的テーゼは,「現実強要が,ジェンダーの提示 (「見かけ」) が身体的な性,就中生殖器 (「深層の現実」) を指し示しているという事実から説明できる」というものだ.このことゆえに,ジェンダーの提示と特定の性をもつ身体を「揃えていない」(misalign) トランスの人々は欺いている・ふりをしていると見なされ,「正しく」揃えている人が真実を語っていると見なされるのである.

実際には,個人への感覚的 (ないし論弁的) アクセスの許容される境界も,文化依存である.例えば女性の乳首は男性の乳首とは違って境界の内側にある.また男性が女性の生殖器を見るのはプライヴァシーの侵害でありうる一方,その逆は男性側の無作法でありうる.つまり裸にも性別によって異なる二形式がある.それゆえ上記のテーゼは,「着衣のジェンダー提示が裸のジェンダー提示を婉曲的手段で表象している」という形に洗練される.

こうしたジェンダー-生殖器表象関係は,人々を操作する異性愛セクシュアリティにおいて用いられる非言語的コミュニケーションシステムの一部をなす (例: 女性的服装が「彼女が誘ったんだ」式のレイプの弁明に用いられる場合).性差別とトランスフォビアの交点に位置するトランス女性にとって,このことは特別な困難をもたらす.

ベッチャーは,人種差別的イデオロギー,レイプ,レイプの人種差別的非難の歴史的交差を指摘し,この点で現実強要が人種的抑圧にも基礎を有していると論じる.この点でベッチャーは,自身の説が反人種差別的なトランス/非トランスフェミニストの連帯の基礎となると結論する.また,トランス女性をペテン師と見なすトランスフォビックなフェミニストの主張は,ジェンダー提示が生殖器の状態を伝えるような性差別的システムに依拠していることもわかる.

11 結論

初期の (非トランス) フェミニストのトランス問題に対する見方は敵意に彩られていたが,その後トランス研究・政治はフェミニストクィア理論と複雑な反応を示し,生産的相互関係・連帯の可能性が開かれてきたように見える.


  1. 意味が取りづらいが,トランス差別者が二元論を前提しているためにそこから外れた人々を理解できず,その結果として差別が生じる,という説明が批判されているのだと思う.