トランスジェンダーとフェミニズム Bettcher (2014) "Feminist Perspectives on Trans Issues" #2
- Talia Bettcher (2014) "Feminist Perspectives on Trans Issues" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), 22-47.
前回 (§1-4) の続き.バトラーの出てくる5節が異様に難解.批評が取り上げられている Paris is Burning(邦題:『パリ、夜は眠らない。』)はどこかで見ておきたい.
5. (トランス) ジェンダー・トラブル
バトラーの『ジェンダー・トラブル: フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(1990) の影響は即効的かつ甚大だった.この著作はトランス (研究) と対立的ではなく,ずっと複雑な関係にある.
5.1 ジェンダー・トラブル
バトラーが応答を試みるのは,「ジェンダーのクィアな実演1 (queer enactments of gender) は,伝統的な父権制的規範を複製しているにすぎない」という批判である.バトラーによれば,クィアな下位文化における個々のジェンダー的実践は,主流文化におけるそれと必ずしも同じ意味を持たない.前者を後者の単なる反復・模倣と捉えると,かえって,あらゆるジェンダー的実践に主流の異性愛的な意味づけをなしてしまうことになる.
クィアなジェンダー実践は,むしろ,父権制的規範の非自然的・模倣的・偶然的性格を暴露し,この規範を攪乱しうる.「全てのジェンダー化された行動は内在的に性差別的だ」という (レイモンドらの) 主張こそ,異性愛的なジェンダー的実践に優位を置く異性愛的傾向に他ならないのだ.
バトラーは「ジェンダー的役割の制定に先立つ集団 (e.g. 女性) がある」ということ自体に疑義を唱える.バトラーによれば,生物学的性は文化的に制定された (culturally instituted) ものであり,その意味で「つねにジェンダーである」.この見解は直感に反するが,以下のように動機付けうる.そもそも人間を男性と女性にすっきり区別することはできない.染色体的性,生殖腺的性,生殖器的性などの様々な特徴があり,容易に特定できる単一の特徴はない.それにも拘らず,特定の文化的イデオロギーがあらゆる社会的実践を形成し,半陰陽の幼児に特定の性を割り当てる医学的実践を基礎づけているとすれば,この限りで生物学的性も「文化的に制定されている」.バトラーによれば,我々は身体について論じるとき,つねにある特定の方式で身体を表象する.そして,身体をジェンダー的自己の自然な容器 (natural container) として表象することで,性は文化的に制定されているのだ.
バトラーによれば,行動によるジェンダーの表出 (manifestation) は,しばしば,「自然的に性別を持つ身体に内包される,先行的なジェンダー・アイデンティティ」の表現とみなされる.バトラーは反対に,行動による表出が先行すると論じる.性別を持つ身体,核となるジェンダー・アイデンティティ,性的指向といった幻想は,反復され様式化した身体的な行為遂行によって永続化される.こうしたフィクションを生み出すという意味で,こうした行為遂行2は「パフォーマティヴ」である.
冒頭の批判に対するバトラーの応答は,「全てのジェンダー的な振る舞いは模倣的であり,クィアな実践にはパロディを通じてその点を暴露する攪乱的なポテンシャルがある」というものである.
5.2 重要な諸身体
以上の議論は当初一種のジェンダー主意主義 (gender voluntarism) と受け取られたが,そうではない.彼女の見解は『問題=物質となる身体』(1993) でより洗練された形で提示される.自己はジェンダー的行為遂行の結果にすぎないが,しかし実在的 (real) である.虚構的とされるのはジェンダー的行動に先立つ単一の核だけである.
バトラーにとってジェンダー的行為遂行は引用的 (citational) である (暗黙のうちにジェンダー規範を引用し,それに依拠する).だが一方で,規範が権威を持つのはこの引用プロセスによってである.それどころか,行為者自身さえ,この引用プロセスによって生み出させる.
だが,行為者が行為の反復の結果でしかないのなら,行為それ自身はいかにして生み出されるのか,という懸念が生じる.この懸念は,バトラーが精神分析的伝統において問題とされてきた自我の形成自体に関心を寄せている点に留意すれば,多少和らぐかもしれない.バトラーはフロイトに倣って,自我を複雑な同一化のプロセスによって形成されるものと考える.同一化とは,喪失した愛の対象の性質を安定的な仕方で心的に「帯びる」(stable psychic "taking on") ことである.バトラーの考えでは,インセスト・タブーは先行する同性愛のタブーを前提しており,このタブーは愛する対象と同性愛的欲望それ自体をともに諦めることを要求する.このプロセスを通じて失われた対象は当の個人に内面化され,それによって異性愛的なジェンダー・アイデンティティが獲得される.このように,模倣はジェンダー・アイデンティティの形成そのものの根幹にあるのだ3.
バトラーは「心」という語によって,単なる意識された自己・自我だけでなく,精神分析で仮定される無意識の働きにも適用する.心はパフォーマティヴに構築された行為者を上回る.こうした「心的過剰」(psychic excess) は,パフォーマティヴな失敗や,ジェンダーの模倣的性格を暴露する振る舞いにおいて現れる.
この議論は,上述の,抵抗とアイデンティティに関する「二重意識」モデルからの顕著な離反を伴う.主体の立場を形成しているという競合的な文化的主張の同時混合ということをしるし付けるのではなく,「心的過剰」概念を用いて行為遂行の意義付け直しを指し示し,それによって安定した主体の立場というものを攪乱してしまう.とはいえ他方,「二重意識」概念もバトラーの理論も,ともにレイモンド的な自己観からは離れている.
バトラーはまた,引用性に訴えることで,行為遂行による攪乱可能性が制約されていることを示す: 行為遂行が攪乱的であるためにも,規範を規範として引用しなければならない.たとえばベル・フックスが描写中のジェンダー規範を批判する Paris is Burning (1991) に関して,バトラーは攪乱と攪乱の制約・抹消という両義性を,特にヴィーナス・エクストラヴァガンザの生と死に関する議論を通じて擁護する.未手術のラテン系トランス女性であるエクストラヴァガンザは郊外での幸福な異性愛的生活を望むが,娼婦として働き,最後は殺害される.バトラーはこの殺人を,一方では攪乱者を抹殺する支配的秩序の効果とみなすが,他方では非白人女性の扱われ方という点での「社会的権力地図の悲劇的誤読」によるものだとも述べている.
5.3 トランスによるバトラー批判
バトラーの議論は,「ジェンダー化された振る舞いは全て性差別的規範を複製するものであり,生物学的性は文化と独立である」というレイモンドの想定に応答する点で,トランスジェンダー理論・政治と相性が良い.だが一方で,トランスの研究者によっていくつかの点で異論も表明されている.
まず,バトラーの理論では,エクストラヴァガンザに関する説明が示唆するように,ジェンダー規範を複製しているという批判が,自分を「本当の」男・女だとみなしているトランスの人々に当てはまることになる.もちろんバトラーもジェンダー・アイデンティティとジェンダーの「本当さ」(realness) の重要性を説明できるので4,明白な緊張関係があるとは言えないにしても,バトラーのヴィジョンは政治的に有用ではない.この緊張関係は,部分的には,バトラーがクィアな振る舞いを異性愛的振る舞いとの対立において擁護しているという事実に由来する.
より問題なのは,バトラーによるエクストラヴァガンザの死の描写が,(たんなる非白人女性ではなく) 他ならぬトランス女性への暴力である点を省いてしまっている点だ.またバトラーは性転換をエクストラヴァガンザの経済的・人種的状況を超越する手段だと想像されていたと論じる点で,トランスセクシュアルなアイデンティティを十分真剣に捉えられていない.それどころかバトラーはエクストラヴァガンザの生と死を寓意化してしまっている (プロッサー,ナマステ).
プロッサーはアイデンティティと身体という理論的水準でバトラーを批判する (Prosser (1998)).バトラーによれば,ジェンダー・アイデンティティの獲得は諸々の身体的快楽を受容可能/不可能なものとして選択することを伴い,その際に特定の身体部位の位置から快楽が文字通り由来するわけではない.快楽はむしろその身体部位の性愛化に由来する.異性愛的「体内化」(incorporation) においては,当の身体部位が性的快楽の「容れ物」「源泉」と解されることで,この性愛化が誤って逐語化されるのである.
だがプロッサーによれば,これはフロイトの誤読である; フロイトによれば身体的自我は本当に身体から生じる.プロッサーはディディエ・アンジューの「皮膚自我」(skin ego) 概念に訴えて,トランスセクシュアルが「間違った身体」という概念に訴えるのは,ただ実際にそう感じられるからなのだと論じる.彼はバトラーから離反して身体感覚と固有受容的気づきを強調し,身体失認や幻肢といった概念を用いてトランスセクシュアルの身体イメージを説明する.以上のプロッサーの議論は,身体的自我に関するより尤もらしい説明を与えてはいるが,身体の社会的な捉え方が自我に及ぼす影響に十分注意を払っていないという欠点もある.
ナマステはクィア・ドラァグを攪乱的とするバトラーの説明に焦点を合わせる (Namaste (2000)).いわく,ゲイ男性のドラァグ・パフォーマンスはステージ上に制限され「単なるパフォーマンス」と見なされるが,ゲイ男性の性的アイデンティティはそうではない.ここからナマステは,より深い社会分析のうちにそうした現象を位置づけるポスト構造主義的枠組みからバトラーが離反していると批判する.ナマステによれば,バトラーはドラァグを全てのジェンダー関係の代表とすることで,ジェンダーが統制される具体的諸方式の検討に失敗している.この批判はたしかに,ジェンダーを模倣とみなす画一的理論を与えるというバトラーの試みに対する懸念を提起しうる.
5.4 ジェンダーを取り消す
バトラーのより最近の著作は上記の懸念の一定の緩和を試みている (Butler (2004)).バトラーは,彼女が「新ジェンダー政治」と呼ぶもの (インターセクシュアル,トランスジェンダー,トランスセクシュアルの人々が始めた政治行動) の影響下で,従来のジェンダーを「行う」(doing) ことから,「取り消し」(undoing) のほうに関心を移行させた: 親友を失う,フォビックな暴力を振るわれる,などの仕方で,ジェンダーによって「取り消される」(理解不可能なものとされる,ないしは人間未満のもの (less human) と見なされる) ことがありうる.
バトラーは,自律の要求 (彼女自身が与する民主的理念により要求される) と,私たちをして特定個人の人間としての地位を拒否せしめる特定のイデオロギーや制度に自律が根拠をもつこととのバランスを取ろうとする.そこで,周縁化された人々に生きがいのある生 (livable life) の可能性を開く規範と,それを閉ざす規範の区別が必要になる.クィア理論は,安定したアイデンティティの「幻想」を掘り崩す限りで,インターセックス・トランスセクシュアルの政治行動と衝突する.バトラーはここに至って,生きがいのある生のためにある程度の安定性が必要であると認める.
またドラァグの位置づけも再検討される.以前は規範の攪乱に焦点があったが,いまや様々な種類の規範が賭けられていること,および生きがいのある生の可能性に資するかどうか,が重要になる.
重要なのは,性同一性障害を病理化として批判する陣営と,医学技術へのアクセス確保のための重要性を強調する陣営の政治的緊張に関する考察を行っていることだ.バトラーはこの種の板挟み (自分自身をなす do oneself ために自分自身を取り消す undo oneself 必要があること) が,自律が文化的に拒絶されると同時に与えられるやり方の特徴をなすと考えている.
このようにして,バトラーのジェンダー理論とトランス政治の要求の緊張は,修正後の見解ではある程度緩和される.だが,彼女の理論は具体的な政治戦略をさほど提供するものではない.
6. テクノロジーとジェンダーの産出
バーニス・ハウスマン (Bernice Hausman) の Changing Sex: Transsexualism, Technology, and the Idea of Gender (1995) はフーコー的パラダイムのもとでトランスセクシュアリティのフェミニズム的分析を行う.ハウスマンとレイモンドは,トランスセクシュアリティに対する懸念,および医学的介入に対する根深い不信を共有している.
ハウスマンによれば,トランスセクシュアリティを特徴づけるのはもっぱら性転換手術の要求であり,性転換手術がトランスセクシュアルな主体をそれとして構成する.トランスセクシュアルと医者は相互依存的にトランスセクシュアリティの「標準的説明」を作り上げており,これが「隠れ蓑」(cover) として機能している.いわく,トランスセクシュアルの行為者性は医学的言説から読み取れる.
この見解の系として,ジェンダー概念自体が医学技術とトランスセクシュアリティの登場の帰結とされる.ハウスマンはマニーやストラーといった個人の著作 (cf. §2) における「ジェンダー」「ジェンダー・アイデンティティ」といった表現の発生を,知的発見ではなく,言説的発展の諸契機とみなす.ハウスマンによれば,これらは医学技術の展開の動機づけ・正当化の様式として生じたのである.ここからハウスマンは,性が「一から十までジェンダーだ (gender all along)」というバトラーの非歴史的用法を批判し,またジェンダーの量産を斥けて性の概念に立ち戻るよう主張する.
ハウスマンはストーンに反対して,医学モデルを離れたトランスセクシュアルな主観性はありえないと主張する.ハウスマンはまた,「二重意識」や,医学モデルに対するトランスの抵抗の,一切の可能性を斥けているように見える.ストーンの議論が示すように,これは経験的に偽である (§4).
ハウスマンはまた,トランスセクシュアルによる自伝も手術へのアクセスを正当化する機能を果たしており,それらのナラティヴは自己矛盾的だと述べる.プロッサーはこれに応答して,自伝的ナラティヴはトランスセクシュアルの主観性の理解に必須だと論じる (Prosser (1998)).
ハウスマンは,医学的規制とトランスジェンダー政治の対立可能性は認めるものの,ジェンダーの表出様式の様々な組み合わせはジェンダーの超越・攪乱とは無関係であると論じる.
ハウスマンの著作によって,非トランス・フェミニストのトランスフォビアに対するトランスジェンダー研究の脆弱さが広く認知されるところとなる.ジェイコブ・ヘイル (C. Jacob Hale) は "Suggested Rules for Non-Transsexuals Writing about Transsexuality, Transsexualism, or Trans" (1997) を起草した.
7. ブッチ/FTM 境界戦争と境界地帯の住人たち
(非トランス) フェミニストの議論の多くはトランス (就中トランスセクシュアル) の問題含みとされる地位をめぐるものだった.加えて MTF が過剰に強調されてきた.それゆえ,とりわけ出生時に女 (female) とされた人々の論争から出てきた (トランス) フェミニストの見解を見ておくべきだ.
FTM とブッチ・レズビアンのあいだで,男性性の重要性に関する政治的緊張をはらむ論争がなされた.レズビアンからすると,FTM は女性性を裏切りレズビアン共同体を放棄している.他方 FTM からすると,ブッチの男性性は,劣った・「人工的」な男性性である (「ブッチ/FTM境界戦争 Butch/FTM border wars」(Halberstam and Hale 1998)).こうした対立は,ブランドン (ティーナ) のジェンダー・アイデンティティおよび性的指向に関する論争に示される.学術文献においても,ジュディス・ハルバースタム (Judith Halberstam) の "F2M: The Making of Female Masculinity" (1994) が FTM コミュニティの攻撃の的となった.プロッサーの "No Place Like Home: The Transgendered Narrative of Leslie Feinberg's Stone Butch Blues" (1995) は,ハルバースタムへの学術的応答を試みている.
7.1 女の男性性
ハルバースタムの "F2M" は,FTM の移行がブッチのような他のジェンダー横断 (gender crossing) よりラディカルだという考えを批判する.ハルバースタムによれば,ストレート/レズビアン/トランスセクシュアルという標準的枠組みは,「ポストモダンなレズビアンのアイデンティティ」の多様で特定的な諸形態の説明に失敗している.彼女はカテゴリー間の「横断」という考えを批判する: むしろ,そうした多様なアイデンティティは,それらを「交差点」(crossings) として位置づける支配的カテゴリー自体に異議を唱えるものである.
ハルバースタムによれば,手術的介入はジェンダーの「フィクション化」(つまり人工的なものだと見なし,暴露すること) に役立つ.そしてこの点は衣装やファンタジーにおけるオルタナティヴなジェンダー実演 (gender presentation) も同様であり,FTM 特有ではない.この文脈でハルバースタムは「私たちはみなトランスセクシュアルだ.トランスセクシュアルなるものは存在しない」(1994, 212) という悪名高い主張を行う.こうした FTM の特殊性を弱める試みは FTM コミュニティから批判され,彼女は後に主張を和らげた.もっとも彼女の論点は,ブッチの男性性が FTM の男性性の域に達していないという考えに反対して,「トランスジェンダー・ブッチ」という観念の領域を画定することだった.
7.2 わが家が一番
ハルバースタムに応答して,プロッサーはクィアとトランスの立場を対照的なものとして捉える.彼は,クィア理論に見られるジェンダー/セックスを実演・フィクションとする傾向に異議を唱える (先述の通り,そうした傾向はトランスの人々が「本当の男性・女性」ではないとして「取り消す」ことにつながる).他方プロッサーは,ブッチ・レズビアンの実演を単に人工的とみなす罠にはまっている.つまり,「クィア」と呼ばれうる現実の生活と,「全てのジェンダーは実演である」という見解を伴うだろうクィア・ポストモダン理論の出発点とを区別できていない.人工的ブッチとトランスセクシュアルを区別すると,多くのブッチがもつジェンダーやアイデンティティとの関係を認めないことになってしまう.
プロッサーは,(クィア理論における) 実演の中心性と (トランスセクシュアルの人々にとっての) 語り (narrative) の中心性を対照する.彼が的確に指摘するように,クィア理論は,語りが虚偽の統一性を生み出し,排除的な政治を伴いうるという点を懸念してきた.だが語りはトランスセクシュアルにとっては中心的であり,わが家と帰属の観念 (the notion of home and belonging) を伴う5.整合的な語りは,究極的にはフィクションだとしても,トランスセクシュアルの生活を理解可能にするために重要な役割を果たす.
プロッサーによれば,トランスセクシュアルの語りは,自分の身体がわが家のように調和しない (not at home) 感覚によって動いており,手術を通じて自分自身のもとに帰郷する (coming home) ところでクライマックスに達する.このようにして,身体と身体違和が,クィア理論と対立するような「深み」「現実性」をなす.
プロッサーは,ファインバーグの Stone Butch Blues に依拠しつつ,(伝統的トランスセクシュアルのもとを離れた) トランスジェンダーも,同様の語りの構造をもつと論じる.ただしこの場合「わが家」は男性と女性の中間領域になる (1995, 500).この場合も語りの中心性と身体違和の存在において一般的なクィアの理解とは区別される.
語りの重要性を強調する点でプロッサーは正しい.だが,トランスセクシュアル・トランスジェンダー・クィアの間にそれほど明確な境界線を引けるかはあやしい.クィアのアイデンティティをもつ人々を含め,語りの構造は多くの人にとって重要である.また身体的に帰属していない感覚が非トランスに生じない理由も定かでない.また帰れる (と想像できる)「わが家」が誰にとってもあるという想定も疑わしい .例えば経済状況の厳しさや,トランスの経験を説明する言語的資源の乏しさが,それを許さないことがあるだろう.
7.3 境界地帯で声を探し求める
ジェイコブ・ヘイルの議論 (1996) は,トランス問題に関する分析系の最初期の理論であるとともに,トランス,クィア,フェミニストの感性をある程度和合させている.ヘイルは,「レズビアンは女性ではない」というモニック・ウィティッグ (Monique Wittig (1992)) の論争的主張を検討している.この主張の眼目は,男性との異性愛関係を要件とする女性という抑圧的カテゴリーからレズビアンを除外することで,レズビアンは女性のうちに入らないという異性愛主義的主張を混乱に陥れることにある.ヘイルは,「女性 (woman)」が家族的類似をもつ概念だという (今日多くのフェミニスト哲学者が受け入れる) 見解の,最初の擁護者である.ヘイルによれば,この概念は13の特徴をもつが,そのどれも必要でも十分でもない.ヘイルによれば,あるレズビアンは女性であり,あるレズビアンはそうでなく,ほかはどちらとも言いようがない.
ヘイルによれば,女性カテゴリーは内在的に規範的である: 個人は13の特徴にどの程度適合するかで評価されうる.カテゴリーにはポジティヴ/ネガティヴな典型例があり,ネガティヴな典型例はカテゴリーから脱落するぞと脅す役割を果たす.この脅しは行動の統制に必要だが,実際にカテゴリーから完全に脱落する個人は非常に少ない.
同様に,ブッチと ftm6 の個人を区別する単一の特徴は存在しない.男性としての自己同定,男性性のアイデンティティ,身体を変更する医学技術の利用,などで例外なく分類することはできない.「ペニスを望むこと」が境界をなすという考えも批判の対象となる.この考えは (male-to-female の場合 "the surgery" となる) 生殖器形成手術に焦点を合わせる点で,トランスの文脈における male-to-female の支配的立ち位置を補強してしまってもいる (ftm の場合乳房切除術や子宮摘出手術も重要になる).
ヘイルは,ブッチ・ftm の双方が家族的類似概念として分析されるべきだと提案する.両者ははっきりした境界線をもたず部分的に重なる.このモデルによってヘイルは,アンサルドゥーア的な「境界地帯の住人たち」について語ることができるようになる.資料に鑑みる限り,ブランドンもそうした住人だったように思われる. そうした地帯の死者 (や生者) を他の人々が自分たちのものだと主張すると,個人はなおそうした場所で生きづらくなる.境界地帯の住人たちは,うまく行かないカテゴリーへのアイデンティティ帰属を求められることがありうる.中心的なアイデンティティのカテゴリーがないことによるそうした従属的立ち位置は,そこから語り出すのが困難であるにしても,重要である.定義とカテゴリーの機能を問い直し,また既存の言葉づかいでうまく捉えられていない経験に創造的に声を与える必要がある.ヘイルは,ブッチ/ftm境界地帯は「非軍事化」される必要があると強く主張する.
ヘイルは境界地帯の住人という観念を拡張して,ftm フェミニストの声がいかなるものでありうるかを素描する (1998b).その際,彼はマリア・ルゴネス (María Lugones) の「世界旅行」概念に依拠する.ルゴネスによれば,周縁化された個人は,その中でその人が別々の人格として構築されるような異なる「諸世界」を占めている.ヘイルによれば,境界地帯の住人は (「男性」「ftm」「ブッチ」「ジェンダークィア」といった) 異なるカテゴリーに適合しうる.ただしそうした適合は限定的ではかない.
ヘイルによれば,ftm の人々は女性として生きてきた経験をもつとともに,男性的な実演の重要性にはっきり気づいている.そのため,ある種の男性性を避けるとともに,フェミニスト的諸価値に従う種類の男性性を抱くことになる.つまり,非トランス・フェミニスト女性とのつながりを維持しつつ,境界の住人を自認する.だが,トランスフォビアなどの抑圧を受けた経験のない非トランス・フェミニストの想定からすると,これは困難になる.
アイデンティティの持ち方についても注意が必要である.ヘイルによれば,あるカテゴリーのメンバーであるというアイデンティティをもつ (identification as) とは,当のグループのメンバーとしてのアイデンティティをもつこと (identification with) であるとともに,他のカテゴリーの非メンバーであるというアイデンティティをもつことである7.ftm のカテゴリーを取り込むことで,ブッチ・レズビアンとしてのアイデンティティを持たないよう圧力がかかることがありうる.だが,そうした圧力は避けるべきである.「として」アイデンティティをもつことは,「であるという」アイデンティティをもつことと独立に行われうる.そうしたアイデンティティをもつことは,道徳的・政治的行為者性の発揮に導かれるべきであり,この意味でジェンダーの自己アイデンティティは政治的・道徳的アイデンティティと比べて二次的であるべきであるとヘイルは論じる.