多文化主義,フェミニズム キムリッカ『現代政治理論』8-9章

  • W. キムリッカ (2005)『現代政治理論』千葉眞・岡崎晴輝ほか訳,日本経済評論社
    • 8-9章 (475-614頁).

第8章 多文化主義

  • 「権利としてのシティズンシップ」論の批判には二方向ある.(1) 市民的徳性と積極的政治参加の強調 (7章),(2) 文化的多元主義に基づく共通の権利の重視 (本章).
    • マーシャルのシティズンシップ・モデルが関心を寄せたのは,労働者階級の国民文化への統合であった.
    • だが,黒人,女性,民族的・宗教的少数派,性的マイノリティは,シティズンシップという共通の権利を有するにも拘らず,依然周辺に追いやられている.
      • そこで,集団ごとに異なるシティズンシップの要求が生まれた (ヤングの差異化されたシティズンシップ).
  • 差異に基づくシティズンシップの要求は,集団内のエリートの支配権の維持の正当化に用いられている面もありうる.
    • だが,それだけでは説明できない.非エリート構成員も同様の要求をしており,しかも経済的地位や教育の程度が高まるほど要求は強まる傾向にある.
  • こうした要求は,(マーシャルが注目した) 経済的ヒエラルキー以外に,地位的ヒエラルキーもあるということから説明される.
    • 前者は再分配の政治を生み出し,後者は承認の政治を生み出す (フレイザー).
    • 両者は現実には混合している.だが,一方を他方に還元することはできない (例: ゲイ,アラブ系・日系アメリカ人,ケベック人 / 労働者階級の男性).
  • 本章と次章では,集団の差異化された権利に賛成/反対する道徳的根拠を論じる.
    • 本章では民族文化的集団の要求に,次章では女性 (やゲイ,障害者) という集団の要求に,それぞれ焦点を合わせる.
  • 多文化主義の問題は 1980 年代半ばまでほぼ無視されてきた.今日これが浮上してきた要因には,共産主義の崩壊によるエスニック・ナショナリズムの波や,伝統的民主主義国家内でのエスニシティの噴出がある.
    • 以下では論争を三段階に区分する.

第1節 コミュニタリアニズムとしての多文化主義 (第一段階)

第2節 リベラルな枠組み内の多文化主義 (第二段階)

  • だが,その類比は次第に疑問視されはじめた.
    • 多くの民族的少数派は,むしろ自身のリベラルな民主主義社会を作ろうと欲しているからだ.
  • そこで問題は,「リベラルな理論の範囲内でどの程度多文化主義が可能であるか」に置き換わった.
    • ラズをはじめ,ミラー,タミール,スピナー,キムリッカは,リベラルな文化主義の (liberal culturalist) 立場を推進してきた: リベラルな原則と矛盾しない,少数派への特別な権利の付与を正当化する,文化やアイデンティティに関する切実な利益が存在する.
    • これに対する反論としては:
      • 文化 (集団) を明確に個別化することはできない.
      • 個人が文化の「構成員」であるという主張は意味をなさない.
      • 個人の福祉や自由が文化の繁栄と必然的に結びつくと想定すべき理由はない (贅沢な嗜好にすぎない).
    • 再反論: 言語や文化は多くの場合自主的選択の結果ではない.それどころか文化へのアクセスは選択能力の前提となりうる.
  • だが,非リベラル集団の権利要求をどう扱うかという問題がある: 個人の権利を補完する「良い」少数派の権利と,それを制約する「悪い」少数派の権利をどう区別するか.
    • キムリッカ案: 内的な異議申し立てからの集団の保護 (内的制約) と外的圧力の影響からの保護 (外的保護) を区別し,集団の平等な関係を促進する限りで後者を認める.
      • 例えば黒人や先住民の特別な集団代表権は外的保護に属する.
      • ナショナルな少数派の自治権はより微妙だが,中央政府と同じ憲法的制約を受ける限りで,外的保護に属すると考えられる.
  • この第二段階への発展は議論の前進である.

第3節 国民建設の応答としての多文化主義 (第三段階)

  • だが,第二段階は,リベラルな国家の性質と,その少数派への要求を誤解している.3
    • 論者は,リベラルな国家が「善意の無視」(benign) という原則を固守するものと想定している: 国家は,民族的文化的アイデンティティや,民族文化的集団の能力に関知しない.
      • これはリベラルな「中立性」(6.4) より強い: たとえ中立的理由があっても,特定の言語・文化・宗教を奨励する政策は避けられる.
        • 例: 合衆国は公用語憲法上承認していない (ウォルツァー).
    • この想定は誤りである.
      • 例えば実際にはアメリカの政策は英語の優位を保証し続けてきた.そうした政策は逸脱例ではなく,「社会構成文化」(societal culture) への統合を促進する諸政策の一部にすぎない.
      • 実際の自由民主主義諸国はすべて,ある時点で,単一の社会構成文化の普及を試みてきた.
  • 問題は,「善意の無視」からの逸脱の正当化ではなく,多数派による国民建設が少数派に不正をもたらすか,またもたらす場合少数派の権利はどう保護されるかである.

第4節 多文化主義の5つのモデル

  • 少数派が周辺化に対して取りうる選択肢は大きく4つ:
    1. 裕福で友好的な近隣国家に集団移住する (例: ドイツ系カザフスタン人,ロシアのユダヤ人).
    2. より公正な条件を求めて交渉しつつ多数派文化への統合を受け入れる.
    3. みずからの社会構成文化を維持するための自治の権利・権力を要求する.
    4. 永続的な周辺化を受け入れる (例: フッター派,アーミッシュ).
  • 以下では西洋民主主義諸国における民族文化的集団の5類型を検討する.
  • ナショナルな少数派
    • すなわち大きな国家に組み込まれる以前に完成された社会を形成していた集団.これは2カテゴリーに分かれる:
      • 下位国家ネイション (substate nation): みずからが多数派である国家を有していた,ないし追求していた集団.
        • 彼らは同様の経済的・社会的制度や繁栄した国民国家のような地位を求める.
      • 先住民: 侵略により異邦人の国家に組み込まれてきた人々.
        • 彼らは一般に伝統的な生活様式と信条の維持可能性を要求する.
    • 彼らは典型的にはより大きな自治権を求めることで多数派の国民建設に対応してきた.
    • 自由民主主義国家は19世紀まで少数派ナショナリズムを抑圧してきた.だが20世紀には,そうした抑圧がうまくいかないし正当化もできないと認められるようになった.
    • 少数派には多数派と同様の国民建設の道具を持つべきだが,同時にリベラルな制約に服する必要がある.
  • 民集団 (immigrant groups)
    • すなわち友人や肉親を残して母国を去り別の社会へと移住するという個人や家族の決定により形成された集団であり,かつ市民になる権利を有する人々.
    • 彼らは多数派の国民建設を受け入れた上で,統合の条件を再交渉する.すなわち,共通の制度に統合されつつも,自身の民族的遺産の維持・支持を求める.
      • やはり自由民主主義国家はこれらの要求を拒んできた.1960年代まで三大移民国 (合衆国・カナダ・オーストラリア) は同化アプローチを採用してきた.
      • だが,同化アプローチは必要でも正当でもないと近年では認められてきている.
    • 公正な統合には,(a) 統合が長期的過程であるという認識と,(b) 共通制度による移民のアイデンティティ・習慣の尊重が必要である.
  • 孤立主義的な民族宗教的集団
    • すなわち近代世界との接触を避ける集団.
    • 彼らは兵役・陪審の義務や義務教育などの免除を要求してきた.
    • そして要求は完全に受け入れられてきた.その理由として,北米では,当時の国が移民確保に必死だったという歴史的経緯がある.
      • この譲歩が適切かどうかは明らかではないが,国は集団がリベラルな制約に服する限りでこうした集団を容認しつづけている.
  • 外国人居住者 (metics)
    • すなわち市民になる機会を与えられない移住者,例えば不法移民(irregular migrants) や一時的移民 (temporary migrants).
    • 彼らは基本的に地位の合法化・市民権を要求する.
    • 伝統的な移民国はこれを受け入れることもあるが,非移民国は抵抗することがある.
      • 例: ドイツの「多文化主義」――トルコ系移民の排除の手段としてのトルコ語の教育.
        • だが,こうしたアプローチはうまくいかないし,道徳的にも問題だと認識されるようになってきた.
  • アフリカ系アメリカ人
    • 彼らは他の国に属さないにも拘らず国民性を否定されてきた.また自発的移民でもなく,多数派の文化で作られた制度への統合も阻まれてきた.
    • 1950-60s の公民権運動には,一方で反差別法のいっそう厳密な施行による移民統合を求める人々,他方で黒人を「ネイション」として再定義しブラック・ナショナリズムを促進しようとする人々がいた.
      • だが,奴隷制度と人種隔離の遺産は統合を阻み,黒人の各地への分散は分離主義を非現実的なものとした.
    • 複雑で矛盾した現実に鑑み,歴史的補償,積極的差別是正措置などの特別の援助,政治的代表権の保証,黒人の自治組織への支援などの多様なアプローチが必要である.
  • いずれの場合においても,少数派は多数派の国民建設プログラムが本質的に不正だとは主張していない.むしろそれが一定の制約に服することを求めている.自由民主主義における多数派の国家建設は,以下の三条件を満たす必要があるだろう:
    • ネイションの構成員から恒久的に排除される長期移住者集団が存在しないこと.
    • ネイションの構成員に要求される社会文化的統合が「薄い」ものであること (制度的・言語的統合に限られ,また個人的・集団的差異の表現に最大限の余地を残していること).
    • ナショナルな少数派が独自の国家建設に携わることが認められること.
  • 西洋諸国はほとんどこの三条件を満たしてこなかったが,しかしこれらの受け入れに向かう傾向がある.
  • 少数派の権利要求は,独立に取り出され,攻撃的な「特権」の要求のように見られがちである.実際には,国家の国民建設への応答として,それとともに理解されねばならない.
    • 少数派の権利の採用は,むしろ国民建設の正当化に役立ってきたと言うこともできる.

第5節 多文化主義闘争の新たな前線とは

  • 多文化主義の批判者たちは,正義が差異を意識しない (difference-blind) ものでなければならないという規定に依拠する.
  • 既に見てきた通り,これに対する反論の仕方は二通りありうる:
    1. 主流派の制度が中立的でないと示すこと,
    2. 承認,アイデンティティ,言語,文化的メンバーシップといった利益の重要性を強調すること.
  • 多文化主義の全面否定論は今では色あせてきている.
  • 代わりに登場したのは,多文化主義が長期的な政治的結束と社会的安定を侵してしまうという論点である: 多文化主義エスニシティの政治化を引き起こし,また再分配の政治を蝕む.
    • だが,これに関する証拠は少なく,さらなる経験的研究が必要である.ただ,むしろ移民国のカナダやオーストラリアはこの点で相対的にうまくいっている.ナショナルな少数派への自治権付与も,政治的安定を支持する証拠が存在する.

第6節 多文化主義の政治

  • 多文化主義にも進歩的な面と保守的な面がある: 国民文化の偏狭な画一的構想に反対するリベラルに援用される場合もあれば,少数派文化の偏狭な画一的構想を擁護する保守主義者に援用される場合もある.
    • したがって,リベラルな前提を受け入れるか否かに応じて,ナショナリズムと同様の政治的両義性を帯びる.

第9章 フェミニズム

  • ここではフェミニズム理論の諸潮流を論じるわけではなく,主流派の政治理論に対するフェミニストの3つの批判的論点を扱う:
    1. 性差別に関する「ジェンダー中立的」説明,
    2. 公私の区別,
    3. 正義の重視自体への批判 (ケアの重視).

第1節 性的平等と性差別

  • 自由民主主義諸国の反差別的法令は,性的平等をもたらしていない.
    • 女性の仕事の低賃金化,家事労働の不平等,DVや性的虐待の増加.
  • マッキノン: そうした事情は「差異アプローチ」(difference approach) の限界を示している.
    • 差異アプローチ = 利益や地位の供与においてジェンダーを恣意的・非合理的に用いることの禁止.
    • たしかに差異アプローチは,ジェンダー中立的な機会や競争を生み出すのに貢献してきた.
    • だが,社会的役割が最初から男性に適するように規定されている場合,単なるジェンダー中立性によっては平等は達成できない.
      • 例1: 消防士・警察官・軍人などで身長・体重が就労基準に組み込まれている場合.
      • 例2: 従業員が育児の責任を負わないという想定のもとで就労基準が設計されている場合.
        • 性別ではなく育児の責任を基準とすることは,性差別が撤廃されてきた証拠ではある.だが,育児の責任を仕事と関連付けること自体が,性的不平等の根源となっている.
    • 社会制度が初めから男性の利害を反映している場合,恣意的差別はかえって減少するだろう.
  • そこでマッキノンは,性的平等への「支配アプローチ」(dominance approach) を提唱する.
    • 男性支配のもとでは,ジェンダー間の差異が利益の分配と関連付けられてしまう.
    • したがって,いかなる性差も (たとえ現実に存在しようと) 不平等の源泉や正当化として用いられてはならない.
  • ほとんどの政治理論家は差異アプローチを受け入れてきた.支配アプローチを受け入れる場合,正義論にはどう影響するのか.
    • 「(規範や基準を所与とする) 平等ではなく,自律から正義を解釈する必要がある」とする論者もいる (グロス).
      • だが,女性の自律は,平等と競合するどころか,最も優れた平等だと言える.
    • 実際のところ,リベラリズムはむしろ (伝統的なジェンダー役割を容認する) 差異アプローチとこそ乖離しているとも考えられる.
    • だが,リベラリズムと支配アプローチの間にも対立関係はある.

第2節 公的なものと私的なもの

  • 古典的理論家 (ミル) も現代の理論家 (ロールズ) も,正義を「公的」領域に限定し,家族関係という「私的」領域における平等について,少なくとも沈黙している.
  • だが,そうしたアプローチは,家事労働の分担と評価における性差別を扱えない.
  • そこで,リベラリズムにおいて,性的平等と公私の区分が両立不可能ではないかという疑念も生じている.
  • だが,リベラリズムにとって家族が「私生活の中心」であるかどうかは自明ではない.公私の区分には二つの構想が存在し,いずれにおいても家族は完全に私的であるわけではない:
    1. 政治的なもの (the political) と社会的なもの (the social) の区分 (ロック由来).
    2. 社会的なものと個人的なもの (the personal) の区分 (ロマン主義由来).
  • 第一の区分は,市民社会と国家の区分である: 人々は自らの諸目的を市民社会で追求し,国家はそうした個人的自由の保護を主な機能とする.
    • 従来のリベラルは,社会的領域が,成人の (健常) 男性だけから構成されるように記述し,成員の養育と維持に必要な労働を無視してきた.
      • その背景には,家庭内の役割が生物学的に固定されているという,リベラリズム以前から存在する想定がある.
    • リベラリズム市民社会/国家の区分を,伝統的な家族/公の区分と区別するなら,前者をフェミニストは概ね受け入れるだろう.
      • ただしフェミニストは,リベラルと異なり,市民社会を安定した自己調整的なものだと必ずしも見なさないかもしれない.その場合,形式的保護だけでは充分ではないと考えるかもしれない (例: ポルノグラフィや性差別的広告,適応的選好).
  • 第二の区分は,個人的なもの・親密なものと,公的なものとの区分である.
    • この区分はリベラリズムによる社会の賛美に反対して,社会的期待の圧力の脅威から逃れる領域を重視するものである.
      • 現代のリベラリズムはこの見解を受け入れ,個々人がプライバシーを保持しうる領域を私的空間内部に生み出そうとしている.
    • だが司法の領域で,「プライバシーの権利」は,女性の利益を保護するための家庭生活の是正を免れさせる役割を果たしてきた.
      • そうしたプライバシー論が誤っているのは,個人のプライバシーを,家族の集合的プライバシーの観点から定義しているからだ.
        • そうした理論はむしろ,リベラリズム以前の保守的な「家族の自律性」の観念と連続的であり,融合している.
    • リベラルなプライバシーの概念は,家族/公の線引きを擁護しない.

第3節 ケアの倫理

  • 女性が家庭内に閉じ込められた結果,男性と女性は異なる思考・感情と結び付けられるようになった.
    • 現代のフェミニズムには,「男性的」道徳と「女性的」道徳の区別は文化的捏造にすぎないと論じるものもある.
    • だが,女性に特有な道徳が,公的領域に不可欠だと論じる潮流もある.
  • すなわち「正義の倫理」と異なる「ケアの倫理」(ギリガン).
    • ただし,ケアの倫理が実際にジェンダーと密接に相関しているかは議論がある.
  • 正義の倫理とケアの倫理の違いは三点から考察できる:
    1. 道徳的能力: 道徳的原理の学習 vs. 道徳的気質の発達,
    2. 道徳的推論: 普遍的原理の追求 vs. 特殊なケースにおける適切な応答の追求,
    3. 道徳的概念: 権利と公正への着目 vs. 責任と関係への着目.
  • 道徳的能力.ケアの倫理は道徳的気質の獲得に着目する.
    • たしかに正義論は情緒的能力の発達を無視してきた.
      • だが,正義の倫理も道徳的気質を必要とする.
    • 無視の理由は,家族における正義の問題と向かいあってこなかったことにある.
  • 道徳的推論.ケアの観点では,道徳は,個々の特殊な状況への応答という観点から解釈すべきであり,普遍的原理の適用は不要である.
    • だが,原理の主張は,状況の抽象化ではない.原理はむしろ,何を探究すべきかを示すことで,熟慮を促進する.
  • 道徳的観念.したがってむしろ,いかなる原理が必要かを問うべきである.
    1. 普遍性 対 関係の保持.ケアの目的は「既存の人間関係の網の目」の保持にあるとされる.
      • しかしこれが特定の他者との歴史に根ざした関係を指すなら,貧困層の排除などにつながりかねない.
      • 直接的な相互行為ではなく共有された人間性によって万人が結びついているのだ,と理解することもできる.その場合,普遍性へのコミットメントと対立しない.
    2. 人間性の尊重と個性の尊重.ケアを唱える理論家は,正義が共通の人間性にしか応答せず,個性に応答しないと批判する.
      • だが第一に,ケアの倫理も普遍化されれば共通の人間性にも訴えることになる.
      • また第二に,正義論も個別性に注意を払っている.
        • 例えば原初状態論は,自分の社会的地位・先天的才能・個人的選好を離れて推論することを求めるが,他者の地位・才能・選好を無視するわけではない.
    3. 責任の受容と権利の主張.ギリガンによれば,正義の推論は権利要求の尊重という観点から他者への配慮を捉えるが,そうした義務は相互不干渉に限定されてしまう.
      • だが,この主張は (他者の福祉に配慮するという積極的義務を承認しない) リバタリアンの権利論にしか当てはまらない.
      • とはいえ,ケアの倫理と正義の倫理が課す責任の種類には相違がある: 道徳的要求の根拠として,主観的苦痛を採るか,客観的不公正を採るか.
        • 本人の無思慮を原因とする主観的苦痛から本人を救い出すべきかどうかについて,両者は異なる判断をする.
      • 主観的苦痛が常に道徳的な要求をもたらすという見解は,(1) 不公正であり,(2) 抑圧を隠蔽する可能性があり,(3) また他者の福利への過剰な責任を課すという問題がある.
        • そこでギリガンは,「自己喪失的」(self-less) ケアの構想 (伝統的な女性倫理) と,自分自身のケアをも学習する「自己包摂的」(self-inclusive) ケアの構想を区別する.
      • ケアの理論家は,自律と他者への責任との対立は文脈に応じて決められるべきだとする.
        • だが,抽象的規則の採用によりあらかじめ道徳的責任を限定することは,計画の追求に不可欠である.
  • 規則と学習の適用が正義によって重視されるのは,公正と自律に必要だからだ.それゆえ,論点 a, b における相違は論点 c における相違に由来していると言える.
  • 正義の倫理とケアの倫理は,異なる事例を念頭に発展してきたのだと言える.
    • かりに健常な成人だけで世界が構成されているなら,正義のアプローチを支持するのは正当である.
    • 主観的苦痛が道徳的要求をもたらすという想定は,育児を含むケアの関係を一般化した場合にしか説得力がない.
  • だが,正義は自律した成人間の関係にだけ適用されるわけではない.
    • ケアの分配自体が正義の問題である (ある種のケアは女性のみならず男性にも課されるべき義務である).
    • また,性的不平等の関係を撤廃するためには,公と家族との関係を撤廃する必要もある.
      • ただしこのことは,正義の推論の前提を蝕みうる: 自律のイメージはケアの他者への委託を前提しているのかもしれない.
        • 正義論は,自律を可能にする責任や正義の概念を犠牲にせずに,他者に頼る必要のある人々への責任に答えられるかということを,きちんと考える必要がある.