プラトンは総じて構成的関係性を前提している Duncombe (2020) Ancient Relativity, Ch.2

  • Matthew Duncombe (2020) Ancient Relativity, Oxford University Press.
    • Ch.2. Constitutive relativity in Plato. 23-48.

序論

昔の研究者たちはプラトンが関係性を全く誤解していると考えてきた.最近はそうでもないが,しかし非構成的見解が支配的である.以下では諸対話篇の検討を通じて構成的解釈を擁護する.それらの箇所には排他性,相互性,対他関係性,存在的対称性が見られるのである.

2.1 総称的関係項と「まさにそれであるもの」

プラトンは「まさにそれであるもの」(just what it is, ὅπερ ἔστιν) という修飾を用いることがある.この修飾は関係性を扱う議論では関係項そのものに焦点を合わせ,それによって構成的相関項以外を考慮からはずす.構成的相関項以外を除外してよいとプラトンが考えているという事実は,彼が類的構成的関係性 (generic constitutive relative) を前提していることを示唆する.

2.1.1 『饗宴』199d1-199e8

τόδε εἰπέ: πότερόν ἐστι τοιοῦτος οἷος εἶναί τινος ὁ Ἔρως ἔρως, ἢ οὐδενός; ἐρωτῶ δ᾽ οὐκ εἰ μητρός τινος ἢ πατρός ἐστιν—γελοῖον γὰρ ἂν εἴη τὸ ἐρώτημα εἰ Ἔρως ἐστὶν ἔρως μητρὸς ἢ πατρός—ἀλλ᾽ ὥσπερ ἂν εἰ αὐτὸ τοῦτο πατέρα ἠρώτων, ἆρα ὁ πατήρ ἐστι πατήρ τινος ἢ οὔ; εἶπες ἂν δήπου μοι, εἰ ἐβούλου καλῶς ἀποκρίνασθαι, ὅτι ἔστιν ὑέος γε ἢ θυγατρὸς ὁ πατὴρ πατήρ: ἢ οὔ;

πάνυ γε, φάναι τὸν Ἀγάθωνα.

οὐκοῦν καὶ ἡ μήτηρ ὡσαύτως; Ὁμολογεῖσθαι καὶ τοῦτο.

ἔτι τοίνυν, εἰπεῖν τὸν Σωκράτη, ἀπόκριναι ὀλίγῳ πλείω, ἵνα μᾶλλον καταμάθῃς ὃ βούλομαι. εἰ γὰρ ἐροίμην, ‘τί δέ; ἀδελφός, αὐτὸ τοῦθ᾽ ὅπερ ἔστιν, ἔστι τινὸς ἀδελφὸς ἢ οὔ;’ φάναι εἶναι.

οὐκοῦν ἀδελφοῦ ἢ ἀδελφῆς; Ὁμολογεῖν.

πειρῶ δή, φάναι, καὶ τὸν ἔρωτα εἰπεῖν. ὁ Ἔρως ἔρως ἐστὶν οὐδενὸς ἢ τινός;

πάνυ μὲν οὖν ἔστιν. (Symp. 199d1-e8.)

(関係としてではなく) 関係項として愛が分析され,父・母・きょうだい (ἀδελφός, brother) と比される.ここで属格は起源ではなく相関項を意味すると明記されている.

また,関係項は類的タイプ (generic type) を意味し (ὅπερ ἔστιν),トークン (プリアモス) や特定の種 (兄 older brother) を意味しない.この ὅπερ ἔστιν という修飾句によって,ソクラテスはアガトンが確実に固有の相関項だけを考えるようにしているのだ.

2.1.2 『ソピステス』255c9

Ξένος τί δέ; τὸ θάτερον ἆρα ἡμῖν λεκτέον πέμπτον; ἢ τοῦτο καὶ τὸ ὂν ὡς δύ᾽ ἄττα ὀνόματα ἐφ᾽ ἑνὶ γένει διανοεῖσθαι δεῖ;

Θεαίτητος τάχ᾽ ἄν.

Ξένος ἀλλ᾽ οἶμαί σε συγχωρεῖν τῶν ὄντων τὰ μὲν αὐτὰ καθ᾽ αὑτά, τὰ δὲ πρὸς ἄλληλα1 ἀεὶ λέγεσθαι.

Θεαίτητος τί δ᾽ οὔ;

Ξένος τὸ δέ γ᾽ ἕτερον ἀεὶ πρὸς ἕτερον: ἦ γάρ;

Θεαίτητος οὕτως.

Ξένος οὐκ ἄν, εἴ γε τὸ ὂν καὶ τὸ θάτερον μὴ πάμπολυ διεφερέτην: ἀλλ᾽ εἴπερ θάτερον ἀμφοῖν μετεῖχε τοῖν εἰδοῖν ὥσπερ τὸ ὄν, ἦν ἄν ποτέ τι καὶ τῶν ἑτέρων ἕτερον οὐ πρὸς ἕτερον: νῦν δὲ ἀτεχνῶς ἡμῖν ὅτιπερ ἂν ἕτερον ᾖ, συμβέβηκεν ἐξ ἀνάγκης ἑτέρου τοῦτο ὅπερ ἐστὶν εἶναι.

Θεαίτητος λέγεις καθάπερ ἔχει. (Sph. 255c9-d10)

研究者は「独立」 αὐτὰ καθ᾽ αὑτά と「関係的」 πρὸς ἄλληλα の区別の中身を論じてきた.だがここではただ,〈異〉がたんに関係的である一方〈ある〉が独立か関係的かである理由を問題にする.客人いわく,ὅπερ ἐστίν な〈異〉は関係的だが,ὅπερ ἐστίν な〈ある〉はそうでない.このことが反事実的条件法で示される: 〈異〉が独立かつ関係的なら,ほかと異なる異と,端的に異なる異があることになる.だが実際には後者はない.一方で,〈ある〉には両方の種類がある.例えばアキレウスはほかのものと独立に〈あるもの〉だが,同時にテティスに関係的である.

しかし,アキレウスは〈異〉でもあるのに,なぜ〈異〉は独立ではありえないのか.答えは ὅπερ ἐστίν にある.類的構成的関係性は関係 (〜は〜と異なる) をもつことで構成されるのであり,ゆえにそれ自体としての〈異〉は独立のもののクラスには入りえない.

2.2 プラトンにおける排他性

2.2.1 『饗宴』200a2-201c7

愛が関係的であることにアガトンが同意したあと,ソクラテスは愛が美しくないと論じる (200a2-201c7):

  1. 愛はその対象への欲望である (前提)
  2. 美は愛の対象である (前提)
  3. 愛は美への欲望である (1, 2)
  4. 全ての x, ある y について2,x が y を欲望するなら,x は y をもたない (前提)
  5. 愛は美をもたない (3, 4)
  6. 全ての x について,x が F である iff. x は F性をもつ (隠れた前提)
  7. ゆえに愛は美しくない3 (5, 6)

この推論は妥当だが,愛がその相関項とのみ関係する必要がある.さもなければ「美」の部分に F と non-F を入れることで矛盾させられてしまう.ゆえにこの議論は排他性を必要とする.

なお構成的関係性の二つの特徴は協調関係にある: ὅπερ ἐστίν は排他性を保証する.

2.2.2 『テアイテトス』204b1-205b1

ソクラテスとテアイテトスは「知識は説明規定を伴う真なる判断である」説を検討する.ここで説明規定とは複合物の部分の列挙である (203a5-10).したがって部分を知ることは複合物を知ることに必要である (203a-b).ソクラテスはこれを批判して,そのとき 'ΣΩ' は知りうるが 'Σ' と 'Ω' は分析不可能なため知り得ないことになると論じる.

これに対して,'ΣΩ' は 'Σ' と 'Ω' の単純な総和にとどまらないという応答の線が考察される.ソクラテスはもともとの批判を擁護して,τὸ πᾶν (the sum) と τὸ ὅλον (the whole) は同じだという議論をする (204a11-205a1):

Σωκράτης τί δὲ δή; τὰ πάντα καὶ τὸ πᾶν ἔσθ᾽ ὅτι διαφέρει; οἷον ἐπειδὰν λέγωμεν ἕν, δύο, τρία, τέτταρα, πέντε, ἕξ, καὶ ἐὰν δὶς τρία ἢ τρὶς δύο ἢ τέτταρά τε καὶ δύο ἢ τρία καὶ δύο καὶ ἕν, πότερον ἐν πᾶσι τούτοις τὸ αὐτὸ ἢ ἕτερον λέγομεν; Θεαίτητος τὸ αὐτό.

Σωκράτης ἆρ᾽ ἄλλο τι ἢ ἕξ; Θεαίτητος οὐδέν.

Σωκράτης καὶ μὴν καὶ ὁ τοῦ στρατοπέδου γε καὶ τὸ στρατόπεδον, καὶ πάντα τὰ τοιαῦτα ὁμοίως; ὁ γὰρ ἀριθμὸς πᾶς τὸ ὂν πᾶν ἕκαστον αὐτῶν ἐστιν. Θεαίτητος ναί.

Σωκράτης ὁ δὲ ἑκάστων ἀριθμὸς μῶν ἄλλο τι ἢ μέρη ἐστίν; Θεαίτητος οὐδέν.

Σωκράτης ὅσα ἄρα ἔχει μέρη, ἐκ μερῶν ἂν εἴη; Θεαίτητος φαίνεται.

Σωκράτης τὰ δέ γε πάντα μέρη τὸ πᾶν εἶναι ὡμολόγηται, εἴπερ καὶ ὁ πᾶς ἀριθμὸς τὸ πᾶν ἔσται. Θεαίτητος οὕτως.

Σωκράτης τὸ ὅλον ἄρ᾽ οὐκ ἔστιν ἐκ μερῶν. πᾶν γὰρ ἂν εἴη τὰ πάντα ὂν μέρη. Θεαίτητος οὐκ ἔοικεν.

Σωκράτης μέρος δ᾽ ἔσθ᾽ ὅτου ἄλλου ἐστὶν ὅπερ ἐστὶν ἢ τοῦ ὅλου; Θεαίτητος τοῦ παντός γε.

Σωκράτης ἀνδρικῶς γε, ὦ Θεαίτητε, μάχῃ.

再構成すると:

  1. τὰ πάντα (all the things) = τὸ πᾶν (前提)
  2. ものの数 = τὰ πάντα (前提)
  3. ものの数 = 全ての部分 (前提)
  4. 全ての部分 = τὸ πᾶν (1, 2, 3)
  5. 全ての部分 = τὸ ὅλον (補題)
  6. ゆえに,τὸ ὅλον = τὸ πᾶν (4, 5)

議論の健全性は措くとして (cf. Harte 2002),ソクラテスは (5) を導くために部分と全体に排他性の原理を適用している:

  • 部分-全体の排他性 (part-whole exclusivity) 部分が全体と関係するなら,部分は全体とのみ関係する.

そのまま取れば,部分は全体とのみ関係するわけではない.だが "ἐστὶν ὅπερ ἐστὶν ἢ τοῦ ὅλου" という言い方をすることで排他性が生じる.

もっともテアイテトスは "τοῦ παντός γε" という予期せぬ答えを与える.この答えは ὅπερ ἐστίν 修飾句を無視した誤答である.

2.3 『ポリティコス』における相互性

プラトンは πρὸς ἄλληλα という言葉づかいによって相互性をしばしば示唆する.3章では Parm. における相互性の事例を検討するが,ここでは Plt. 283d11-e2 を見る:

Ξένος ἆρ᾽ οὐ κατὰ φύσιν δοκεῖ σοι τὸ μεῖζον μηδενὸς ἑτέρου δεῖν μεῖζον λέγειν ἢ τοῦ ἐλάττονος, καὶ τοὔλαττον αὖ τοῦ μείζονος ἔλαττον, ἄλλου δὲ μηδενός; Νεώτερος Σωκράτης ἔμοιγε.

客人の主張は二点:

  1. 〈より大きい〉のような関係項は,〈より小さい〉のような相関項と排他的に関係する.
  2. 〈より大きい〉と〈より小さい〉は相互的である.一方が他方に関係するなら,他方が一方に関係する.

この箇所は別の点でも構成的解釈に有利である: 客人は直前で〈大〉と〈小〉について話していたのが,ここでは〈より大きい〉と〈より小さい〉に移行している.これは誤謬に見えるが,〈大〉が〈小〉との関係によって構成されるという前提を置けば,この同一視は説明できる.

2.4 『テアイテトス』における存在的対称性

テアイテトスの双子理論 (twin-offspring theory) は,万物が作用と受動という二種類の運動からなり (156a5-7),それらが生み出す感覚と感覚対象は次の仕方で関係すると述べる (156a7-b1):

  • 生成対称性 (generation symmetry): 全ての x, ある y について,x が y に関係的なら,x が生じるとき,y が生じる.

生成対称性は存在的対称性に必要だが十分ではない.別々の時点で消滅する可能性を残すからだ.

続く箇所ではともに生成することが必然的でもあると述べられる (156d3-156e2):

  • 必然的生成対称性 (necessary generation symmetry): 必然的に,全ての x, ある y について,x が y に関係的なら,x が生じるとき,y が生じる.

構成的関係性はこれを含意するので,この箇所は構成的解釈を支持する.これも存在的対称性に十分ではない.しかし,双子理論は存在的対称性にも与していると思われる:

οὔτε γὰρ ποιοῦν ἐστί τι πρὶν ἂν τῷ πάσχοντι συνέλθῃ, οὔτε πάσχον πρὶν ἂν τῷ ποιοῦντι (Tht. 157a4-7)

二つの力の相互作用があるときにのみ感覚と感覚対象とは存在するのだから,感覚と感覚対象は同時にのみ存在する.プラトンソクラテスも双子理論を支持してはいないが,しかしこの理論は構成的見解を含んでいる4

2.5 『カルミデス』における構成と対他関係性

Chrm. でクリティアスは思慮 (σωφροσύνη) を自己知だと定義する (165b4).彼とソクラテスはともに思慮が一種の知識であることには同意する.知識は τινός の知識である (165c).ソクラテスは相関項が知識とは異なると想定しているが,クリティアスはそれが論点先取だと批判する (165e).彼いわく,思慮の対象は,まさに知識そのものが対象であるという点で,他の知識と異なるのだ (166c-d)――精神分析や瞑想のようなその人自身についての知識というわけではなく,むしろ知識の知識 (再帰的知識 reflexive knowledge) である.

λέγω τοίνυν, ἦ δ᾽ ὅς, ὅτι μόνη τῶν ἄλλων ἐπιστημῶν αὐτή τε αὑτῆς ἐστιν καὶ τῶν ἄλλων ἐπιστημῶν ἐπιστήμη. ― οὐκοῦν, ἦν δ᾽ ἐγώ, καὶ ἀνεπιστημοσύνης ἐπιστήμη ἂν εἴη, εἴπερ καὶ ἐπιστήμης; ― πάνυ γε, ἔφη. (166e5-9)

つまりクリティアスは次の主張に与する:

  • (C) 思慮は (i) 次のような知識として唯一のものである: (ii) それ自体の,(iii) 他の知識の,および (iv) 知識の不在の,知識.

ソクラテスは後にこれを言い換える:

... εἰ ἔστιν ὅπερ σὺ νυνδὴ ἔλεγες, μία τις ἐπιστήμη, ἣ οὐκ ἄλλου τινός ἐστιν ἢ ἑαυτῆς τε καὶ τῶν ἄλλων ἐπιστημῶν ἐπιστήμη, καὶ δὴ καὶ ἀνεπιστημοσύνης ἡ αὐτὴ αὕτη; ― πάνυ γε. (167b11-c2)

つまり:

  • (S) 思慮は (i) もっぱら次のものの,或る知識である: (ii) それ自体,(iii) 他の知識,および (iv) 知識の不在.

だが (C) と (S) は別の主張である.(C) によれば思慮は一意だが排他的でない.(S) によれば排他的だが一意でない.ソクラテスは (S) を論駁するが,そもそも批判対象が間違っていることになる.

(C) から (S) への移行で何が起きているのか.なるほどクリティアスは注意深い人物ではなく (163bff., 164eff.),違いを捉えていなかった可能性はある.彼自身が知識の知識を持っていないという劇的アイロニーもあるかもしれない.が,もとはと言えばソクラテスの過失である.

別の説明が可能である: ソクラテスの論駁は (S) と (C) の両方を対象としている.両方とも思慮が知識の知識であることを前提しており,論駁はこの前提を批判している.

ソクラテスの議論は二つの部分に分かれる.(1) まず知識とその他の心理状態の類比から,思慮が自身に関係する知識ではありえないと論じる (167c-168b).(2) 次いで,ある (ないしはおそらく全ての) 関係項は対他関係項であると論じる (168b-169a).

2.5.1 類比に基づく議論 (『カルミデス』167c1-168b1)

ソクラテスによれば,(S) のような説明は類比的な心的状態には成り立たない:

ἐν τοῖσδε. ἐννόει γὰρ εἴ σοι δοκεῖ ὄψις τις εἶναι, ἣ ὧν μὲν αἱ ἄλλαι ὄψεις εἰσίν, οὐκ ἔστιν τούτων ὄψις, ἑαυτῆς δὲ καὶ τῶν ἄλλων ὄψεων ὄψις ἐστὶν καὶ μὴ ὄψεων ὡσαύτως, καὶ χρῶμα μὲν ὁρᾷ οὐδὲν ὄψις οὖσα, αὑτὴν δὲ καὶ τὰς ἄλλας ὄψεις: δοκεῖ τίς σοι εἶναι τοιαύτη; ― μὰ Δί᾽ οὐκ ἔμοιγε. (167c9-d3)

すなわち,視覚はもっぱら色を見る能力だが,視覚自体は色づいていないので,視覚は視覚には関係できない.他の多くの志向的心的状態も同様である.各状態には固有の対象 (排他的な関係項) があるからである (167dff.).

これに対してクリティアスには二つの反論が可能である.第一に,これは (S) には当てはまるが,排他性を主張しない (C) には当てはまらない.

第二に,そもそも固有の対象にしか関係しないというのは間違いである.例えば視覚は形とも関係する.また自身に関係する心的状態はありうる (例: 欲求の欲求,欲求の欠如の欲求).

(ソクラテスがそう論じているわけではないが) 志向的心的状態が構成的関係項だとすれば,どちらの反論も封じることができる.第一にそのとき (C) は (S) を含意する.第二に構成的見解は対象の排他性・構成性を含意する.それゆえまた色の視覚と形の視覚は別物である (後述: 4.2).同様に (S) も思慮を単一のものとして定義できていない.

2.5.2 対他関係性に基づく議論 (『カルミデス』168b1-169c1)

類比に基づく議論は決定的ではなかった.だが知識が関係項であり,関係項が自身とは関係できないのだとすれば,(C) は失敗となる.ソクラテスはそのように論じていく.

ἔστι μὲν αὕτη ἡ ἐπιστήμη τινὸς ἐπιστήμη, καὶ ἔχει τινὰ τοιαύτην δύναμιν ὥστε τινὸς εἶναι: ἦ γάρ; (168b2-3)

ここでソクラテスは,知識が関係項であり,かつ何かへの力であると述べる.

次いでソクラテスは,力は本性 (οὐσία) に適用されると述べる (力-本性分析 power-to-nature analysis).これは心的状態のみならず全ての関係項に当てはまる分析である.初期対話篇の οὐσία は (偶然的特徴ではなく) 本性を与える (複数でなく) 単一のものを指す (Men. 72b1; Hp. Ma. 301b8, Prt. 349b4, Euthphr. 11a6-b1).関係項は当の相関項たる本性に対してのみ作用する力をもつ.

そしてこの説明によれば,力は力には関係しない.このことは次のように説明できる.およそ力は特定の条件下で発現する (manifest).例えば視力が発現するのは可視のものがあるときである.視覚が可視であれば,それはつねに発現するが,いかなる内容も持たなくなってしまう.それゆえ力は独立の本性に作用するのでなければならない.さもなければ全く根拠を欠いた力をつねに持つことになってしまうからだ.(Met. Γ5 1010b34-5 がこの懸念を表明している.) それゆえ,関係項が本性に関係する力である限り,対他関係性が従う.この力-本性分析は構成的説明とも整合する.

力-本性分析を導入した後に,ソクラテスは量的関係項が対他関係項だと論じる:

(i) εἰ οὖν τι εὕροιμεν μεῖζον, ὃ τῶν μὲν μειζόνων ἐστὶν μεῖζον καὶ ἑαυτοῦ, (ii) ὧν δὲ τἆλλα μείζω ἐστὶν μηδενὸς μεῖζον, (iv) πάντως ἄν που ἐκεῖνό γ᾽ αὐτῷ ὑπάρχοι, (iii) εἴπερ ἑαυτοῦ μεῖζον εἴη, καὶ ἔλαττον ἑαυτοῦ εἶναι. (168b10-c3)

この議論は帰謬法として再構成できる:

  1. より大きいもの a が存在し,a はより大きいものどもより大きく,かつそれ自身より大きい (仮定)
  2. より大きいものは全て,ある小さいものより大きい (前提)
  3. a はそれ自身より大きい (1, ∧-elim.)
  4. a はそれ自身より小さい (2, 3)
  5. a はそれ自身より大きく,かつそれ自身より小さい (3, 45)
  6. 何ものもそれ自身より大きく,かつより小さいことはない (前提)
  7. ⊥ (5, 6)
  8. ゆえに 1 は誤り.

これは妥当だが (ii) が効いていないという解釈上の問題がある (McCabe 2007).最も単純な解決法はこうである: 構成的解釈や力-本性分析に鑑みれば,より大きいものはもっぱらより小さいものより大きいことが期待される.(ii) はそうでないことに注意している.a は特別なより大きいものであって,より小さいものより大きいのではなく,それ自身や他のより大きいものである.こう理解すると志向的心的状態と並行的な議論になる (i.e., それ自身や他の視覚の視覚というものは期待される相関項を持っていない).(ii) をはっきりさせる必要があったという事実は,この議論で構成的関係性が一定の役割を果たしている証拠になる.

もう一つの証拠は 3 と 4 の両方を導いていることに見られる.3 だけで十分に不条理なのだが,3 と 4 の連言を作ると排他性によって拒否できる.さらに 168c5-7 も構成的見解を帰属する証拠になる.

というわけでソクラテスによれば量的関係項は対他関係項である.志向的関係項についてはそれほど態度がはっきりしない (cf. Tht. 153d-154a; 156c-157a).ソクラテス自身,対他関係性全般の説明はできないと認めている (169c-d).

しかしともあれ,力-本性分析が関係性に関する構成的見解が含んでいる諸前提を形而上学的な言葉づかいで明確化しているのは確かである.


  1. 原注 27n8: OCT に反し別の有力写本の読みを採る.

  2. If 文が続くので,ここも全ての y でないとおかしい.以下同様.

  3. 原文はステップが一つ重複している.

  4. この節の議論は構成的解釈の論拠としては疑わしい.存在的対称性を含意するのは双子理論のうちにある諸力の相互作用という自然学的な論点であって,これは以前の節で見てきたような logical な論点とは性質を異にする (その証拠に Tht. の議論は ὅπερ ἐστίν な作用とか感覚とかいう修飾を全く必要としない).言い換えれば双子理論は感覚と感覚対象の関係が関係である限りで (qua relation) 存在的対称性が成り立つという話をしているわけではない.

  5. 原文に誤植.後ろの議論もナンバリングがややずれている.