6月に読んだ本


子安宣邦『〈古事記〉講義』

古事記』上巻の記序から「須佐之男命の追放」までの注釈.読み下し文,語注,現代語訳,評釈からなる.著者は宣長・篤胤から現代に至る諸解釈をこと細かに検討しており,本書を「『古事記』解釈批評史」(p.1)の試みと呼びさえしている.こうした試みを行う背景にあるのは,『古事記』の原型が古代の誦習にあるという認識をもとに「〈古のまこと日本やまと〉を〈日本語やまとことば〉とともに読み出す」(p.196)宣長古事記伝』――これが昭和の「神国日本」の精神的前提となったと著者は指摘する――と,この点で宣長をなぞっていると著者が見る近年の三浦『口語訳『古事記』』に対する批判的関心である.これに対して著者はむしろ,神代史がはじめから政治的目的のもとに官府・宮廷で漢文で著されたものとして作為性を強調する津田左右吉の『古事記』理解に与している(ただし津田の読解さえこの点で不徹底だとする: p.35).三浦の口語訳を子供の頃に読んでいたので,こうした評価にはある程度実感が伴い,興味深かった.当然ながら本文の注解なので,同時に『古事記』テクストの読み方の具体的な手ほどきにもなっている.

古事記』の国生み・神生みの神話はそれぞれの神名をもった神々の誕生を語る形をとっている.したがって神名の理解と神名によって構成される物語の筋の理解とは相関的である.神名が理解されないと筋も理解されない.逆に物語の筋をとることで神名の意味が解されていくことにもなる.(p.81)

Jennifer Ratner-Rosenhagen, American Intellectual History

ヨーロッパ人の入植以前から現代に至るまでの通史的アメリカ思想史 (p.1: "a brief survey of some of the most compelling episodes and abiding preoccupations in American thought").著者は『アメリカのニーチェ』のジェニファー・ラトナー゠ローゼンハーゲン.叙述は複線的だが,テーマをざっくりと整理するなら:「文芸共和国」の啓蒙主義 (ch.2, 1741-1800),ロマン主義の受容と超絶主義 (3, 1800-1850),ダーウィン思想の受容と神学・社会思想へのインパクト (4, 1850-90),プラグマティズムの成立 (5, 1890-1920),「失われた世代」・ニューディール体制・亡命知識人の時代 (6, 1920-45),「中道」志向とスピリチュアリティ (7, 1945-1970),ポストモダニズムの勃興 (8, 1962-90s).それぞれの時代状況における女性や黒人の位置づけにも大きく紙幅が割かれている.

It is not wrong to read this [i.e., John Winthrop's "Modell of Christian Charity"] as a statement of the Puritans' sense of moral mission and exceptionalism ... It is, however, problematic to read it as a statement about America's moral mission and exceptionalism (which has become the conventional interpretation since Ronald Reagan popularized it with his exaltation of America as a "shining city on a hill" in the 1980's). Winthrop wrote this text not as an American, but as a Puritan. (p.19)

[Margaret Fuller について] By searching yonder, [Emerson] failed to notice that right there next to him in the Dial office, editing one of his essays or debating with him a finer point of his argument, was his Man Thinking, in the shape of a woman. (p.52)

鹿子生浩輝『征服と自由』

マキァヴェッリの『君主論』と『リウィウス論』の関係を中心に彼の政治思想の全体像を描く論考.主要テーゼは著者が後に新書の形でまとめている通りであり,本書ではいわば原寸大の論証が読める.(むしろ本書を読んで新書の概説にかなり著者自身の見解が盛り込まれていることがわかった.) 議論の成否は判定できないものの,同時代の政治状況(とりわけ想定読者 = 献呈先が必要とした意思決定)からマキァヴェッリの主張内容を明らかにする解釈指針は穏当であり,ごく堅実な議論に感じた.

Shon Faye (2021) The Transgender Issue

トランスの人々が実社会で直面している諸問題を提示し,相互に関連づけながら要因を探り,解決への道筋を提示する本.序論では英国におけるここ10年の反トランス言論が,タブロイド的個人攻撃から,新たな「イデオロギー」の担い手としてのマイノリティ集団全体の敵視へとトーンを変化させてきたことが指摘される."It turns out that when the media want to talk about trans issues, it means they want to talk about their issues with us, not the challenges facing us." (p.9) こうした議論のあり方自体が抑圧の方策となっていると著者は言う.これに対抗して具体的な困難を明るみに出すのが本書の主なねらいである.

最初の5章では,英国の事情を中心として,育児・家庭内暴力・介護 (ch.1),ホルモン投与や手術へのアクセス (ch.2),労働 (ch.3),セックスワーク (ch.4),国家権力との関係 (軍隊・警察・刑務所・移民) (ch.5) に関わる諸問題が論じられる.階級や職業,エスニシティ,障害,その他のジェンダーに基づく不利としばしば並行的でありまた重畳すること,それゆえ幅広い政治的連帯に立って解決すべきことを雄弁に論じる.(社会主義者を自認する著者はさらに進んで資本主義批判に向かうが―― "There can be no trans liberation under capitalism. This is a fact" (p.262) ――この主張は,著者自身認めるように (p.266),本書ではきちんと論証されていないし (ただし cf. pp.132ff.),そもそも内容が明確とは言えない.) 著者はまた,LGB や (ch.6) フェミニズム一般 (ch.7) との連帯の基盤を歴史的経緯と現在の社会的状況の両方に求め,これに関してはやはり説得力ある議論を組み立てている.英国の話が中心だが,議論は mutatis mutandis に日本にも当てはまるだろうし,むしろ本書が提示している論点を念頭に置きながら日本の事情を学ぶ必要があるだろう.

Readers acquainted with feminist theory may be surprised that, in this exploration of trans feminism, I have mostly cited the thoughts of second-wave feminists (some of whom are now controversial in younger feminist circles because of their focus on criminalizing pornography and sex work) instead of Judith Butler, Jack Halberstam and others whose later writing in feminism and queer theory might be a more obvious place to start in a defence of trans people's existence. However, I believe it is important to debunk the myth that transfeminism is a new departure from the feminist theory of the past. As we have seen, ambivalence about the categories of man and woman, challenging biological essentialism, and championing a multifaceted analysis of the harm that misogyny does to every human being (including men) have always been central to feminist thought. (p.257)

ヒューム (2020)『自然宗教をめぐる対話』

Dialogues concerning Natural Religion (1779). デメア (自然神学のア・プリオリな論証の支持者),クレアンテス (ア・ポステリオリな論証の支持者),フィロ (懐疑主義者) の三人が,神の本性に関する論証の成否を論じる.ア・プリオリな論証 (いわゆる宇宙論的証明) に関してはデメア対クレアンテス & フィロ,ア・ポステリオリな論証に関してはクレアンテス対デメア & フィロの構図になる.ア・ポステリオリな論証は世界の自然的性質に依拠するもの (ID論証,2-8章) と道徳的性質に依拠するもの (神義論的論点,10-11章) に分かれる.いずれの場合も対話は最終的に懐疑的結論が勝利を収めるが,12章でフィロがそれにも拘らず自然宗教を擁護していることでやや全体のねらいが見えにくくなっている (このあたりをどう読むべきなのかまだよく分かっていない).議論は明快であり,またとりわけデザイン論証に対する対抗仮説の提示にはほとんどプラトンのミュートスのような創意が感じられる.個人的に特に気に入っているのは,世界は機械よりむしろ動植物に似ており,それゆえ世界の原因は生殖・生長の原因と類比的であり,この太陽系はいわば彗星という種から芽生えた巨大植物である,というもの (第7章,p.110-111).