Γ5 の矛盾主義・流動説批判 Lee (2005) Epistemology after Protagoras, Ch.6

  • Mi-Kyoung Lee (2005) Epistemology after Protagoras, Oxford University Press.
    • Chap.6. Aristotle on Protagoras and the Theaetetus. 118-132.

非常に見通しの良い議論.


6.1 序論

Tht.プラトンは人間尺度説とテアイテトスの知識定義を数々の形而上学的テーゼによって支持している.そこには (i) 恒常的流動説, (ii) 何ものもそれ自体でありはせず,知覚者に相対的であるというテーゼ,(iii) 全てが F かつ not-F であるというテーゼ,が含まれる. Γ5 はこれら全てに言及しており,Tht. と同じ議論を用いている.

Γ5 でアリストテレスは二種類の論敵を区別している.一方に議論のために議論している人びとがおり,この人々は Γ4 で扱われた.他方に間違っているがまともな動機のある推論から矛盾が真でありうると考える人びとがおり,この人々が Γ5 で扱われる.

その際三つの前提を取り出す: (P)「全ての現れは真である」,(H) 全てが常に変化する,(C) 全てが成り立ちかつ成り立たない (矛盾主義).アリストテレスは各々を別ものとして扱う.しかしアリストテレスによれば,これらは「全て知覚されるものだけが実在である」という一般的思考傾向の徴候である.この傾向は認識論的形式・形而上学的形式の両方を取る.この共通の思考様式から (C) (P) (H) が出るというのがこの章全体のテーマである.これに対してアリストテレスは,知覚可能でも変化の基体でもないものの存在,および知覚が信念や知識の必要条件でないことを言う.

アリストテレスの二つ目の主張は,(C) (P) (H)からは懐疑主義 (真なることは知りえない) が帰結する.通常アリストテレスは無批判な実在論者に見えることが多いが,ここでプロタゴラス説から懐疑論的含意を引き出す仕方はプラトンよりむしろ徹底している.その上で彼はこの帰結を根っこから断ち切る.

6.2 『形而上学』Γ5 の主題

Γ5 冒頭の「同一の考え」は矛盾主義を指すものに見えるかもしれない.確かに最初は (P) と (C) が同値だと論じられる (これは Tht. の自己論駁論証の拡張である).しかし,そうではない.(P) (C) の同値性を論じた後,両方が「同じ思考」から出ていると述べられる (1009a15-16).この「同じ思考」は以下で同定される:

アポリアーを経た人々には,感覚からこの判断が生じた.(1) すなわち一方で,矛盾対立言明や反対の事柄が同時に属するだろうという判断が,同じものから反対のことが生じるのを見た人々に生じたのだ (a22-25).…… 同様にして,現れに関する真理性も,幾人かの人々にとっては,感覚されるものどもから成り立つ.(a38-b2)

後にはこれが「感覚対象のみが〈あるもの〉どもである」(1001a1-3) という信念だと述べられる.これが ¬PNC を尤もらしく見せているのだというのが Γ5 の主題である.さて,これは「万物が感覚可能な自然によって構成される」という形而上学的主張だろうか,それとも「世界について知りうるのは専ら知覚によってだ」認識論的主張だろうか.両方である (C & N, 229-30).

アリストテレスの目的は診断であり,論駁ではない.論敵は自己矛盾の指摘が論駁になると考えていないからだ.(P) (C) (H) への決定的な (knock-down) 反論はなく,ただアリストテレスが誤りと見なすものを修正し,まずい帰結に対する代替案を提示するだけである.まずい帰結の最たるものは「真理探究は不毛」というものだ (1009b33-1010a1).

論敵は誰か.色々と (ホメロスまで) 挙げているが,特定の誰かが念頭にあるとは思われない (cf. Dancy).むしろ尺度説のような哲学的見解が念頭にある.Tht. の「秘密の教説」もパルメニデスを除く先行者ほぼ全員に帰されており,これは半分冗談だろうが,支持者を特定できない一般的な思考様式を捉えたものとも理解できる.Γ5 も同様である.

6.3 円環構造

6章では (C) (H) を検討し,7章で (P) を検討する.

Γ5 の実際の議論は円環構造をなしている:

  • まず (P) ⇔ (C) が示され,共通の源泉 (感覚的世界に関する見解) が認められる.次いで (C) を詳しく検討し,アナクサゴラスとデモクリトスの擁護論を見た上で,これを否定する.
  • 次いで (P) を検討し,(P) も感覚的世界に関する見解から来ていると論じる.次いでプレソクラティクスほぼ全員による (P) の擁護論を挙げる.
  • そして (C),および (C) を含意する限りの (P) が真理探究の不毛さを含意すると論じる (ここがクライマックス).
  • この結論は (H) において最も明白である.
  • そしてこの懐疑的結論をもたらす諸見解が批判される.まず (H),次いで (P),最後に (C) (P) (H) の共通源泉となる考えが批判される.
  • 最後に補遺として万物が相対的だというテーゼが扱われる.

6.4 矛盾主義への賛成と反対 (1009a22-38)

矛盾主義と流動説は分けて論じられる (1009a22-38 / 1010a7-b1).秘密の教説によれば (i) F であるものは全て not-F であり,(iii) 何ものもありはせず,むしろなる1.(C) は (i),(H) は (iii) に対応する.(C) と (H) は両立しない (1010a35-b1).ゆえに (P) と (H) も両立しない.アリストテレスプラトン同様,流動説を他より極端な説として別個に (1010a7-b1 で) 扱っている.

アリストテレスは,或る人々に,矛盾がありうるという考えが次のように生じたと論じる.

ἡ μὲν τοῦ ἅμα τὰς ἀντιφάσεις καὶ τἀναντία ὑπάρχειν ὁρῶσιν ἐκ ταὐτοῦ γιγνόμενα τἀναντία: εἰ οὖν μὴ ἐνδέχεται γίγνεσθαι τὸ μὴ ὄν, προϋπῆρχεν ὁμοίως τὸ πρᾶγμα ἄμφω ὄν, ὥσπερ καὶ Ἀναξαγόρας μεμῖχθαι πᾶν ἐν παντί φησι καὶ Δημόκριτος: καὶ γὰρ οὗτος τὸ κενὸν καὶ τὸ πλῆρες ὁμοίως καθ᾽ ὁτιοῦν ὑπάρχειν μέρος, καίτοι τὸ μὲν ὂν τούτων εἶναι τὸ δὲ μὴ ὄν. (1009a22-30)

アナクサゴラスとデモクリトスが引かれている.アナクサゴラスは全てが全てのうちに混ざっていると論じる (DK59B4b, B5).それらは不変であり自然界の全ての分節された実体のうちに混ざっている (B4).これは「あらぬものからは生成しない」というパルメニデス的原理に基づいた考えである.全ての「種子」が万物のうちにあり,全てが熱と冷,乾と湿……を含んでいると言えるなら,アナクサゴラス自身の結論ではないにしても,全てが熱くかつ冷たいのである (is) と結論する人もいるかもしれない.これは矛盾主義 (C) である.

一方デモクリトスが (C) を支える論拠はそれほど尤もらしくない: ここでは,全てが充実体と空虚とを含むので,やはり (C) が出る,と述べられている.

ここで言われているのは,アナクサゴラスとデモクリトスが (C) を擁護しているということではなく,むしろ彼らの権威を引いて万物が対立する属性によって特徴付けられると言うべきではないということだ.そうすることへの第一の批判は以下の通り.

πρὸς μὲν οὖν τοὺς ἐκ τούτων ὑπολαμβάνοντας ἐροῦμεν ὅτι τρόπον μέν τινα ὀρθῶς λέγουσι τρόπον δέ τινα ἀγνοοῦσιν: τὸ γὰρ ὂν λέγεται διχῶς, ὥστ᾽ ἔστιν ὃν τρόπον ἐνδέχεται γίγνεσθαί τι ἐκ τοῦ μὴ ὄντος, ἔστι δ᾽ ὃν οὔ, καὶ ἅμα τὸ αὐτὸ εἶναι καὶ ὂν καὶ μὴ ὄν, ἀλλ᾽ οὐ κατὰ ταὐτὸ [ὄν]: δυνάμει μὲν γὰρ ἐνδέχεται ἅμα ταὐτὸ εἶναι τὰ ἐναντία, ἐντελεχείᾳ δ᾽ οὔ. (1009a30-6)

この議論は Phys. I における変化と生成の理解可能性に関する議論に基づいている (可能態と現実態の区別).

第二の批判は,変化しない実体の存在を言うものである.

ἔτι δ᾽ ἀξιώσομεν αὐτοὺς ὑπολαμβάνειν καὶ ἄλλην τινὰ οὐσίαν εἶναι τῶν ὄντων ᾗ οὔτε κίνησις ὑπάρχει οὔτε φθορὰ οὔτε γένεσις τὸ παράπαν. (1009a36-8)

そうしたものは万物がありかつないという一般的原理の反例をなす.アリストテレス自身の説は Λ にある.アナクサゴラスの場合は純粋物体,デモクリトスの場合は充実体と空虚,が各々それである.

6.5 懐疑主義 (1009b33-1010a15)

次いで 1009a38-b31 で (P) が論じられる (本書7章).その後次のように述べる.

ᾗ καὶ χαλεπώτατον τὸ συμβαῖνόν ἐστιν: εἰ γὰρ οἱ μάλιστα τὸ ἐνδεχόμενον ἀληθὲς ἑωρακότες—οὗτοι δ᾽ εἰσὶν οἱ μάλιστα ζητοῦντες αὐτὸ καὶ φιλοῦντες—οὗτοι τοιαύτας ἔχουσι τὰς δόξας καὶ ταῦτα ἀποφαίνονται περὶ τῆς ἀληθείας, πῶς οὐκ ἄξιον ἀθυμῆσαι τοὺς φιλοσοφεῖν ἐγχειροῦντας; τὸ γὰρ τὰ πετόμενα διώκειν τὸ ζητεῖν ἂν εἴη τὴν ἀλήθειαν. (1009b33-1010a1)

すなわち最も困難な帰結として真理探究の不毛さを挙げる.(P) (C) (H) を含む多くの発想からこれが帰結する.まず (C):

αἴτιον δὲ τῆς δόξης τούτοις ὅτι περὶ τῶν ὄντων μὲν τὴν ἀλήθειαν ἐσκόπουν, τὰ δ᾽ ὄντα ὑπέλαβον εἶναι τὰ αἰσθητὰ μόνον: ἐν δὲ τούτοις πολλὴ ἡ τοῦ ἀορίστου φύσις ἐνυπάρχει καὶ ἡ τοῦ ὄντος οὕτως ὥσπερ εἴπομεν: διὸ εἰκότως μὲν λέγουσιν, οὐκ ἀληθῆ δὲ λέγουσιν. (1010a1-5)

問題は〈あるもの〉どもを感覚されるものどもと同一視する前提,および後者を不定的性格のものとみなす前提にある.後者の前提は (C) の帰結である.以下の一節もアリストテレスの考えの例証となる.

ἅμα δὲ φανερὸν ὅτι περὶ οὐθενός ἐστι πρὸς τοῦτον ἡ σκέψις: οὐθὲν γὰρ λέγει. οὔτε γὰρ οὕτως οὔτ᾽ οὐχ οὕτως λέγει, ἀλλ᾽ οὕτως τε καὶ οὐχ οὕτως: καὶ πάλιν γε ταῦτα ἀπόφησιν ἄμφω, ὅτι οὔθ᾽ οὕτως οὔτε οὐχ οὕτως: εἰ γὰρ μή, ἤδη ἄν τι εἴη ὡρισμένον. (Γ4, 1008a30-5)

(P) からも懐疑的帰結が出る.(C) ⇔ (P) だから驚きではないが,(P) は (C) と違い認識論的に正当化されている.失神した無意識の人間が依然考えているというホメロスの例から,アリストテレスは次のように述べる:

δῆλον οὖν ὅτι, εἰ ἀμφότεραι φρονήσεις [knowledge], καὶ τὰ ὄντα ἅμα οὕτω τε καὶ οὐχ οὕτως ἔχει. ᾗ καὶ χαλεπώτατον τὸ συμβαῖνόν ἐστιν. (1009b31-3)

さらにもう一つの経路は (H) からのものである.

ἔτι δὲ πᾶσαν ὁρῶντες ταύτην κινουμένην τὴν φύσιν, κατὰ δὲ τοῦ μεταβάλλοντος οὐθὲν ἀληθευόμενον, περί γε τὸ πάντῃ πάντως μεταβάλλον οὐκ ἐνδέχεσθαι ἀληθεύειν. ἐκ γὰρ ταύτης τῆς ὑπολήψεως ἐξήνθησεν ἡ ἀκροτάτη δόξα τῶν εἰρημένων, ἡ τῶν φασκόντων ἡρακλειτίζειν καὶ οἵαν Κρατύλος εἶχεν, ὃς τὸ τελευταῖον οὐθὲν ᾤετο δεῖν λέγειν ἀλλὰ τὸν δάκτυλον ἐκίνει μόνον, καὶ Ἡρακλείτῳ ἐπετίμα εἰπόντι ὅτι δὶς τῷ αὐτῷ ποταμῷ οὐκ ἔστιν ἐμβῆναι: αὐτὸς γὰρ ᾤετο οὐδ᾽ ἅπαξ. (1010a7-15)

(H) からは何についても真なることを言えないということが帰結する.これは Tht. でお馴染みの議論である.プラトンの眼目は流動説論駁だが,ここでは懐疑的帰結を顕わにすることが目的である.

このように,懐疑的帰結に至る最低三つの道筋がある.一つは尺度説からする「not-F である以上に F であるわけではない」という議論で,アカデメイア懐疑主義の鼻祖と言える.もう一つは (C) や (H) からする形而上学的議論である.こちらは教条的・積極的前提に依存しており,それゆえ不安定である.この種の「形而上学的」懐疑論ピュロン (apud Eusebius) に帰せられることがある.そうした前提はそれ自体懐疑論と衝突するが,アリストテレスはそうした問題を明示的に提起してはいない.それらの帰結は第三者が出しているに過ぎない.言い換えれば,(クラテュロスは例外かもしれないが) 懐疑論を受け入れた人がいるとはアリストテレスは論じていない.

アリストテレス懐疑主義自体の誤りに紙幅を費やしてはいない (おそらくは明らかだったから).代わりに懐疑主義に至る思考の流れに集中する.この方針は現代の反懐疑論的議論にも似ている (Straud, Williams).

6.6 流動説への反論

アリストテレスは (H) に4つの反論をしている.ねらいは,全てが変化するという前提から何についても真なることが言えないという結論を導く推論をブロックすることである.

第一の議論はクラテュロス批判である.

ἡμεῖς δὲ καὶ πρὸς τοῦτον τὸν λόγον ἐροῦμεν ὅτι τὸ μὲν μεταβάλλον ὅτε μεταβάλλει ἔχει τινὰ αὐτοῖς λόγον μὴ οἴεσθαι εἶναι, καίτοι ἔστι γε ἀμφισβητήσιμον: τό τε γὰρ ἀποβάλλον ἔχει τι τοῦ ἀποβαλλομένου, καὶ τοῦ γιγνομένου ἤδη ἀνάγκη τι εἶναι, ὅλως τε εἰ φθείρεται, ὑπάρξει τι ὄν, καὶ εἰ γίγνεται, ἐξ οὗ γίγνεται καὶ ὑφ᾽ οὗ γεννᾶται ἀναγκαῖον εἶναι, καὶ τοῦτο μὴ ἰέναι εἰς ἄπειρον. (1010a15-22)

これは 1009a30-36 の (C) 批判に似る: Phys. I の理論に基づいて基礎に置かれるものの存在を指摘する.

川が恒常的に変化する場合はどうか.これについては第二の議論で暗黙的に述べている.

ἀλλὰ ταῦτα παρέντες ἐκεῖνα λέγωμεν, ὅτι οὐ ταὐτό ἐστι τὸ μεταβάλλειν κατὰ τὸ ποσὸν καὶ κατὰ τὸ ποιόν: κατὰ μὲν οὖν τὸ ποσὸν ἔστω μὴ μένον, ἀλλὰ κατὰ τὸ εἶδος ἅπαντα γιγνώσκομεν. (1010a22-25)

変化は常に何らかの点での変化である.全てが全ての点で変化すると言うのは尤もらしくない.

第三の議論では,変化が実在するものの普遍的特徴であるという考えに異論を唱える:

ἔτι δ᾽ ἄξιον ἐπιτιμῆσαι τοῖς οὕτως ὑπολαμβάνουσιν, ὅτι καὶ αὐτῶν τῶν αἰσθητῶν ἐπὶ τῶν ἐλαττόνων τὸν ἀριθμὸν ἰδόντες οὕτως ἔχοντα περὶ ὅλου τοῦ οὐρανοῦ ὁμοίως ἀπεφήναντο: ὁ γὰρ περὶ ἡμᾶς τοῦ αἰσθητοῦ τόπος ἐν φθορᾷ καὶ γενέσει διατελεῖ μόνος ὤν, ἀλλ᾽ οὗτος οὐθὲν ὡς εἰπεῖν μόριον τοῦ παντός ἐστιν, ὥστε δικαιότερον ἂν δι᾽ ἐκεῖνα τούτων ἀπεψηφίσαντο ἢ διὰ ταῦτα ἐκείνων κατεψηφίσαντο. (1010a25-33)

すなわち,可視的世界はごく限られている.

第四の議論は以下の通り.

ἔτι δὲ δῆλον ὅτι καὶ πρὸς τούτους ταὐτὰ τοῖς πάλαι λεχθεῖσιν ἐροῦμεν: ὅτι γὰρ ἔστιν ἀκίνητός τις φύσις δεικτέον αὐτοῖς καὶ πειστέον [35] αὐτούς. καίτοι γε συμβαίνει τοῖς ἅμα φάσκουσιν εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἠρεμεῖν μᾶλλον φάναι πάντα ἢ κινεῖσθαι: οὐ γὰρ ἔστιν εἰς ὅ τι μεταβαλεῖ: ἅπαντα γὰρ ὑπάρχει πᾶσιν. (1010a35-b1)

論敵の見解からは全てが静止していることが帰結する.これは既に Γ4 で提示された議論である (1007b18-1008a2).つまり (C) は (H) を支持するどころか両立不可能である.(C) も独立に退けられている以上,もはや (H) を支持する理由はないのだ.


  1. Cf. p.86.