Lee (2005) Epistemology after Protagoras, Ch.4 περιτροπή と Γ 巻のプロタゴラス批判

  • Mi-Kyoung Lee (2005) Epistemology after Protagoras: Responses to Relativism in Plato, Aristotle, and Democritus Oxford University Press.
    • Chap.4. Self-Refutation and Contradiction. 46-76.

4.1 序論

4.2 プラトンプロタゴラス批判

  • Tht. にはプロタゴラスを「彼自身の言葉で」論駁する意図でなされる一連の議論がある.Tht. の数ある反論のなかで,この議論は二つの理由で最重要である:
    1. それまでの議論は他の人の説明に依拠していた.ここの議論はプロタゴラス自身の主張に基づく.
    2. それまでの議論はプロタゴラス説のあやしさを例に依拠して論じていた.ここの議論はプロタゴラス自身の不整合性に着目している.
  • 議論は2つ.
    1. (論証A: 170a6-e6) すべての信念が真であるとする.だが,ある信念を人が偽だと信じているなら,ある信念は偽である.よって不条理.
    2. (論証B: ) プロタゴラスが「ある人が尺度説が偽だと信じている」と認めるなら,プロタゴラスは尺度説が偽だと認めることになる.そのとき尺度説はプロタゴラスにとっても偽となり,誰にとっても尺度説は偽である.ゆえに尺度説は偽である.
    3. これらは真理の相対主義には効かない.
  • 解釈の選択肢は3つ.
    1. プラトンの批判対象は真理の相対主義であり,相対化の修飾を落としているために議論は失敗している (Grote, Vlastos, Runciman, Sayre, Jordan, McDowell, Waterfield, Bostock, Chappell).
    2. それでもプロタゴラスの主張が魅力に欠けていることは分かる,という議論もある (Waterlow, McDowell, Chappell).
    3. プラトンの議論の妥当性を擁護しようとする道もある (McDowell, Burnyeat 1976b, Denyer 1991, Emilsson 1994).
    4. プラトンの批判対象は不可謬主義であり,論駁に成功しているという説もある (Cooper 1990, Waterlow 1977, Ketchum 1992, Bett 1989, Fine 1996a, 1996b).
  • プロタゴラスのテーゼはここで ἐκ τοῦ ἐκείνου λόγου に述べられる:
    • (P) τὸ δοκοῦν ἑκάστῳ τοῦτο καὶ εἶναί φησί που ᾧ δοκεῖ (170a3-4)
      • i.e., A に x が F だと思われるなら,A にとって x は F である.
  • 論証A:
    • テオドロスは q と信じている.
    • (P) より,q はテオドロスにとって真.
    • だが多くの人が q を偽だと信じている.
    • (P) より,q は多くの人々にとって偽.
    • ゆえに,q はテオドロスにとって真,多くの人々にとって偽.
  • ここで全ての信念が真であるという想定 (160d1, 167a8-9) が崩れる.また,二階の信念という問題が新たに導入され,相対化された事実を持ち出して不一致を解決することができなくなる.
    • 真理の相対主義者はさらに信念を相対化して対処するかもしれない.だが虚偽の不可能性を言い立てるプロタゴラスには問題になる.
  • 論証Bは尺度説自体に同じ論点を適用する.
    • [B1] 誰も尺度説を信じていないなら,誰にとっても真ではない.
    • [B2] 誰か (例: プロタゴラス) が信じているなら,
      • [B2a] 反対者が多数である分,無数の人々にとって偽である.
        • プロタゴラスは多数性によって決定するのは不可能だと論じていた (§2.1).だが普通の判断を真理の尺度とするつもりなら,(P) がおしなべて拒否されるという事態は問題となる.
      • [B2b] 「このうえなく精妙な」議論:
        • 「(P) が偽だと考える人にとって,(P) は偽である」とプロタゴラスは認めねばならない.
        • (P) が偽だと A が信じているなら,「全ての人にとって (P) は真だ」というプロタゴラスの信念は偽.
          • 尺度説は客観的に,人の信念いかんに拘らず,真だとされていたが,そうではないことが示された.
  • [B2b] の途中で相対化の修飾句が抜けているのがあやしい,という論点がある.
    • 本当は全てに修飾句をつけるべきという考えもある (Burnyeat 1976b: 184-5).
    • だが,批判者の信念の内容は「(P) は批判者にとって真」ではなく,「(P) は端的に真」.
  • 修飾句を付けようが付けまいが議論は成り立つ.議論の眼目は,プロタゴラスが「人が信じようと信じまいと尺度説は真だ」と言うとき,客観的真理という考えに依拠してしまっているということ.
    • 注意: これは (1) 主張という言語行為が客観的真理へのコミットメントと結びついているという主張ではない.また,(2) 相対主義者は修飾句なしに相対主義を提示しているという主張でもない.(どちらも論点先取.)
  • もちろんプロタゴラスにも様々な対抗策が可能ではある (cf. 現代の相対主義): (1) 尺度説の真理性を,尺度説を信じる人に相対化する,(2) 尺度説などを例外的な客観的真理とする,(3) 尺度説を尺度説のスコープに入らないメタ真理とする.
    • だが,プロタゴラス自身はなんら譲歩しないだろうと示唆されている (Tht. 171d1-3).
  • まとめ: 真理の相対主義と不可謬主義の違いは二階の信念について考えたときに生じる: 歴史的プロタゴラスは真理の相対主義を顧慮しなかったが〔ch.3〕,二階の信念を顧慮すると真理の相対性を言う必要が出てくる.
    • プラトンの議論に対処するためには,プロタゴラスは最終的に尺度説を相対化する必要が出てくる.これはもとの立場と整合しない.

4.3 プロタゴラスと矛盾についてのアリストテレスの立場

  • アリストテレスは一見,「プロタゴラスは PNC に違反している」と考えていた,と思われている.
    • 彼は「全ての現れが真である」と定式化し,プロタゴラスを矛盾に追いやっている.一見して不可謬主義的な定式化.
  • だが実際には,二階の信念の事例をもとに PNC 違反を批判している.したがって相対主義的な手筋は踏まえている.

4.4 無矛盾律

  • (前略: Γ3-4 の概観.)
  • プロタゴラスは二分法のなかで「説得を必要とする」人々の側にある.つまり ¬PNC を明示的に主張しているわけではなく,ただ誤った想定ゆえに ¬PNC へのコミットメントを行ってしまっている.
  • プロタゴラス説によれば,全てが (感覚に) 相対的 (Γ6, 1011a17-25).
    • これは Tht. の秘密の教説の形而上学的テーゼ.
    • アリストテレスによれば,プロタゴラスには (τοῖς τὴν βίαν ἐν τῷ λόγῳ ζητοῦσιν, ἅμα δὲ καὶ ὑπέχειν λόγον ἀξιοῦσιν (1011a21-2)),PNC に違反しないために,現れを修飾句で限定する必要がある (πρὸς τὰς λογικὰς δυσχερείας な対処).
      • "τὰς λογικὰς δυσχερείας" の例: Tht. 163a-165e で ἀντιλογικῶς (logic-chopping, controversialist) になされる議論.
        • ここで一見プロタゴラスは PNC を軽視しているように見える (Tht. 166b4-6).だが,むしろ適切な修飾句を加えないことで議論が失敗していると理解しているのだと見るべき.

4.5 プロタゴラスと無矛盾律

  • アリストテレスはおそらくプロタゴラスの「真理」を直接引用していない.尺度説の扱いはむしろ私たちが「デカルト懐疑主義」とか言うときのやり方に近い.(n34: cf. Mansfeld 1983a, 1986.)
  • プロタゴラスが PNC に違反するのは二階の信念の場合.
    • Γ5, 1009a6-15 は,Tht. 170a6-e6 の議論を,プロタゴラスが PNC に違反しているという議論として解釈する: A が B の信念 p を偽だと考えるとき,信念がつねに真なら,p は真かつ偽となる.
      • ただしアリストテレスは「全てが真かつ偽」という全称の結論を出しており,この議論はそのままだと妥当でない.二つの前提が必要.
        • 前提1: 任意の信念について,それに反対する者が存在する.
          • 実際はそんなことはない.
          • ただ,プロタゴラス自身が不一致の遍在へのコミットメントを行っているとアリストテレスは考えていたのかもしれない.
          • また,「問答法の文脈ではあらゆる命題に異論を挟みうる」という前提があるのかもしれない (Burnyeat 1976a).
        • 前提2: 信念の対象になっていない事実は存在しない.
          • そうした事実がある可能性を排除するためには,「全ての現れは真」は「F が事実 iff. F が事実だと誰かが考えている」と解釈される必要がある.
  • アリストテレスプラトンが議論を終えたところで議論を引き継いでいる.
    • 一つは Γ8, 1012b15-22: スコープの制限,あるいはスコープ内における例外の許容.「その場合でも無限背進が生じる」というのがアリストテレスの応答.
    • もう一つは真理の相対化.ただしこれは 'λόγου χάριν' である (Γ6, 1011b1-3).
      • なぜ λόγου χάριν かは明記されていない.おそらく 'is true for' は 'is true' 以上のことを意味していないと考えたのかもしれない.
      • むろん真理の相対化は属性の相対化とは異なる.だが,真理の相対化のほうが弱いわけではない: 特別な真理概念を使っていることについて説明が必要.
  • Burnyeat 1976b: 194-5 の想定反論と応答.
    • 相対主義者による反論: 真理は,絶対的用法の場合,「……は真である」と無限に続けられる.相対的用法でも同じだといえばよい:「風が私にとって冷たいということは,プロタゴラスにとって真である」.
    • 応答: プロタゴラスにとって a の信念と「a にとって真」は同値.この結びつきを保つには「a にとって……は真である」はどこかで止まる必要がある.
  • だが,止まったからといって絶対的真理へのコミットメントを行うわけではない,という再反論が可能.
    • 再応答 (Denyer 1991): Tht. の関係的感覚的属性は無際限には反復不可能 (cf. "* taller than F than G" とは言えない).
      • 再々反論: 「にとって真」はその種の属性ではない.
  • アリストテレス自身はこうしたことにはかかずらわない; 単に「全てが相対的」説の論駁を行う (1011b7-12).
    • x が相対的なとき,一つ,あるいは特定多数のものに相対的.
      • 「ものが有限個のものとしか関係しない」と理解すると,もっともらしくない.
      • むしろ「関係 R は有限個の関係項をもつ」という意味に理解すべき.
        • 例: 教師は潜在的に無際限な数の生徒の教師だが,〈生徒〉(など特定のもの) に対してしか〈教師〉とならない.
    • 相対主義への適用:
      • A は「B が C (例: 人間) である」と考えている.このとき B は属性 D:「C だと考えられている」をもつ.
      • このとき A にとって C と D は同じ.
      • C と D が A に相対的だとすると,A は無数の種類の関係項に相対的.
    • これがどれくらい上手くいくのかは不明 (相対主義者が関係に関する原理を受け入れるか否かに依存する).
      • ただの補足的な議論と見なすべき.ただ,アリストテレスが尺度説を正しく相対主義的に理解していたことの証拠にはなる.

4.6 οὐκ ἔστιν ἀντιλέγειν についての補遺

  • 古代の証言によれば,プロタゴラスは「反対のことを述べることはできない」(οὐκ ἔστιν ἀντιλέγειν) と述べたという.
    • これはアリストテレスの反論を予期したものとみなされることもある (Kerferd 1981, Barnes 1982).
    • だが,以下で論じるように,このスローガンをプロタゴラスに帰属できるかは疑わしい.多義的であるため結論は引き出せない.
  • このスローガンはアンティステネスには帰属できる (Δ29, Top. 104b19-21, DL IX 53, III 35).
  • 一方,プロタゴラスに帰属する根拠は Euthyd. 285e9-286c8. だが追随者に帰属されているだけであり,かつ尺度説との関連も示されていない.
  • 解釈の選択肢は以下の通り.
    1. 「矛盾がともに真であることはできない」.このことが虚偽の不可能性から示される.虚偽の不可能性は (a) プロタゴラス的論拠 (尺度説) か (b) パルメニデス的論拠から示される.
    2. 「同じ信念や言明が真かつ偽であることはできない」,つまり PNC (Schiappa 1991).
    3. 「否定することはできない」.この場合プロタゴラスの「テーゼとアンチテーゼの両方に議論を与えることができる」という主張と関連付けられる.尺度説とは無関係.