『パルメニデス』のイデア論批判における構成的関係性の役割 Duncombe (2020) Ancient Relativity, Ch.3

  • Matthew Duncombe (2020) Ancient Relativity, Oxford University Press.
    • Ch.3. Relativity and separation in the theory of Forms. 49-70.

元論文は Duncombe (2013) OSAP 45, 43-62.


序論

Parm. 133c-134e でパルメニデスソクラテスの未成熟なイデア論の「最大の困難」を提示する.この議論が関係性に依拠することは広く認められてきたが,満足のいく説明はされてこなかった.構成的見解が役割を果たしていると考えるとうまく理解できる,と以下で論じる.これは構成的見解を帰属するさらなる証拠にもなるし,その解釈上の価値を示すのにも役立つ.

3.1 でテクストを導入し 3.2-3.4 で既存解釈を論じる.多くの論者は「最大の困難」はイデア論批判としてうまくいっていないと考えているが,私はそうは思わない.3.5 では構成的解釈に基づいて当該箇所を解釈する.

3.1 パルメニデス 133c-134c における「最大の困難」

パルメニデスソクラテスイデアとそれに与るもの (participants) の関係の説明を要求する.共有と類似という候補が斥けられた後 (131a-e, 132d-133b),「最大の困難」が提示される (133c-134e).パルメニデスは〈主人-奴隷〉の対 (133d7-134a1) と〈真理-知識〉の対 (134a3-b1) に訴える.そして (本章の解釈では),私たちは奴隷のイデアの主人にはなりえず,真理のイデアを知りえず,神々は私たちを支配することも私たちのことを知ることもできないと結論づける.

かなめになる主張は以下の三つ:

  • イデアは世界から切り離されている (T1): ὅτι, ὦ Σώκρατες, οἶμαι ἂν καὶ σὲ καὶ ἄλλον, ὅστις αὐτήν τινα καθ᾽ αὑτὴν ἑκάστου οὐσίαν τίθεται εἶναι, ὁμολογῆσαι ἂν πρῶτον μὲν μηδεμίαν αὐτῶν εἶναι ἐν ἡμῖν. (133c3-5)
  • 関係性とイデアに関する前提 (T2): οὐκοῦν καὶ ὅσαι τῶν ἰδεῶν πρὸς ἀλλήλας εἰσὶν αἵ εἰσιν, αὐταὶ πρὸς αὑτὰς τὴν οὐσίαν ἔχουσιν, ἀλλ᾽ οὐ πρὸς τὰ παρ᾽ ἡμῖν εἴτε ὁμοιώματα εἴτε ὅπῃ δή τις αὐτὰ τίθεται, ὧν ἡμεῖς μετέχοντες εἶναι ἕκαστα ἐπονομαζόμεθα ... (132c8-d2)
  • 上と並行的に見える,関係性と私たちの領域のものに関する前提 (T3): τὰ δὲ παρ᾽ ἡμῖν ταῦτα ὁμώνυμα ὄντα ἐκείνοις αὐτὰ αὖ πρὸς αὑτά ἐστιν ἀλλ᾽ οὐ πρὸς τὰ εἴδη, καὶ ἑαυτῶν ἀλλ᾽ οὐκ ἐκείνων ὅσα αὖ ὀνομάζεται οὕτως. (133d2-5)

ここからパルメニデスイデア論に不利な結論を引き出す.しかし詳細の解釈には論争がある.以下では (1) 類比に基づく論証だという解釈,(2) 根源的離在 (radical separation) に訴えているという解釈,(3) 離在原理を弱める解釈,の各々を批判する.

3.2 類比に基づく論証?

多くの論者は Cornford に従い「最大の困難」を 'almost grossly fallacious' だと考えている.そうした論者は通常 Forrester の以下の再構成に従う:

  1. 主人のイデアは主人であり,奴隷のイデアは奴隷である.
  2. 主人のイデアは (a) 個々の奴隷ないし (b) 主人のイデアに与るものないし (c) 奴隷のイデアの主人である.
  3. (a) だと仮定する.
    • 個々の奴隷はつねに個々の主人の奴隷である.
    • ゆえに主人のイデアは個々の奴隷の主人ではない.
  4. (b) だと仮定する.
    • 主人のイデアに与るものは主人であり奴隷ではない.
    • 主人のイデアは主人のイデアに与るものの主人ではない.
  5. ゆえに主人のイデアはひとえに奴隷のイデアの主人である1
  6. 主人のイデアが奴隷のイデアと関係するのと同じように,真理のイデアは知識のイデアに関係する.
  7. 人間は奴隷のイデアの主人たりえない.
  8. 人間は真理のイデアを知り得ない.
  9. 真理のイデアはあらゆるイデアの代わりになる (stand in for).
  10. ゆえに人間はイデアを知り得ない.

難点は色々指摘できるかもしれないが,類比解釈を採る論者は次の問題に集中してきた: 「人間が主人たりうるのは死すべきものに対してだけだが,奴隷のイデアは不死である」という論点は,知識とその対象の場合には類比的に適用できない.それゆえ「最大の困難」は妥当な議論でない.

類比解釈の難点は,知識に関する認識的結論だけが「最大の困難」の結論だとしている点にある.実際には神学的問題を含めて4つの結論がある: (i) 神的なものは人間的なものを支配できない,(ii) 人間的なものは神的なものを支配できない,(iii) 神的なものは人間的なものを知り得ない,(iv) 人間的なものは神的なものを知り得ない.

(i) の都合の悪さについて cf. Phd. 62d2-3. また 134d9-e6 の言葉づかいもこうした解釈を支持する.

3.3 根源的離在?

「最大の困難」を妥当な議論を見なす論者は (T1) が離在の根源性を主張していると見なすことが多い.

  • (根源性 radical) 全ての x について, x がイデアでありかつ x がある y に関係する iff.2 y はイデアである.

だが,これはプラトン主義者に対する明らかな論点先取であり,また 133d1-2 がこれに整合しない.

3.4 弱い離在?

そこで離在原理を弱めようとする論者もいる (Lewis 1979; McPherran 1983b).この方向性は正しい.だが彼らのやり方ではうまくいかない.

T2 と T3 は分有 (participation) 関係を否定しているわけではない.Lewis によれば,T2 は本来の離在 (proper separation),T3 はこれに対応する与る側の事実的離在 (factual separation) の原理を与えている.Lewis が言わんとしているのはおそらくこういうことだ:

  • (本来 proper) 全ての x とある y について3,もし x が関係的イデアであり,かつ y が x の相関項なら,そのとき y はイデアである.
  • (事実 factual) 全ての x とある y について,もし x が関係的な与るものであり,かつ y が x の相関項なら,そのとき y は与るものである.

Lewis は関係的イデアを関係,関係的な与るものを関係項と見なす.これらの眼目は逆写像と終域の区別にある.

この解釈は関係性の非構成的解釈を前提している.時代錯誤であり,プラトンの関係性についての立ち入った分析なしには正当化できない.また (本来) と (事実) は次のような分有の説明を許してしまう:

  • もし与るものが関係的な与るものであり,かつイデアが与るものの相関項なら,イデアは与るものである.

とどのつまりプラトンの関係性の捉え方について明確な説明が必要である.McPherran は CastañedaPhd. 解釈に依拠しつつこれを試みる.

Castañeda によれば,Phd. にはイデア,個物,個物のうちなるイデアという三種類の存在者が登場する.そして Phd. の理論は以下を主張する:

  1. 個物が属性をもつのはイデアに与ることによってである.
  2. イデアは全て単項的である.つまり各イデアは個々の事実においてただ単一の個物によって例化される.
  3. 事実には一叉 (single-pronged) の事実と複叉 (multiple-pronged) の事実がある.一叉の事実は単一のイデアと単一の与るものからなる.複叉の事実は二つ以上のイデアと各々を例化する与るものからなる (その際各々のイデアと与るものの対はそれだけでは事実にならない).
  4. 複叉の事実に入るイデアは一叉の事実には入りえない.

例: 言明「シミアスはソクラテスより高い」が真なのは,シミアスが〈高さ〉に与り,ソクラテスが〈低さ〉)に与るからだ.(4) より〈高さ〉と〈低さ〉のイデアは対をなす.そこからシミアスとソクラテスの対が派生的に生じる.

McPherran はこの理論に「私たちのうちなるイデア」が登場すること (関係的内在的性格 relational immanent characters) を強調し,それが Parm. 133e4-134a1 にあらわれていると言う.上記の例ではシミアスのうちなる〈高さ〉(Tallness-in-Simmias) とソクラテスのうちなる〈低さ〉が登場している.内在的性格が個物の特徴を説明するように,関係的内在的性格が個物の関係的特徴を説明する:

  • (内在的離在1 immanent separation 1): x は F-in-x を G-in-y に対して担っており,他の存在者に対しては F-in-x を担いえない.
  • (内在的離在2 immanent separation 2): y は G-in-y を F-in-x に対して担っており,他の存在者に対しては G-in-y を担いえない.

これは T3 の注釈にあたる.これはイデアとそれに与るものの絶対的区別を導いており,両者の特定の関係を妨げている.

だが,この McPherran 解釈にも問題がある: F-in-x と G-in-y の 'F' 'G' に何が入るのかを特定できておらず,例えばシミアスのうちなる〈高さ〉とソクラテスにおける〈息子性〉の逸脱的な結びつきを排除できない.要するにこの原理は関係的事実の truthmakers を作りすぎてしまう.

Castañeda-McPherran は,「二つのイデアが同時に分有される」という要件を課すことでこれを避けようとするかもしれない (Castañeda 1972: 417).二人が構成性を念頭に置いているのなら,彼らの解釈は大筋で正しい.だが,左記の要件だけでは構成性は導けず,依然として逸脱的な対を許してしまう.

要するに,非構成的に解釈したために,Lewis は与るものを生み出しすぎ,McPherran は truthmakers を生み出しすぎているのだ.

3.5 構成的関係項と「最大の困難」

本章の解釈では,「最大の困難」は T1-2 が表す離在の前提からの帰謬法である.T1-3 は以下の原理を反映している.

  • (相互F recpirocalF) 全ての x, ある y について,もし x がイデアであり x の相互的相関項が y なら,そのとき y はイデアである.
  • (相互P recpirocalF) 全ての x, ある y について,もし x が我々のもとにあり x の相互的相関項が y なら,そのとき y は我々のもとにある.

これらは分有関係を排除しない; 分有関係の相互性を排除するにすぎない.しかしここから神学と認識論に関わるまずい諸帰結が生じる.それは「関係項が当の関係項であるのは相関項のおかげだ」という前提がプラトンにあるからだ.

まず T1-T3 を最もよく反映するのが相互Fと相互Pだと示す必要がある.このことは T2 をよく読めばわかる.T2 は ὅσαι τῶν ἰδεῶν πρὸς ἀλλήλας εἰσὶν αἵ εἰσιν というイデアの部分クラスを取り出している.つまり相関項のイデアである.相関項は対で存在し,かつ相互的である.相関項の相互性はプラトンの対話篇や Cat. 7 に広く見られる.かくて相互F+相互Pが帰謬法のターゲットとなる.

さらに相互的相関項はある意味で関係項の対象 (object) でもある.例えば知られるものは知識の相関項であると同時に知識の対象である.他も同様4

また,εἰσὶν αἵ εἰσιν を他のイデアの意味に理解する論者もいるが,これは ὅπερ ἔστιν のことだ (cf. 2.1): 関係項はそれ自体としては相関項に相互的に構成される.

以上に基づけば,「最大の困難」の議論は次のように説明できる:

  1. まず T1 はイデアがそれに与る者から離在するという一般的論点を述べている.これは 128e5 以来の論点である.
  2. 次いで T2 が関係項のイデアを取り出す.その各々は相互的相関項をもつ.
  3. そして T2 は,離在の内実は相互Fと相互Pで表せる,という主張である.

ここからパルメニデスは4つの帰結を導く.彼いわく:

... εἴ τις ἡμῶν του δεσπότης ἢ δοῦλός ἐστιν, οὐκ αὐτοῦ δεσπότου δήπου, ὃ ἔστι δεσπότης, ἐκείνου δοῦλός ἐστιν, οὐδὲ αὐτοῦ δούλου, ὃ ἔστι δοῦλος, δεσπότης ὁ δεσπότης, ἀλλ᾽ ἄνθρωπος ὢν ἀνθρώπου ἀμφότερα ταῦτ᾽ ἐστίν: αὐτὴ δὲ δεσποτεία αὐτῆς δουλείας ἐστὶν ὅ ἐστι, καὶ δουλεία ὡσαύτως αὐτὴ δουλεία αὐτῆς δεσποτείας, ... (133d7-e4)

つまり人間の主人は人間の奴隷の主人でしかありえず,主人のイデアは奴隷のイデアの主人でしかありえない.

しかしプラトンの関係項観では相関項は関係の対象でもある.それゆえ相互Fと相互Pより,神的な主人は人間の奴隷の主人たりえず,イデアの領域の知識はイデアの領域のものの知識でしかありえないし,私たちは真理のイデアを知り得ない.離在を相互Fと相互Pで解釈すると,このようなプラトン的命題が脅かされるのだ.

こう理解すれば,「最大の困難」の議論は妥当であり,論点先取的でもなく,逸脱的関係性の問題もない.

なお「最大の困難」への批判として,知識の相関項は「知りうるもの」ἐπιστητόν であり真理ではないのではないか,というものがありうる.だが ἐπιστητός は Tht. では奇妙な造語とされている (Tht. 201d2-3).R 438c3 では μαθήματα と呼ばれており,ここで「真理」と呼ばれているのも同様にたんに新語の使用を避けたのではないかと思われる.また重要なのはイデアの領域に知識の対象がないということであって,相関項の特定は議論のうえで重要ではない.

最後に,離在,相互F,相互Pのセットが不整合なら,プラトンが何を斥けるのかという問題がある.Sph. では相関項に関する見方が維持されているように見える (255c, 248a-249d).したがってプラとニストは関係性とイデア論の緊張関係を見て取ることになろう.


  1. 原文は誤って “Only the Form Master is …” としているが only の係り先は当然 the Form Slave でなければならない.Forrester (1974: 234) は正しく “The only slave which we can reasonably put forward as under Mastery Itself is Slavery Itself” としている.

  2. 原注 55n14: T2 と合わせると双条件文としての読みが可能になる.

  3. いつもの間違い.以下同様.

  4. 本当に全てに当てはまるのかは疑わしいが以下の議論にも強く効いている.要検討.