ヒュパティア伝説とその諸起源 Dzielska (1998) Hypatia of Alexandria, Ch.1

  • Maria Dzielska (1998) Hypatia of Alexandria. trans. by F. Lyra. Harvard University Press.
    • I. The Literary Legend of Hypatia. 1-26.

軽い気持ちで読みはじめたが高密度の文章だった.予備知識はあまりない (ワッツの訳書も未読).


現代の伝統

「僧侶 (キリスト者) に八つ裂きにされた若く美しい異教哲学者」という今日流通するヒュパティア像は,古代の文献ではなく (歴史) 文学に基づく.彼女がヨーロッパ文学に初めて登場するのは18世紀のことであり,彼女は啓蒙期の宗教・哲学的論争の道具として用いられた.John Toland (1720) Hypatia はスーダに依りつつもヒュパティアを賛美しキュリロスを批判する.この論考は概して好意的に受け止められ,Voltaire も彼のヒュパティア像を用いて教会と宗教への反感を露わにした (Examen important de Milord Bolingbroke (1736),『哲学辞典』).Voltaire はダマスキオスやスーダなどの資料を明示するものの扱い方はごく無造作であり,その記述はばかげた機知を含む.ヒュパティア伝説の起こりはこれら Toland や Voltaire の単純で虚実入り交じった説明に見いだされる.古代の資料から読み取れるヒュパティアの実像はより複雑である.彼女は宗教的啓示を通じて神を探求し,またキリスト教徒以上に頑固で道徳的な禁欲主義者であった.

Gibbon は啓蒙思想,ネオヘレニズム,および Voltaire の文学的・哲学的スタイルの影響下でヒュパティア伝説を詳述した.彼はキュリロスを,ヒュパティア殺害を含む5世紀初頭のアレクサンドリアのあらゆる紛争の下手人とみなした.Gibbon によれば,ヒュパティアはギリシア宗教への帰依を公言し,またアテナイアレクサンドリアで公に教えた――前者の主張の根拠は不明であり,後者はスーダにおけるダマスキオスの説明の誤解に基づく.Gibbon も Toland や Voltaire 同様,キュリロスの嫉妬と狂信者による殺害というダマスキオスのストーリーを受け売りする.この「アレクサンドリアの犯罪」の表象は,キリスト教の台頭が古代文明の衰亡の決定的原因であるという Gibbon の理論と平仄が合う.ほかに Henry Fielding (1743) A Journey from This World to the Next など多くの18世紀の著作でヒュパティアは言及される.

ヒュパティアの文学的伝説が頂点に達したのは19世紀半ばである.Leconte de Lisle は Hypatie と題した詩を二つ公表した (1847, 1874).一作目のヒュパティアは歴史の法則の犠牲者であり,キリスト教の「陰謀」の犠牲者なのではない.他方で二作目では反キリスト教的解釈に回帰している.いずれの詩も古代の本質的価値の永続への確信を示す (彼は古典古代にインスピレーションを求めた高踏派の創設者の一人である).彼にとってヒュパティアは身体的な美と精神の不死性の体現者として西洋の想像力のなかで生き続けるのである.こうしたロマン主義的な古代ギリシアへの慕情は彼の劇作品 « Hypatie et Cyrille » (1857) にも示されている.ここで描かれる感覚的美へのヒュパティアの愛とキュリロスの教条的キリスト教の閉域というイメージは今日まで存続しており,« le souffle de Platon et le corps d'Aphrodite » というフレーズさえ未だにヒュパティアと結び付けられる.Nerval は 1854 年の作品でヒュパティアに言及し,Maurice Barrès は 1888 年に掌編 « La vierge assassinée » をものした.後者は Leconte de Lisle の要望で書いたという.

Charles Kingsley の長編小説 Hypatia or the New Fors with an Old Face (1853) は元々歴史研究として構想されたが,実際は反カトリック的色彩が強いヴィクトリア中期のロマンスの形式を採る.同作のヒュパティアは若くしてムセイオンで教鞭を取り強い影響力を持つ.キュリロスはそれを快く思わない.長官オレステスは野望を抱いてヘラクリアヌスの反乱を支持し,ヒュパティアを異教復活の約束とともに陰謀に引き込む.ヘラクリアヌスの敗北とともにヒュパティアは騙されていたことを悟る.長官の一族と教会のあいだの緊張はエスカレートし,ヒュパティアは政情不安の原因と噂されて殺害される.この対立の描写はソクラテス・スコラスティコスの記事に従っている.Kingsley の本はヨーロッパ諸語に翻訳され,ドイツの数人の歴史家がこれを対象に学位論文を書きさえした.この本はヒュパティアの死に伴うギリシア的価値の消滅という観念の促進に際立って力あった.

19世紀後半にアメリカとイギリスの実証主義者たちはヒュパティアをまずもって科学者,ギリシア最後の学者とみなした.J. W. Draper と Bertrand Russell はこの点で類似の所感を述べている.

ヒュパティアがイタリア文学に導入されたのは Contessa Diodata Roero di Saluzzo (1827) Ipazia ovvero delle Filosofie で,これはヒュパティアとキリスト教を結びつける空想的伝記である.Carlo Pascal はヒュパティアの死を初めて反フェミニズムに結びつけた.Luzi の戯曲 Libro di Ipazia はヒュパティアの死をキリスト教的に解釈する.殺害者たちは Kingsley が描いたような邪悪なキリスト者ではなく,いかなる群衆にも内在する邪悪なのである.

現代文学では Arnulf Zittelmann の Hypatia が人気を博した.この作品もヒュパティアの死を古代の終焉およびミソジニーと結びつける.カナダでは André Ferretti の Renaissance en Paganie (1987) および Jean Marcel の Hypatie ou la fn des dieux (1989) がある.いずれも Kingsley や Zittelmann と観点を共有する.

フェミニストによる受容は最近の展開である.Hypatia: Feminist Studies (Athens, since 1984) や Hypatia: A Journal of Feminist Philosophy (Indiana University, since 1986) がある.1989年に後者にフェミニスト文学者 Ursula Molinaro はヒュパティアの生と死に関するヴィヴィッドな詩的叙述を寄稿した.芸術の分野では Judy Chicago の 1979 年の SFMOMA の展示 The Dinner Party にヒュパティアが参加者として登場している.

伝説の諸起源

若く美しいヒュパティア,高名な哲学者にして数学者,同胞の異教徒からは賛美され総主教キュリロスを初めとするキリスト教徒には軽蔑され,ついにキュリロスとその一族によって不当かつ残忍に殺害された……云々,という文学的伝統の根拠をなす古代資料は少ない.

伝説の萌芽となるいくつかの要素はソクラテス・スコラスティコスの5世紀の教会史に見られる.ヒュパティアの美徳・学識・人気について雄弁であり,また殺害の最も詳細な記述を与える.殺害者のリーダーである読師ペトルスという名前もここに登場する.総主教キュリロスとアレクサンドリアキリスト教徒に対する無条件の非難はダマスキオスの『イシドルス伝』にのみ見られる.この著作の断片としてスーダのヒュパティアの記事が残っており,Gibbon はソクラテスとスーダの両方を用いている.

ただし Gibbon は自らの反キリスト教的熱情ゆえに,ダマスキオスがヒュパティアとキュリロスの一派 (αἵρεσις) を同列に並べている点を見逃している.ヒュパティアが若い頃にキリスト教の信条に帰依したということはありうる.同時代のアリウス派のフィロストロギウスの記述はそのことを示唆するが,資料として信憑性が低い.だが他の資料はダマスキオスがヒュパティアとネストリウス神学を結びつけたテクストを読んでいた可能性を明らかにしている.すなわち複数の著作家が擬ヒュパティアのキュリロス宛書簡を引用しており,そこでヒュパティアはネストリウス派となっている.キュリロスはネストリウスの個人的論敵であり,この状況はフィロストロギウスの叙述に影響したものと思われる.キュリロスとネストリウスの激しい論争はキリストの神性・人性とマリアに関するものであり,ネストリウスはマリアを単に「キリストの母」と呼び「神の母」とは呼ばなかった.キュリロスはネストリウスとの論争をマリア信仰の促進に利用し,ネストリウスは敗北して431年に異端宣告を受けた.この偽作はエフェソス公会議 (431年) 以降にものされたはずであり,ゆえにヒュパティアとキリスト教異端とを結びつける伝統は古代末期に生じたものと思われる.この伝統は6世紀のダマスキオスが親しんだものであり,またヒュパティアの伝記に取材した聖カタリナ伝説の形で普及した.Kingsley ら後代の著作家もヒュパティアをキリスト教と結びつけているが,ただし神学論争における役割を彼女に帰してはいない.

ヒュパティアに捧げられたあらゆる著作は,彼女の突出した資質を称えるエピグラムを引用する.当の詩はパッラダスに帰属される.彼はヒュパティアの若い頃に作品を書いたが,彼女の没年まで生きていたとは考えにくい.また G. Luck が指摘するように,哲学者ヒュパティアと同一人物である決定的証拠はないし,頌歌のパッラダスへの帰属も定かではない.

近代の教会史家もヒュパティアに注目してきた.Baronius の Annales Ecclesiastici はヒュパティアを称えアレクサンドリア教会を蔑む (キュリロス批判は行わない).Toland のキュリロス批判の前触れは G. Arnolds の Kirchen und Ketzerhistorie (1699) に見られる.Gibbon が敬意を払った古代史・教会史家 Le Nain de Tillemont もヒュパティアについて書いている.彼も後に Gibbon がしたようにスーダに誤って依拠しているが,データに疑義を呈してもいる.Johann Albert Fabricius も同様にスーダに依拠し,また異教の神の崇拝者という見解を普及させた.

ヒュパティアに関する最初の学問的論考は 1689 年に公刊され,その60年後に J. C. Wernsdorff の論文が出た.批判的方法を適用したより重要な著作が出るのは19世紀半ばのことである.R. Hoche (1860) "Hypatia, die Tochter Theons" は全ての一次資料を集め,Stephan Wolf (1879), Hermann Ligier (1879), Wolfgang A. Meyer (1886) という三つのモノグラフがこれに続いた.ただしこれらもロマン主義・ネオヘレニズムの影響下でヒュパティアを無批判に賛美している.ヒュパティアの知性の賛美は今日も種々の辞書・百科事典に見られる.今日ヒュパティアの故事はまた,アフリカの政治・社会・文化史にも結び付けられる.