『イデアについて』における関係性 Duncombe (2020) Ancient Relativity, Ch.8

  • Matthew Duncombe (2020) Ancient Relativity, Oxford University Press.
    • Chap.8. Relativity and independence in Aristotle's On Ideas. 161-180.

序論

3章では「最大の困難」について関係性と離在の緊張関係がイデアにもたらす問題を見た.本章では関係性と独立性の緊張関係がイデアにもたらす問題を見る.

アレクサンドロスMet. A9 の注で De Ideis の議論を伝えている.議論は (1) プラトンの ἐκ τῶν πρός τι な議論の再構成と (2) その批判の二部に分かれている.以下では (2) について新解釈を提出する.

8.1 では (2) の伝統的な解釈を粗描し,8.2 でその問題点を二つ指摘する.8.3 で別の読みを提示し,8.4 でその読みで問題ないことを示す.8.5 ではそこから (1) を解釈する.

8.1 関係項論証

(T1) (RA1) ὀ μὲν καὶ τῶν πρός τι κατασκευάζων ἰδέας λόγος τοιοῦτός ἐστιν. ἐφ᾽ ὧν ταὐτόν τι πλειόνων κατηγορεῖται μὴ ὀμωνύμως, ἀλλ᾽ ὡς μίαν τινὰ δηλοῦν φύσιν, ἤτοι τῷ κυρίως τὸ ὑπὸ τοῦ κατηγορουμένου σημαινόμενον εἶναι ταῦτα ἀληθεύεται κατ᾽ αὐτῶν, ὡς ὅταν ἄνθρωπον λέγωμεν Σωκράτην καὶ Πλάτωνα, ἢ τῷ εἰκόνας αὐτὰ εἶναι τῶν ἀληθινῶν, ὡς ἐπὶ τῶν γεγραμμένων ὅταν τὸν ἄνθρωπον κατηγορῶμεν (δηλοῦμεν γὰρ ἐπ᾽ ἐκείνων τὰς τῶν ἀνθρώπων εἰκόνας τὴν αὐτήν τινα φύσιν ἐπὶ πάντων σημαίνοντες), ἢ ὡς τὸ μὲν αὐτῶν ὂν τὸ παράδειγμα, τὰ δὲ εἰκόνας, ὡς εἰ ἀνθρώπους Σωκράτη τε καὶ τὰς εἰκόνας αὐτοῦ λέγοιμεν.

(RA2) κατηγοροῦμεν δὲ τῶν ἐνταῦθα τὸ ἴσον αὐτὸ ὁμωνύμως αὐτῶν κατηγορούμενον· οὔτε γὰρ ὁ αὐτὸς πᾶσιν αὐτοῖς ἐφαρμόζει λόγος, οὔτε τὰ ἀληθῶς ἴσα σημαίνομεν· κινεῖται γὰρ τὸ ποσὸν ἐν τοῖς αἰσθητοῖς καὶ μεταβάλλει συνεχῶς καὶ οὐκ ἔστιν ἀφωρισμένον. ἀλλ᾽ οὐδὲ ἀκριβῶς τὸν τοῦ ἴσου λόγον ἀναδεχόμενον τῶν ἐνταῦθά ἐστί τι.

(RA3) ἀλλὰ μὴν ἀλλ᾽ οὐδὲ ὡς τὸ μὲν παράδειγμα αὐτῶν τὸ δὲ εἰκόνα· οὐδὲν γὰρ μᾶλλον θάτερον θατέρου παράδειγμα ἢ εἰκών.

(RA4) εἰ δὲ καὶ δέξαιτό τις μὴ ὁμώνυμον εἶναι τὴν εἰκόνα τῷ παραδείγματι, ἀεὶ ἕπεται ταῦτα τὰ ἴσα ὡς εἰκόνας εἶναι ἴσα τοῦ κυρίως καὶ ἀληθῶς ἴσου.

(RA5) εἰ δὲ τοῦτο, ἔστι τι αὐτόισον καὶ κυρίως, πρὸς ὃ τὰ ἐνθάδε ὡς εἰκόνες γίνεταί τε καὶ λέγεται ἴσα, τοῦτο δέ ἐστιν ἰδέα ... (Alex. In Met. 82.11-83.16)

関係項論証において,プラトニストは,多数者に同名異義的に述定される各々の語にイデアが対応すると論じている.(関係項に対応するイデアだけを主題と見なす解釈者もいるが,根拠がない.)

  • 'F' が a, b, c に非同名異義的に述定される iff.
    • 'Fa' 'Fa' 'Fc' が真であり,かつ
    • 'F' は各々において同じ説明規定をもつ.

RA1 は述語が意味を変えずに用いられうる網羅的な三つのやり方を提示している:

  1. 「本来的」述定:「人間」がソクラテスプラトンに述定される.
  2. 「非本来的」述定:「人間」がソクラテスの似姿とプラトンの似姿に述定される.
  3. 「混合的」述定: 「人間」がプラトンプラトンの似姿に述定される.

RA2-4 は各々について「等しい」が感覚的多数者に非同名異義的に使えないと論じる: (1) 恒常的に変化するので棒 a, b, c が同じ長さをもつことはない.(2) 棒は似姿ではない.(3) ある棒がいっそう範型であるということはない.それゆえ,(i) 等しさは単に同名異義的であるか,(ii) 等しさのイデアが存在する.

これに対してアリストテレスは次のような批判を提示している:

(T2) ἔτι δὲ οἱ ἀκριβέστεροι τῶν λόγων οἱ μὲν τῶν πρός τι ποιοῦσιν ἰδέας, ὧν οὔ φαμεν εἶναι καθ᾽ αὑτὸ γένος, οἱ δὲ τὸν τρίτον ἄνθρωπον λέγουσιν. (990b15-17)

この批判は「イデア (ないし関係項のイデア) という独立の類はない」という合意に訴えている.この論点のアレクサンドロスの解釈によれば:

(T3) τοῦτον δὴ τὸν λόγον φησὶ καὶ τῶν πρός τι ἰδέας κατασκευάζειν. ἡ γοῦν δεῖξις ἡ νῦν ἐπὶ τοῦ ἴσου προῆλθεν, ὅ ἐστι τῶν πρός τι· τῶν δὲ πρός τι οὐκ ἔλεγον ἰδέας εἶναι διὰ τὸ τὰς μὲν ἰδέας καθ᾽ αὑτας ὑπεστάναι αὐτοῖς οὐσίας τινὰς οὔσας, τὰ δὲ πρός τι ἐν τῇ πρὸς ἄλληλα σχέσει τὸ εἶναι ἔχειν. (83.221-6)

すなわち,「イデアは οὐσία なので独立しているが,いかなる関係項も独立していない.ゆえに関係項のイデアはない」という議論である.ここに含まれる "τὰ δὲ πρός τι ἐν τῇ πρὸς ἄλληλα σχέσει τὸ εἶναι ἔχειν" という前提は解釈者を悩ませてきたが,これは構成的関係性にほかならない.

8.2 藁人形のプラトニストと語彙の問題

だが,この伝統的解釈には二つ問題がある.(1) プラトンは相互依存的なイデアを認めている.(2) καθ᾽ αὑτὸ γένος にイデアを意味する用法はない.

8.2.1 純粋性としての独立性

「独立」καθ᾽ αὑτό は第一義的には純粋性を意味する.例えば指であるものが同時であることはない.ゆえに独立的.だが大きいものは小さいものでもありうる.ゆえに独立的でない.この解釈だと,「イデアは独立している」という前提は,「イデアは反対者を除外する」という意味になる.だがこの場合,「いかなる関係項も独立していない」が偽になる.

8.2.2 存在的独立性

「独立」καθ᾽ αὑτό は第二に存在的独立性 (existential independence) を意味する.この解釈だと,「イデアは独立している」という前提は,「あらゆるイデアについて,そのイデアだけが存在し他のものが存在しないことは可能である」という意味になる[^1].だが,これは例えば Phd. 103-4 に矛盾する.

8.2.3 定義的独立性

「独立」καθ᾽ αὑτό は第三に存在的独立性 (existential independence) を意味する.この解釈だと,「イデアは独立している」という前提は,「あらゆるイデアについて,そのイデアを他のものに言及せずに定義することは可能である」という意味になる.だが3章で論じた Parm. 133 が反例になる (奴隷-主人).

というわけで,伝統的な解釈では論駁対象のプラトニストが藁人形になってしまう.このプラトニストはプラトンではありえない.むろんスペウシッポスでもない (Met. 987b19ff.).クセノクラテスもおそらくイデアの独立性は主張していない (cf. Met. 1086a6-11).

加えて,突然イデアを指して καθ᾽ αὑτὸ γένος と呼ぶのは奇妙である.この語句は著作集では他に M4 でしか出現しない.アレクサンドロスもこの奇妙さに気づいており (83.30-33),παραφυάς であることの示唆だと捉えている (cf. EN 1096a21).

8.3 論駁の別の読み方

別の読みを提示する.先ほどの引用文には統語的多義性がある:

(T2) ἔτι δὲ οἱ ἀκριβέστεροι τῶν λόγων οἱ μὲν τῶν πρός τι ποιοῦσιν ἰδέας, ὧν οὔ φαμεν εἶναι καθ᾽ αὑτὸ γένος, οἱ δὲ τὸν τρίτον ἄνθρωπον λέγουσιν. (990b15-17)

この ὧν は (i) τῶν πρός τι にも (ii) ἰδέας にもかかりうる.伝統的な読みは (i) を採る.だが,(ii) を採って「関係項のイデアの独立の類はないと私たちは述べる」と読むこともできる.(ii) は独立の主人があることを排除せず,独立の主人のイデアがあることを排除するだけである.

私の読みでは,アリストテレスは,関係項論証が関係項のイデアを生み出すことをそれだけで心配しているわけではない.むしろ,関係項論証が対応する相関項のイデアを生み出すことなしに関係項のイデアを生み出すことを心配しているのだ.(例: 主人のイデアを生み出しつつ奴隷のイデアを生み出さない.) 相関項のイデアなしに関係項のイデアはないという論点は Top. 147a6-11 に出ている.

この解釈だとアレクサンドロス (T3) は誤解していることになる.この誤解を説明すると,まず T3 は語彙からしアリストテレスの引用ではない.誤解の背景には,第一にプラトンイデアアリストテレスの実体であるという考え,第二にアリストテレスは関係を実体とみなしていないという考えがある.こうしたペリパトス派の考えを念頭に置けば,アレクサンドロスの解釈は自然ではある.

8.4 目標に戻る

私の解釈では,καθ᾽ αὑτὸ γένος の καθ᾽ αὑτὸ は相関項なしにありうることを意味し (cf. Cat. 5b16ff.; SE 181b25ff.),γένος はクラス・グループという日常的な意味で用いられている.こう理解すれば,哲学的問題と語彙上の問題をともに回避できる.

8.5 関係項論証の論駁

関係項論証を「主人」の例で再構成すると以下のようになる.

  • (RA1') 非同名異義的述定には三種類ある.
  • (RA2') 感覚的対象への「主人」の述定は,そのどれでもない.
  • (RA3') それゆえ,(i)「主人」が同名異義的か,あるいは (ii) 感覚的でない主人がある.だが,(i) ではない.
  • (RA4') ゆえに (ii).
  • (RA5') それは主人のイデアである.

アリストテレスの論点は,この論証は奴隷のイデアを生成せずに主人のイデアを生成している,というものだ,奴隷のイデアを同様の仕方で生成できるとしても,奴隷のイデアと主人のイデアがもつはずの特別な関係がそこには見られない.


  1. 本文の指示は一行ずれている.