アリストテレスの二つの (両立する) 関係性理解 Duncombe (2020) Ancient Relativity, Ch.6

  • Matthew Duncombe (2020) Ancient Relativity, Oxford University Press.
    • Ch.6. Aristotle on the distinction between substances and relatives. 118-139.

Duncombe (2015) Phronesis 60(4) に基づく.

序論

先述の関係性1 (6a36-7) とは別の説明として関係性2 (8a31-2) が存在する.近年の研究者の解釈では,前者から実体と被るあやしいものを取り除いたのが後者である (Ackrill, Mignucci, Morales, Bodéüs, Sedley, Hood, Rini, Harari).だがこの解釈は困難である.私の解釈では,むしろ個々の関係項を理解する二方式である: 関係性1は図式的に (in schematic terms) 表現された関係項を支配し,関係性2は特定的に (in specific terms) 表現された関係項を支配する.

6.1 図式的関係項と特定的関係項

「人間」(a human) は特定の人間を指すことも類的人間を指すこともできる.アリストテレスは個体と一般的対象を区別しており,これに応じて私は「人間」などの語の特定的使用と図式的使用を区別する.そしてアリストテレスは非実体についても個体と一般的対象を区別している (Ackrill, Owen, Frede, contra Anscombe).

関係性1が図式的関係項を支配し関係性2が特定的関係項を支配すると考える理由は三つある:

  • 関係性1が図式的だとすれば,相互性を説明できる.
  • 関係性2の方だけが認知的対称性の原理に従う (8b3-19).
  • 図式的/特定的関係項を区別することで外延的適切性に関する懸念を解消できる.

6.2 外延的不適切性

  • (関係性1) x が関係項である := x は y との関係でそれであるものとして語られ,かつ x は y とは異なる.

しかし右辺を十分条件とすると関係項の過剰産出の懸念がある (8a13-28): この定義だと手は関係項になるが,およそ第二実体の部分が実体であるとすると,手は第二実体でもある.そしてアリストテレスによれば,関係項は実体ではない.

なぜアリストテレスはものが関係項かつ実体である可能性を斥けるのか.私の考えでは,Cat. では実体が述定の最終的基体である一方,関係項にとっては特定の述語をもつことが構成的であるため,関係項は当の述語より基礎的ではありえないからだ.より一般に,実体は独立的だが,構成的解釈によれば関係項は独立的でない (Met. 的な考慮).

そこで関係性2 への置き換えが生じた,と多くの解釈者は考える:

... ἔστι τὰ πρός τι οἷς τὸ εἶναι ταὐτόν ἐστι τῷ πρός τί πως ἔχειν ... (8a31-2)

  • (関係性2) x が関係項である := x であるとは,ある y の関係項であることと同一である.

多くの解釈者によれば,これは定義であり,手などの事例を排除している.一説では「ある」に言及することで意味論的に下降している (Ammonius, In Cat. 77.27-78.17; Morales).しかし言語的/非言語的主語・述語・述定をアリストテレスが (Cat. で) 区別しているとは言えない (cf. Frede; Malcolm; Sedley; Barnes).

これとは別に関係性2でスコープが狭まっているとする諸解釈がある.だが問題は,アリストテレス自身が著作集において関係性2固執しておらず,関係性1と行ったり来たりしていることである (EN 1.2; Phys. 7.3; Top. 6.4, 6.8; Met. 5.5).またここでスコープを狭めているなら,「知識は関係項だがその諸種は関係項ではない」という Cat. 8, 11a20ff. の議論も不要になる.知識は認知的対称性のテストを通らないからだ (後述).Top. 6.8 でも関係性1の関係項と関係性2の関係項は同一視されている.

実際のところアリストテレスは,二つの定義があるとも,前の定義のほうが外延が広いとも明言していない.彼の言葉では:

εἰ δὲ μὴ ἱκανῶς, ἀλλ’ ἔστι τὰ πρός τι οἷς τὸ εἶναι ταὐτόν ἐστι τῷ πρός τί πως ἔχειν, ἴσως ἂν ῥηθείη τι πρὸς αὐτά. ὁ δὲ πρότερος ὁρισμὸς παρακολουθεῖ μὲν πᾶσι τοῖς πρός τι, οὐ μὴν τοῦτό γέ ἐστι τὸ πρός τι αὐτοῖς εἶναι τὸ αὐτὰ ἅπερ ἐστὶν ἑτέρων λέγεσθαι.

この一節はほとんどつねに二つの定義を述べているものと読まれているが,共外延性を排除していない.

6.3 関係項の語の図式的読みと特定的読み

  • (F) 父は何かの父である.

(F) は関係性1に適合する.したがって父は関係項である.一方で,

  • (Fs) 父は息子の父である.

これは特定的に読めば真でも偽でもありうるが,図式的に読めば偽である.この区別はスコープや量化子の区別とは異なる.類例として Phys. 2.3, 195a33-b6 (原因の特定); Cat. 7a31-b9 (関係項の特定).

6.4 関係性1は図式的関係項を,関係性2は特定的関係項を与える

関係性1の関係項が図式的関係項だと考えると,相互性に関する議論が理解できる.アリストテレスは相互性を排他性でさらに制約するが,排他性は図式的関係項のみが従う.したがって相互性も図式的関係項のみが従う.また 6b36-7a5 では相関項が適切でないために相互的にならないように見える例 (鳥―羽) が挙げられる.この議論も図式的に理解しなければ妥当にならない.

他方で,関係性2の関係項が特定的関係項だと考えると,第一に,認知的対称性テストの議論が理解できる:

ἐκ δὲ τούτων δῆλόν ἐστιν ὅτι ἐάν τις εἰδῇ τι ὡρισμένως τῶν πρός τι, κἀκεῖνο πρὸς ὃ λέγεται ὡρισμένως εἴσεται. (8a35)

(認知的対称性 cognitive symmetry) 全ての x について,x がある y に関係的なら,(a が確定的に x を知っているとき,a は確定的に y を知っている).

「確定的に知っている」に関するアリストテレスの例示 (8b3-15): 何かがより美しいと確定的に知っているのは,何より美しいかを確定的に知っているときである.――まさしくここに「より美しい」の図式的読みと特定的読みの違いがある.図式的に読むとき,〈より美しい〉という関係項自体を確定的に知ることはできるかもしれないが,アフロディテがより美しいということを確定的に知ることはできない.

関係性2が認知的対称性テストを通る理由は以下のように説明される.

εἰ γὰρ οἶδέ τις τόδε τι ὅτι τῶν πρός τί ἐστιν, ἔστι δὲ τὸ εἶναι τοῖς πρός τι ταὐτὸ τῷ πρός τί πως ἔχειν, κἀκεῖνο οἶδε πρὸς ὃ τοῦτό πως ἔχει· εἰ γὰρ οὐκ οἶδεν ὅλως πρὸς ὃ τοῦτό πως ἔχει, οὐδ’ εἰ πρός τί πως ἔχει εἴσεται. καὶ ἐπὶ τῶν καθ’ ἕκαστα δὲ δῆλον τὸ τοιοῦτον· (8a38-b31)

つまり (i) 〈二倍〉が関係性2であり,(ii) ある〈二倍〉(例: 4) が二倍であることを確定的に知っているなら,以下が帰結する: (iii) 4 が何の二倍かを私は確定的に知っている.したがって,関係性2は認知的対称性テストを通る.

(ii) から (iii) への移行が意味をなすのは,関係性2を特定的に読むときである.ある大きな偶数 (例: 36096) について,私はそれがある半分の二倍であることを知っているが,そう言えるのは「半分」を図式的に取るときだけであり,私は相関項を確定的に知っているわけではない.

関係性2の関係項が特定的関係項だと考える第二の理由は,手が認知的対称性テストを通らないという難解な (難しすぎてテクストの破損が疑われてきた) 議論が理解できる点にある:

(i) τὴν δέ γε κεφαλὴν καὶ τὴν χεῖρα καὶ ἕκαστον τῶν τοιούτων αἵ εἰσιν οὐσίαι αὐτὸ μὲν ὅπερ ἐστὶν ὡρισμένως ἔστιν εἰδέναι, (ii) πρὸς ὃ δὲ λέγεται οὐκ ἀναγκαῖον· (iii) τίνος γὰρ αὕτη ἡ κεφαλὴ ἢ τίνος ἡ χεὶρ οὐκ ἔστιν εἰδέναι ὡρισμένως· (iv) ὥστε οὐκ ἂν εἴη ταῦτα τῶν πρός τι· (v) εἰ δὲ μή ἐστι τῶν πρός τι, ἀληθὲς ἂν εἴη λέγειν ὅτι οὐδεμία οὐσία τῶν πρός τί ἐστιν. (8b15-21)

(iii) は明らかに間違っているように見える2.だが,私たちの解釈では,テクストをそのまま読める:

  • (i) にいわく,頭を確定的に知ることはできる.(外延的適切性の問題があるので,この頭は第二実体.αὐτὸ μὲν ὅπερ ἐστὶν という言葉づかいもこのことを強く示唆する.)
  • (ii) と (iii) はそこから相関項を確定的に知っていることにならない理由を説明する.〈頭をもつもの〉(the headed) を図式的に知っているだけでは,相関項の確定的知識にはならない.

議論は凝縮されているものの整合的である.そしてこの解釈から τὸ εἶναι ταὐτόν ἐστι τῷ πρός τί πως ἔχειν の τι / πως も理解できる: これらは特定的関係・相関項のプレースホルダーなのである.

6.5 過剰産出の懸念,およびアリストテレスの関係項に対する態度を論じる

8a20-27 の外延的適切性の懸念が残っている.手が関係項かつ実体であるという結論は,図式的読みと特定的読みの区別によって回避できる.

  • 特定的に読めば,前提「手はある身体の手である」は真だが,そこから特定の手が関係項であることは帰結しない (ἡ γὰρ τὶς χεὶρ οὐ λέγεται τινός τις χεὶρ ἀλλὰ τινὸς χείρ (8a18-19)).(かりに手個体ではなく特定の種類の手だとした場合でさえ同様の帰結が生じる.)
  • 図式的に読めば,前提「手はある身体の手である」はそもそも偽である.

また関係性1と関係性2の揺れ動き (e.g., Cat. 8) も,この解釈なら説明できる.両者は排他的な理解ではない.

結論

図式的/特定的関係項という区別は革新的だが構成的解釈の枠内にとどまっている.重要な特徴として,特定的関係項はそれに対応する類的関係項と同一の相関項をもつとは限らない.

プラトンの構成的関係性は関係性1に近い.アリストテレスはこれを否定したわけではなく,それを自分の必要に適応させたのだ.「いかなる実体も関係項ではない,かつ第二実体の部分は実体である」という考えは構成的関係性と緊張関係にある.アリストテレスはこれを解消するために一般的関係項と個別的関係項を区別したのだ.


  1. 原文の行数表記はずれている.

  2. (iii) の οὐκ ἔστιν の間に ἀναγκαῖον を挟むのがよくある解決策である.だが批判として Sedley 2002.