知識という心的態度そのものに関する外在主義 Williamson (2000) KIL, Ch.2

  • Timothy Williamson (2000) Knowledge and its Limits Oxford University Press.
    • Chap.2. Broadness. 49-64.

1章では Williamson 自身の基本的な立場が粗描されたが,2章では内在主義的な議論への反論が詳細に行われる.


2.1 内在主義と外在主義

知識は心的状態であるという主張に対する挑戦は,内在主義という描像から生じる.

内在主義とは,次のような描像である.例えば,「君は紙を見ている」という言明が真なのは,君の眼前に (外部に) 紙があるときだけである; ある意味でこれは純粋に君についての言明ではない.(a) 理論的には,純粋に君についての言明と,純粋に君の外部にある環境についての言明を切り離したほうが,より明晰ではないか.また,(b) 因果はローカルなものだから,君の行為の因果的説明は,君にとってローカルなことと,環境の状況とを切り離すべきではないか.言明の必要十分条件を与えるにせよ〔考慮 (a) より〕,因果的説明を与えるにせよ〔考慮 (b) より〕,内的/外的要因は分離される.

以上は最も人気のある「心的状態は内的物理的状態によって規定される」式の内在主義である.ラディカルな二元論のヴァージョンは「物理的状態」を「現象的状態」に置き換えたものになる.置き換えても以降の論証にはほぼ影響しないので,後者は考慮しない.

「知っていること (knowing) は心的状態である」説については,内在主義はこれを拒否するより深い1動機づけを与える.知っていることは事実的 (factive) なので,p だと知っているかどうかは,命題 p が外的環境についてのものなら,その環境に構成的に依存するからだ.ゆえに,知ることは心的状態ではない,と結論される.Fodor は形式性条件 (formality condition) からこの結論を出す: 表象に関して定義される心的状態・プロセスが表象に当てはまるのは,表象の統語論による.知識は真理に携わり,真理は意味論的なので,知識の心理学はありえない.――一方で外在主義は,知識を心的状態として認める.

問題は分岐する.Burge (1979: 85) のような外在主義者ですら,事実的動詞は個別的主体と客観的な事柄の明確な区別を示唆する,と述べている (そう単純ではないと直後で留保するけれども).知識の外在主義的分析でさえ,信念は知識より何か基礎的だという内在主義的想定に譲歩している.だから,内在主義は,知識を信念・真理・その他の要素に分析する試みのより深い2動機付けを与えているのだ.そうした試みを知識の還元主義的プログラムと呼ぼう.

知識を複雑なものとみなす内在主義者は,必ずしもそれによって「知識」概念が複雑だとするわけではない; 単純な概念が複雑な実例の直示によって定義されることはありうる.だから,内在主義によるプログラムの動機づけは,概念的水準よりは形而上学的水準でなされる.

そうした還元主義的プログラムの試みは全て失敗してきた.だから,それを動機づける内在主義も誤解なのではないかと思われる.

2.2 では外在主義擁護論の本性を叙述する.ねらいは,態度の内容についての外在/内在主義の対立と,態度自体についての外在/内在主義の対立を比較することだ.2.3, 2.4 では,前者の内在主義と後者の外在主義を組み合わせるのはうまくいかないと論じる.

2.2 広い/狭い諸条件

内的/外的の区別とは何か.境界は時空的である; 空間的境界は行為者の身体だが,ここでは脳に限定してもよい.さらに,行為の時間における身体だけが内的である (因果がローカルだという意味では,過去の身体に起きたことはローカルではないから).それ以外の環境は外的である.――この区別は両者がもれもダブリもないという穏健な物理主義的描像と整合的である.

術語を定義する.ある時点の行為者と外的環境のペアからなる系の,ある可能な全体的状態を事例 (case) と呼ぶ (Lewis (1979) の所謂 "centred world").法則的に (nomically) ありうることは何であれ「可能」とする.

条件 (condition) は,各事例で成り立ったり成り立たなかったりすることであり,that 節で指定される.代名詞 'one' と現在形が行為者と時点を指示する.

条件 C が 条件 D を含意する (entails) iff. 任意の事例 α について,C が α で成り立つならば,D が α で成り立つ.両側が iff. で結ばれるなら同一である.

α が β と内的に似ている (internally like) iff. α における内的物理的状態全体が β における内的物理的状態全体と同じである.条件 C が狭い iff. 任意の事例 α, β において,α が β と内的に似ているなら,C が α で成り立つ iff. C が β で成り立つ (言い換えれば,C が内的状態に付随する).C が広い iff. C が狭くない.状態 S が狭い iff. 人 が S だ (one is in S) という条件が狭いときである.内在主義とは,全ての純粋な心的状態が狭いという主張であり,外在主義はその否定である.

自然言語における命題的態度への内容の帰属の意味論は,広い条件の悪名高い源泉である.この考えは Putnam (1973) に遡る (Burge).例えば「トラがいると人が信じている」という文は広い条件を表している (トラとよく似ており動物学者しか弁別できないドラ (schmigers) という生き物がいる可能世界を考えよ).単称的な思考にも同様のことが言える (McDowell (1977), Evans (1982)).

内在主義者は,そうした自然言語の内容帰属は基底的事実の構造を反映しそこねているのだ,と主張する.そうだとすると,内容を持つ狭くて純粋に心的な態度の,単に神経生理学的ではないような記述水準を分離しなければならない.自然言語における内容帰属の広さが示すように,この水準は手元にあるわけではなく,構築を要する.ゆえに,この点,内在主義者には立証責任がある.

態度そのものに関する内在主義にも同様の考え方を当てはめることができる.「人が A と信じている」という文が広い条件を表していない場合でさえ,「人が A だと知っている・見ている・記憶している」が表す条件はほぼつねに広い.これが基底的事実の構造を反映しそこねていると主張する内在主義者には,同様に記述水準の分離が要求される.

2.3 知ることと信じることの心的相違

内在主義から知識の心的状態の地位の否定を出す議論はいまやより詳しく定式化できる.まず知識が心的状態だと想定する:

  • (1) 任意の命題 p について,ある心的状態 S が存在し,任意の事例 \alpha において,人が S にある iff. 人が p を知っている.

これは p を知っていることが心的状態に付随することを含意する:

  • (2) 任意の命題 p,事例 \alpha, \beta について,人が \alpha, \beta のどちらにおいても全く同一の心的状態にあるなら,\alpha で人が p を知っている iff. \beta で人が p を知っている.

\alpha, \beta のどちらにおいても全く同一の心的状態にある」を「任意の心的状態 S について,人が \alphaS にある iff. 人が \betaS にある」と定義すれば,(1) から (2) は直ちに出てくる.逆が成り立つかは心的状態に付随するものが心的状態かどうかに依存する.如上の分析なしに (2) を主張することもでき,その場合心的状態の存在論へのコミットメントは不要になる.

いずれにせよ,(2) は「ある人の心的状態はその人の物理的状態に付随する」(i.e. 狭い) という内在主義的前提と釣り合っている (commensurable):

  • (3) 任意の事例 \alpha, \beta について,\alpha\beta と内的に似ているなら,\alpha\beta で人は全く同一の心的状態にある.

(2) と (3) から,p を知ることは内的状態に付随するということが導ける:

  • (4) 任意の命題 p, 事例 \alpha, \beta について,\alpha\beta と内的に似ているとき,\alpha において人が p と知っている iff. \beta において人が p と知っている.

だが (4) は異論の余地なく偽である.内在主義者は (3) を受け入れているので,(2) を,したがって (1) を否定することになる.

知識が心的状態だと否定した結果,内在主義者は知識を心的要素と非心的要素に因数分解 (factorize) しようとする.信念は心的要素の明白な候補である.Stich/Kim:「知識が信念に付け加えるものは心理的には重要でない (irrelevant)」.そういうわけで,心的内容の外在主義を採る人でさえ,知識という態度については内在主義を取りがちである.目下の言葉づかいで言えば:

  • (5) 任意の命題 p,事例 \alpha について,人が \alpha において p を信じているなら,ある事例 \beta においてその人は \alpha におけるのと全く同じ心的状態にあり,その人は p と知っている.

(5) は知識が心的状態であることを否定する (より正確には,(2) と (5) から「p と信じているなら p と知っている」が出る).

だが,(5) は内在主義とは独立の理由で成り立たない.反例1: p を「誰かが警戒している (alert)」としよう.\alpha では人が「自分が警戒している」という偽なる一人称の現在時制の信念のみに基づいてそう信じているとする.このとき,β で α と同じ心的状態にあるとすれば,β でも知っていないことになる.反例2: 79+89=158 と誤って信じることはありうるが,そう知ることは不可能である.

そこで内在主義者は,次のように主張を改訂するかもしれない.

  • (6) 任意の命題 p, 事例 α について,α において人が p と真なる仕方で信じているなら,ある事例 β でその人は α におけるのと全く同一の心的状態にあり,p だと知っている.

しかし (6) にも外在主義と独立な反例がある.「ニンニクを食べるのは健康に良い」と真なる仕方で信じているが,それについての知識と両立し得ないほど混乱した非合理な理由からそう信じているとする.こうした事例を排除するには,正当化条件を正確に述べることの困難さに悩まされることになる (Shope 1983).また,仮に (6) が擁護可能だったとしても,その結果はもはや心的要素の分離という当初の問題に答えるものではなかっただろう.

そこで,知ることの心的要素は合理的に信じていることだという提案を検討しよう (Fricker 1999).

  • (7) 任意の命題 p, 事例 α について,α において人が p と合理的な仕方で信じているなら,ある事例 β でその人は α におけるのと全く同一の心的状態にあり,p だと知っている.

この主張は (5) の反例も避けることができる.一見して (7) は内容についての外在主義に適合するが態度についての外在主義には適合しないものに見えるかもしれない.だが,そうではない.私が吠える犬を見て・聞いているかのように私に思えたとしよう.私は,「あの犬 (that dog) は吠えている.したがって,ある犬 (a dog) が吠えている」という論証に基づいて,犬が吠えていると,誤って信じている.内容外在主義者によれば,私が直示詞によって指示しそこねており,したがって命題を表現できておらず,これに対応する単称的信念を持ちえていないのは,私の心的状態の特徴である.このとき (7) より,誰かが全く同じ心的状態にありながら「ある犬が吠えている」と知っていることがありうる.だがその人も,推論の前提となる単称信念を持っておらず,したがってある犬が吠えていると知ってはいないことになる.対偶を取って,(7) によれば,私はある犬が吠えていると合理的に信じてはいない (思考プロセスに内在的な誤りはないにも関わらず).したがって,このように信念内容が外的環境に依存するなら,任意の内容についての合理的信念という態度も外的環境に依存する.要するに,(7) + 内容外在主義より,合理的信念が外在主義的な心的態度となる.さて,合理的信念が心的状態に寄与しうるなら,知識も寄与しうるとしない理由はない.(7) + 内容外在主義は,知識が心的状態であることの否定の動機を掘り崩すのだ.

もし (7) が知識を心的/非心的状態のハイブリッドとみなすのに役立つべきだとすれば,知識概念の把握とは独立な,関連する合理性概念を把握しなければならないが,これは困難だ.例: 〔くじ番号 666 の購入者が3〕当選確率が非常に低いので当のくじは当たらないと信じている事例 α を考えよう.人がこれと同じ心的状態にある任意の事例 β において,その人は 666 が当選しないと知ってはいない (知っていたら買わなかっただろう).したがって,α の人は合理的に信じてはいない.だが知識に関する考慮と独立にこの信念は非合理だとは言えない (関連する諸々の理由に基づいている).問題は,そうした理由が知識を構成する種類のものではないということなのだ4.8章では,合理的信念についての考慮が知識についての考慮に依存すると論じる.

(5)-(7) が失敗したので,むしろ知らないことが信じていることに何も付け加えないのだ,と主張する人がいるかもしれない:

  • (8) 任意の命題 p, 事例 α について,α において人が p と信じているなら,ある事例 β においてひとは α におけるのと全く同じ心的状態にあり,かつ p を知らない.

これが成り立つなら,知識は心的状態ではない ((2) と (8) から「p と信じている → p と知らない」が出る).しかし (8) は尤もらしくない.例: p が心的状態や必然的真理に関わる場合.(8) に「合理的に」「真なる仕方で」を付け加えても意味がない.

知識そのものに達しない知識の心的要素というのは哲学理論の要請であり,我々の知識−信念関係の理解によって与えられるものではない.だから,そうした要請をなす理論を受け入れる理由はない.つまり内在主義者は,心的要素を切り分ける試みをなす際に,特に有利なスタートを切れるわけではない.しかし,そうした試みが成功しえないかどうかはまだ分からない.分かっているのは,それが成功すると考える,内在主義と独立な理由が存在しないということだ.

2.4 知識の因果的効力

内在主義の動機の一つは,「真正な状態は因果的効力を持つ & 心的状態が因果的効力を持つのは狭いときだけだ」という考えである: 因果は局所的であり,狭い心的状態しか伴わない; 知識は心的状態ではなく,心的状態 (信念) と外的諸要因の複合物である (Noonan 1993).

こうした考えについては色々検討の余地がある.因果的効力概念は明晰ではないし,基礎科学から導かれるかも,局所的なつながりにだけ適用されるかも明らかでない.だが,論じられている心的状態については,この主張は疑わしい.次のような外在主義的論点を挙げることができる: そうした心的状態の帰属は,広い仕方で特徴づけられる行為の説明に本質的な役割を果たしている.例: 誰かがトラを撃つ行為の説明項は「トラを撃てば有名になれると信じていた」といった広い記述を含む.この記述はドラを撃つドッペルゲンガーには当てはまらない.

事実的態度の場合も同様のことが言える:「彼が宝を掘り起こしたのは,それが木の下に埋まっていると知っており,かつ彼は金持ちになりたかったからだ」という説明において,被説明項 (「彼が宝を掘り起こした」) は環境に言及している.ここで「知って」を「信じて」に置き換えることはできない (説明項-被説明項のつながりが弱まってしまう).「真なる仕方で信じて」なら満足行くと思われるかもしれないが,場合によってはやはり説明上の損失を伴う: 強盗がダイアモンドを探して家中を漁っているとき,「そこにダイアモンドがあると知っているから」という説明を「そこにダイアモンドがあると真なる仕方で信じているから」に置き換えると,説明は弱まってしまう (後者の場合,危険を犯して一晩中あさり続ける可能性は下がる).

知識への指示が因果的説明力に本質的であると証明するためには,無数の置き換え可能性を試さなければならないだろう.ここでは一般的な戦略を粗描するに留める:「知っている」のある代替案があり,それが知っていることと必要十分条件を異にするとしよう.その場合,必要性や十分性を欠くことが因果的な違いを生み出す可能な事例を構築し,因果的にも等価でないと示す.この問題を回避するには知ることの必要十分条件を与えるしかない.このようにして,因果的文脈における知識の代替案の模索は,知識分析の失敗の歴史をなぞることになる.(例:「偽なる補助的命題 (lemmas) に依拠せず真なる仕方で知ること」で置き換えても,説明上の損失が生じる: 強盗はミスリーディングな証拠によって探索を断念する可能性がある.といって,頑固さ (stubbornness) も知識とは別種の強固さ (robustness) である.また,確信している (feel certain) こともつねに知識と置き換えうるとは限らない,等々.)

次章では外在主義擁護論を深め,より広い文脈に位置づける.


  1. 何より深い (deeper) のかよく分からない.

  2. これも.

  3. 文脈から補った.

  4. これは合理性が知識概念の把握と独立だが relevant ではない例なので,8章の議論とは独立な話だと思われる.