知識第一主義とその応用 Williamson (2000) KIL, Introduction #1

  • Timothy Williamson (2000) Knowledge and its Limits, Oxford University Press.
    • Introduction. 1-20. [here 1-11.]

1. 知ることと行うこと

知識と行為とは,心と世界のあいだの中心的な関係である.

  • 行為においては,世界が心に適合する.知識においては,心が世界に適合する.
  • 世界が心にうまく適合しない場合,欲求という残余が出てくる.心が世界にうまく適合しない場合,信念という残余が出てくる.
  • 欲求は行為を欲し,信念は知識を欲する (aspire to).
  • 欲求の眼目は行為であり,信念の眼目は知識である.

以上は異論の余地のないことがらではない.多くの哲学者はむしろ,欲求は充足のみを欲し,信念は真理のみを欲すると考えてきた.行為抜きに充足される欲求,知識抜きの真なる信念があり,それらだけで必要とされる心と世界の合致は構成される.

しかしだからといって,心というものを理解するときに,行為というカテゴリーを周縁化する理由はない.心的生活の秩序エコノミーにおける欲求の位置づけは,それと行為との潜在的なつながりに依存している.同様に,心というものを理解するときに,知識というカテゴリーを周縁化する理由はない.本書では,心的生活の秩序における欲求の位置づけが,知識とのとの潜在的なつながりに依存するような,ものの見方を展開する.

以下の諸章では,以上のあいまいな言葉づかいを,部分的により明確な言葉に置き換える.だが序論の目的は,あくまで大雑把な全体的描像を示すことである.以降の章も,描像が正しいことの証明 (proof) にはならない.認識論においてそうした証明は通常できない.本書はむしろ,単純だが多く見過ごされてきた着想をもとに,認知的現象を理解するやり方を示すものである.

2. 分析不可能な知識

心についての現代の理論は,知識というカテゴリーを周縁化しがちである.少なくとも行為ほど中心に置かない.そうした理論は,行為 (心→世界) の対応物として,知覚 (世界→心) を認める.知覚は知識より狭いカテゴリーであり,記憶や意識的推論の産物が除外される.なるほど環境との因果的相互作用という点では,知覚は行為の逆向きの対応者 (reverse counterpart) である.だが行為は,はるかに複雑で媒介された長期間の世界の心への適合を含む.その意味では,むしろ知識が逆向きの対応者だと言える.

心についての現代の理論は,心→世界という適合の方向を持つ状態の一般的カテゴリーとして,信念を設定する.違う世界で信念の真偽が変わっても,それは同一の心的状態だが,それでも心的生活の秩序における信念の位置づけは,真理との潜在的なつながりに存している.知識は真なる信念の特殊事例にすぎない.ゲティア以来の認識論者たちのプログラムは,知識を信念の観点から説明しようとするものだった.この主流派の主張によれば,信念は知識に概念的に先行する.

主流派の主張はしばしば所与とされており,論証を通じて支持されることは稀である.なぜ信念が概念的に先行するとみなすべきなのだろうか.論証の一つは,「知識は信念を含意するが逆は成り立たないので,この含意は知識を信念と別の何かとの連言として概念化している (conceptualize) という想定のもとで説明されねばならない」というものだ.その際,連言肢 (因子) は知識と独立に概念化できるということは,受け入れられている.だが上記の論証はそのことは示せていない; 必要だが十分でないからといって,循環のない必要十分条件の連言肢だとは限らない (cf. 方程式「赤い = 色がある + X」に循環のない解があるとは限らない).

だから,知識から信念への推論は,むしろ知識の観点からする信念の概念化に由来するのかもしれない.それどころか,知識と信念が概念的に順序立っている必要さえない (cf. 語「赤色」と「緋色」を独立に習得してから,赤色が緋色を含意すると気づくことは可能である).したがって,主流派の主張を擁護するには,より深い議論が必要である.

ある認識論者たちは,自分たちの好む知識の分析を引き合いに出して,信念の概念的先行性を擁護する.だが,そのあるものには反例があり,あるものは循環している.過去数十年に提出された様々な分析は,どれも適切なものとは言えない――これには異論はありうるものの,本書は (全ての箇所においてではないが) このことを前提する.したがって,信念の概念的先行性は1,特定の分析によって擁護されるべきではない.

もう少し注意深い擁護論としては,「現今の分析が全て循環しているか反例があるとしても,あるものは少なくとも十分に良い近似になっている」というものがある.だが,近似可能性は分析可能性の良い証拠ではない.例えば,「xy の親である iff. xy の祖先であり,y の祖先の祖先ではない」は,「父と母から娘が生まれ,その父とその娘から息子が生まれる」といった反例を除けば,親概念のかなり良い近似になっている.しかし,祖先概念だけから,この反例を解決することはできない; 父・母と娘・息子の関係は親関係に基づけば非対称だが,祖先関係に基づく限り対称である.さらに,こうした近似的定義は,私たちの「親」の理解に有意味な役割を果たさない.知識と信念についても同様のことが言える (cf. 1.3-1.5節).

本書のねらいは,知識を中心とし,信念に従属させない認識論の,厳密なやり方を発展させることである.そうすることで,知識を理解の道具とする新たな洞察も得られる (9章).

3. 叙実的心的状態

信念が知識に概念的に先行するという発想には,別の形而上学的根拠もある.それは,心と,心の外にある世界とを,二つの独立変数と捉える内在主義的な見方である: 信念は心の,真理は世界の関数であり,知識はそれら二変数の関数であって,どちらか一変数の関数ではない.それゆえ,内在主義によれば,知識は内在的諸要素と外在的諸要素に分析される必要があり,それぞれの最も顕著な要素が信念と知識である.

最近の心の哲学は,心的状態の文脈が環境に依存する仕方を示すことで,内在主義の形而上学に疑義を呈してきた (例: 私は「トラが吠えている」と信じているが,私の物理的レプリカは「トラモドキ (schmiger) が吠えている」と信じている).内在主義者のうちには,日常言語で帰属される信念さえ純粋な心の関数ではないとして,純粋な心的状態のコアを取り出そうとする人々もいる.しかしむしろ,心と外界を従属変数として捉え,信念を外界に構成的に依存する真正の心的状態とみなすこともできる.

心的状態の内容が外界に依存しうるとすれば,その内容に対する態度も外界に依存しうる.知識はそうした態度の一つである.つまり,雨が降っているという知識は天気に依存するが,そうした知識も,信念や欲求と同じく,真正の心的状態である――こうした外在主義的な見方を,1-2章では擁護する.特に 2.3 節では,知ることの要素として純粋な心的状態を取り出す内在主義の試みを論駁する.

懐疑論者は,信念の真理値が信念やその他の心的状態と独立であると想定してきた: 通常のシナリオと懐疑論的シナリオで心的状態は同一である.この想定のもとでは,知識が心的状態なら,通常のシナリオでも知識が成立していないことになる.したがって,反懐疑論者はこの想定を退ける必要がある.

さて,行為が知識の逆向きの対応物で,知識が心的状態なら,行為も心的状態なのだろうか.そうだとすると,私たちが外界について知っていることの懐疑論的否認を,私たちが外界で行為していることの否認に比することもできるかもしれない.だが,類比は完璧ではない.第一に,行為は状態ではない (動的なので).加えて,心的だと言えるような行為は,推論することなどの一部に限られる (「ドアを閉める」などは含まれない).同様の非対称性は行為と知覚のあいだにも見られる.入力と出力を私たちは異なる仕方で概念化しているのだ.その理由は,ものごとを起源によって個別化する傾向を私たちが持つことに求めうる.結果が原因に依存する仕方は,原因が結果に依存する仕方とは異なる.それゆえ,出力プロセスの全体が行為者に自然に帰属可能なのに対して,入力プロセスは後半の段階しか帰属可能でない.

知識と行為は別の仕方でも関係している.真正の心的状態は行為の因果的説明に重要な仕方で出現するはずである (でなければ,それらの存在は余分な仮定になる).多くの哲学者は,行為の因果的説明における知識帰属を,対応する信念帰属に置き換えても,説明上の損失が起こらないと想定している.2.4 節および 3 章はこの想定を批判する.典型的な行為は環境との複雑な相互作用を伴う (e.g., 本を書くことは読むことを伴う).知識帰属はしばしば,こうした相互作用を信念帰属よりうまく説明する.p の信念は,それが知識である場合には,単なる真なる信念である場合より証拠に対して頑強である (失いにくい).この点は,行為を基礎的行為の系列に分析することによって応えることはできない.基礎的行為においても時間的に隔たった心的状態が参照されることがあるからだ (e.g., 熟慮).こうした考え方は,知識のみならず,環境の参照を伴う心的内容の帰属全般へと一般化できる.そうした考え方を用いて,3 章では,外在主義的な心的状態は純粋に内在的な要素と純粋に外在的な要素に通常は分解できないと論じる.

4. 信念と主張を正当化するものとしての知識

信念が知識に概念的に先行するという発想からは,証拠や正当化の概念も知識に概念的に先行するという発想が簡単に出てくる.そこで,知識の概念は循環なしに正当化や証拠の解明に用いることができないと思われてきた.しかし,反対に知識が先行すると想定すれば,知識概念を用いる試みが可能になる.

9 章ではそうした試みを行う:

  • ひとの持つ証拠の全体とは,知識の全体にほかならない.
  • 仮説が証拠と不整合だとは,知られている真理と不整合だということである.
  • 証拠のよい説明だとは,知られている真理のよい説明だということだ.
  • 証拠が仮説への信念を正当化する iff. 知識がその信念を正当化する.

この説によれば,知識は正当化するものであり,正当化を受けるものではない.知識が知識ならぬ信念を正当化できるのは,正当化関係が演繹的でないからだ.

証拠と知識を同一視しても,証拠が特定の信念をどう正当化するかについての理論が出てくるわけではない.こうした同一視は,むしろ,絶対的正当化と相対的正当化を結びつける.信念が別の信念に相対的に正当化されるとは,そこから何らか適切な仕方で派生することである.だが,絶対的に正当化されるのは,それら別の信念が絶対的に正当化されているときだけである.後退はどこで終わるのか.証拠に至って終わるのだとすれば,絶対的に正当化されるとは,知識と相対的に正当化されることである.

この説明だと,「知識が絶対的に正当化される iff. 知識がそれ自身に相対的に正当化される」ということになり,不合理なまでに自明な仕方で知識が自己正当化することになる,と思われるかもしれない.だが,この説明によれば,そもそも正当化の眼目は,知識の条件たることではない.正当化とは,まずは知識が信念に対して,それ自身が知識にならない範囲で,与えうる地位のことである.知識自身が正当化されるのは限界事例としてにすぎない.

これに対しては,知識について (特にそれが理論に媒介されている場合に) 正当化と証拠が瑣末でない問題になる場合がある,という反論がありうる.だが,このアプローチでもこうした問題を扱うことはできる.つまり,たとえ p を知っていても,暫定的に知識に属さないかのように扱って,知識の残りの部分 (という独立の証拠) と相対的に評価できる.このとき,p を知っているのは,残りの知識が p を正当化するときだけである.――ただしこのテストはつねにうまくいくわけではない; あまりに多くの部分を同時に疑ってしまうと,残りの部分で正当化することができなくなる.懐疑論者の一部はこの点で誤っている.

「残りの証拠」について考えるやり方は,別の目的にも役立つ: 証拠全体に相対的な仮説の地位と,証拠全体から特定の証拠を取り去ったものに相対的な仮説の地位とを比べることで,当の証拠が正当化に果たす寄与を分離できる.この論点はいわゆる「古い証拠」(old evidence) 問題の一種と関わる.

10 章ではこの発想をテクニカルに推し進め,修正した客観的ベイズ主義の枠組みにおける,証拠に基づく確率の理論と組み合わせる.ある人にとっての仮説の証拠に基づく確率とは,その人の持つ証拠全体を条件とする確率のことである.したがって知識は自動的に確率 1 となる.それでも,知識は破棄不可能な証拠とはみなされない (得たり失ったりできるから).それゆえ,将来の証拠に基づく確率は 1 未満でありうる.9-10 章は全体として,知識を起点とする認識論のやり方を例証するものである.

11 章はこのアプローチを言語哲学に拡張して主張 (assertion) という言語行為を説明する.自然に見れば,主張は判断の言語的な対応物であり,判断は信念の生起的 (occurent) 形式である.信念が知識に概念的に先行すると考えるなら,主張の説明に知識概念を用いようとは思わないだろう.しかし,知識が先行するなら,知識は主張の説明に重要な役割を果たすはずである.11 章では,「p と主張すべきなのは,p を知っているときだけである」という規則を,主張の根本的規則として提案する.この知識規則は「p と主張すべきなのは,p が真のときだけである」という真理規則から導出できそうに見えるかもしれない.だが,ひとは知識規則に従わない限り,真理規則に従っていることを知ることができない.したがってこうした導出は,幾つかの例において,誤った認識論を予言してしまう.

9 章と 11 章の結論から,ある人が無条件に主張してよい命題とは,その人の持つ証拠をなす命題に他ならなないと言える.より思弁的に,主張のこうした説明を,その心的対応物である判断の説明に投影してもよい: p だと判断すべきなのは,p を知っている場合だけである.


  1. 原文 (p.4) は “the supposed conceptual priority of knowledge over belief” とあるが,誤記だと思われる.