学知における ἀνυπόθετος な原理の地位 Cavini (2008) "Principia contradictionis (§4)"

  • Walter Cavini (2008) "Principia contradictionis. Sui principi aristotelici della contraddizione (§4)" Antiquorum Philosophia 2, 159-187.

Cavini (2007) からの続きもので,そちらは読みさしにしている.主題が Γ に直接関わるのはこちらの方.

'ἀνυπόθετος' の内実を分析論の側から丁寧に跡づけている.一部はほぼ決定的な議論という印象を受ける.


4. ἀρχή ἀνυπόθετος

4.1

B, Γ は矛盾律について3つのテーゼを提示している.(1) そうした原理は論証の原理である.(2) ゆえに,ある限りのあるものの原理である.(3) また中でも無矛盾律はそうした原理の中で最も強固 (certo) である1.ここでは,どういう意味で矛盾律が論証の原理なのかを始点として,特に (1) と (3) を検討する.

B において論証の原理とは「そこから」全論証があるものである.これは明白に命題的である ('τὰς κοινὰς δόξας' (996b28), 'προτάσεις' (b31)).文字通りに取ると (任意の種類の) 論証の前提 (になりうるもの) である (Mignucci 2003b).実際,LEM を λαμβάνειν しないといけないというアリストテレスの断言も (APo. I.11, 77a22-23),この理解を補強するように見える.

一方 Ross はこれに反対して,無矛盾律は結論が「S は P かつ S は非 P でない」のときしか λαμβάνειν されない (I.11, 77a10-11) と述べられていることを指摘する.公理はむしろ "according to which" に推論するものであり,構成的原理ではなく統制的原理,つまり推論規則である.APo. において究極の諸前提とは公理ではなく特殊な諸原理 (θέσεις) であり,これは ὁρισμοί と共に ὑποθέσεις の一種をなす.さらに I.32, 88a36-b3 では,公理が全ての事柄の前提とはならないと明言される.結論は公理を通じ (διά) 固有命題を前提して (μετά) 示されるのだ.

だが,論証的原理を前提としても,推論規則としても,いろいろな難しさがある.Mignucci は Ross のこの区別をアリストテレスは明示していないと指摘し,τὰ ἐξ ὧν を前提として理解する.だが I.11 の〔無矛盾律に関する〕異論に鑑みれば奇妙である.Mignucci 2003b はこれに対して,I.11 の一節は演繹形式の直接的論証における話で,それとは別により広い用法がありうる,と応じる.〔だが〕論証に用いられない論証的原理は奇妙である.Met. B2, Γ3, APo. I.2 で固有の原理と同様に「推論的諸原理」と呼ばれていることに鑑みればなおさらである.また間接的に用いられている例は LEM にしかない.

これに対して Ross 解釈は,一方で原理の命題的本性と衝突し,他方で帰謬法における LEM の前提命題の機能が明示されていることと衝突する.要は具体的にどういう推論規則なのか明らかでない.––いずれにせよ,解決策はアリストテレスの推論・論証理論 (i.e. Anal.) 内部で探究されねばならない.より単純で手持ちの情報がある LEM と帰謬法の関係から始める.

帰謬法に関して最も興味深いのは APo. I.11 である.アリストテレスは冒頭で帰謬法を導入し転換推論 (conversio syllogismi) と区別する (61a27-31).すなわち AaB を結論とする二つの推論があり,第一は直接に (δεικτικῶς),第二は間接的・帰謬的に導く: (1)「AaC, CaB \vdash AaB」,(2) 「AaC, AoB \vdash CoB,だが CoB は前提 CaB に矛盾するので帰謬法より \lnot AoB.それゆえ矛盾する AaB が真」.そしてここで \lnot AoB から AaB を出すのに LEM が用いられる (II.11, 62a11-17).すなわち LEM の実例となる排他的選言 AaB \veebar AoB があり,これに選言推論 (Modus Tollendo Ponens) の推論規則 (\alpha\veebar\beta), \lnot\beta \vdash\alpha を適用すると (クリュシッポスの第五証明不能命題2),AaB が出る.したがってアリストテレスにあって LEM は推論の前提であり,しかし同時に推論規則の構成要素である.――次いで PNC について同様のことが言えるかを検討する.

4.2

近年 Wedin は Γ3, 1005b32-34 の「究極性テーゼ」の問題について論理的観点から解決策を提案している.問題は,第一にどういう意味で論証する人がみな PNC へと還元するのか (ἀνάγουσιν, si rifanno),第二になぜ PNC が他の論証的原理の原理なのかである.第一の点について,Wedin によれば,PNC は前提でも推論規則でもなく,全ての演繹的推論の妥当性がそれに依存するものである.

妥当な推論とは,対応する条件文が論理的真理であるものだ.例えば p\rightarrow q, p\vdash q が妥当なのは,(p\rightarrow q)\land p\rightarrow q が論理的真理だからだ.ところで後者は \lnot(((p\rightarrow q)\land p)\land\lnot q) と同値である.そして,この同値性,したがって条件文の論理的妥当性は,PNC に基づく.この意味で最初の図式の妥当性は PNC に依存するのだ.

Wedin の答えは (唯一) 論理的観点からテーゼに取り組んでいるという取り柄があるが,しかしアリストテレス論理学と全く異質である3.彼はアリストテレスの文章どころかおよそ古代のテクストに言及していない.Wedin が用いているのは分析論の推論ではなくモーダスポネンス (MPP) ないしクリュシッポスの第一証明不能命題である.そして演繹図式の妥当性は対応する条件文の真理性に依存するという条件文化原理 (il principio di condizionalizzazione) もアリストテレス的ではなく (セクストスによれば) ストア的である.これらはアリストテレスの理論に適用可能でない.

この点から見て最重要の事例は συνάρτησις に関するクリュシッポスの論理法則である: 条件文が ὑγιές (i.e., 真) である iff. 前件と後件の否定との連言が偽4.これのアリストテレス的対応物は転換推論に見られる (APr. II.8, 59b1-5): AaB, BaC \vdash AaC から,大前提ないしは小前提の一方を結論の矛盾命題に転換する: AoC, BaC\vdash AoB または AaB, AoC\vdash BoC.どちらの場合にも前提の一方は消去されねばならない.クリュシッポスの法則では前件と後件の否定との連言が必然的に偽であるように,アリストテレスの連言的推論では,両方の前提と結論の矛盾対立は必然的に矛盾する.だがここでアリストテレスは連言的推論の妥当性を帰謬法により示しているだけであって,PNC の妥当性に依存しているとは述べていない.そして先述の通り,アリストテレスによれば,帰謬法は PNC ではなく LEM を前提する.

というわけで,クリュシッポスの法則に訴える Wedin の解釈は「分析論の無教養」の一例であり,よくない論理学史叙述である.

ではどう解釈すべきか.また APo. I.11 とどう辻褄を合わせるべきか.思うに Γ3 のテーゼの意味はより単純かつ深い.そして論証概念に直接関わる.

アリストテレスの論証は真なる原始的前提 (ないし原始的前提に γνῶσις が基づくような前提) から真なる結論を導く推論であり (Top. I.1),問答法的推論とは区別される.ギリシアの注釈者たちは二種類の推論が ὕλη すなわち様相の点で異なると解してきた.だが加えて,矛盾言明対の扱い方も異なる (APo. I.2, 78a8-11): 問答する人は ὁμοίως に選び,論証する人は ὡρισμένως に選ぶ.後者の場合は \lnot(\alpha\land\lnot\alpha),\alpha\vdash\lnot\lnot\alpha という推論が基底にある.

では Barbara 推論 AaB, BaC \vdash AaC を考えたとき,これを論証する人はいかなる意味で PNC に立ち戻るのか.PNC が妥当でないとすると,「真であるがゆえに」矛盾の一方を「無差別に」選ぶことができる (例えば AaBAoB)5AoB を選んだ場合,BaC を前提しても推論上不毛である.そこで反対の CaB を (ad hoc に) 前提しなければならない.するとAoB, CaB\vdash AoC.よって PNC を拒否するとどんな言明も真だと論証できてしまい,探究は無意味になる.

PNC を前提することでのみ,矛盾対立言明の一方の前提が他方の否定を含意することができ,論証が瑣末になることを防ぎうる.LEM が偽なる結論に適用され論証を締めくくるように,PNC は真なる前提に適用され論証への道を開くのである.LEM と異なり PNC は必要な前提命題ではないが (APo. I.11),推論規則の前提であり構成要素である.

4.3

むろん Łukasiewicz は,PNC が「究極」(ultima) であるだけでなく「最高」(somma) だというアリストテレスのテーゼを晦渋と見なしている.PNC が他の諸公理の必要ないし十分な基礎だと考えていたかは不明だが,いずれにせよアリストテレスにとってさえ他の推論的諸原理は PNC と独立である (cf. APo. I.11).

これに対して Wedin は,PNC は最も強固だから全原理がそこに立ち戻るのだ,と論じ,PNC は妥当性を確立する (stabilisce) のではなく強固さを露わにする (manifesta) のだと論じる.他の論証的原理について過つことがありうるなら,PNC についても誤りうるだろう.しかし実際には PNC の確かさが他の諸原理に継承されるのだ.

Łukasiewicz の異論は前提の真理性と推論の妥当性を混同しているがゆえに無効である.論証の原理は推論の妥当性には関わらないという意味で「推論的原理」ではなく,PNC はそうしたものと関係ない.一方 Wedin の提案は適切ではあるが,強固さをどう「継承する」のかわからない.

PNC の究極的な意味は矛盾が共に真である可能性の排除にある.PNC は最も強固であり,公理を含む任意の真なる命題に当てはまる.例えば LEM が真なら LEM の否定は必然的に偽である.ゆえに,LEM の強固さ,すなわち LEM の矛盾が必然的に偽であること,は PNC の強固さを前提する.これはどのテーゼにも妥当し,PNC が論証において果たす役割に対応する.

では,PNC が最も強固なのは何に基づくのか.それは PNC が享受する「確定 (διορισμός)」ゆえである:

T50 (a) προσήκει δὲ τὸν μάλιστα γνωρίζοντα περὶ ἕκαστον γένος ἔχειν λέγειν τὰς βεβαιοτάτας ἀρχὰς τοῦ πράγματος, (b) ὥστε καὶ τὸν περὶ τῶν ὄντων ᾗ ὄντα τὰς πάντων βεβαιοτάτας. (c) ἔστι δ᾽ οὗτος ὁ φιλόσοφος. (d) βεβαιοτάτη δ᾽ ἀρχὴ πασῶν περὶ ἣν διαψευσθῆναι ἀδύνατον: (e) γνωριμωτάτην τε γὰρ ἀναγκαῖον εἶναι τὴν τοιαύτην (περὶ γὰρ ἃ μὴ γνωρίζουσιν ἀπατῶνται πάντες) καὶ ἀνυπόθετον. (f) ἣν γὰρ ἀναγκαῖον ἔχειν τὸν ὁτιοῦν ξυνιέντα τῶν ὄντων, τοῦτο οὐχ ὑπόθεσις: (g) ὃ δὲ γνωρίζειν ἀναγκαῖον τῷ ὁτιοῦν γνωρίζοντι, καὶ ἥκειν ἔχοντα ἀναγκαῖον. (h) ὅτι μὲν οὖν βεβαιοτάτη ἡ τοιαύτη πασῶν ἀρχή, δῆλον: (Γ3, 1005b8-18)

まず (a) 〈あるもの〉の諸類で最も強固な原理に関する一般的テーゼから始めて,(b) これを〈あるもの〉の学知に適用する.(c) それは哲学者の学知である.条項 (d) は「それについて欺かれ得ない」という,全てのうち最も強固な原理の定義を導入する.条項 (e) はそうした原理の属性を確立する.すなわち最もよく知られること,および ἀνυπόθετος であること.このうち ἀνυπόθετος の内実は (f), (g) が闡明する.条項 (h) はそうした原理が最も強固だと繰り返して一節を閉じる.

特に (e) は最もよく知られるのみならず ἀνυπόθετος であることを欺かれ得ない理由とする.ἀνυπόθετος は最もよく知られることに何を付け加えるのだろうか.そしてどういう意味で原理の強固さと不可謬性に寄与するのだろうか.

この語は corpus 中の ἅπαξ であり,アリストテレス以前には Pl. R. VI に二箇所見られるのみである (ἀρχή の形容 (510b7) および実詞 (511b5) として).おそらくはプラトンの造語であり Γ3 はその引用であろう.プラトンにおいて ἀνυπόθετος な原理とは ὑπόθεσις でないものであり,この否定から説明される:

T51 σκόπει δὴ αὖ καὶ τὴν τοῦ νοητοῦ τομὴν ᾗ τμητέον.

πῇ;

ἧι τὸ μὲν αὐτοῦ τοῖς τότε μιμηθεῖσιν ὡς εἰκόσιν χρωμένη ψυχὴ ζητεῖν ἀναγκάζεται ἐξ ὑποθέσεων, οὐκ ἐπ᾽ ἀρχὴν πορευομένη ἀλλ᾽ ἐπὶ τελευτήν, τὸ δ᾽ αὖ ἕτερον—τὸ ἐπ᾽ ἀρχὴν ἀνυπόθετον—ἐξ ὑποθέσεως ἰοῦσα καὶ ἄνευ τῶν περὶ ἐκεῖνο εἰκόνων, αὐτοῖς εἴδεσι δι᾽ αὐτῶν τὴν μέθοδον ποιουμένη.

ταῦτ᾽, ἔφη, ἃ λέγεις, οὐχ ἱκανῶς ἔμαθον, ἀλλ᾽ αὖθις. (R. VI 510b1-9)

ὑπόθεσις を ipotesi と訳すと誤解の恐れがある: 所謂「仮定・推測」のことではない.4-5C のギリシア語では,一方では談話の基底にある主題,他方では知識の原理ないし基盤を指す.プラトンのここでの用法はレトリックとも仮定・推測とも無関係である.だから ἀνυπόθετος も推測的でないということではなく,ὑπόθεσις と異なり ὑπόθεσις より優位にあるという意味なのである.

語 ὑπόθεσις の意味は直後で明らかにされる:

T52 ἦν δ᾽ ἐγώ: ῥᾷον γὰρ τούτων προειρημένων μαθήσῃ. οἶμαι γάρ σε εἰδέναι ὅτι οἱ περὶ τὰς γεωμετρίας τε καὶ λογισμοὺς καὶ τὰ τοιαῦτα πραγματευόμενοι, ὑποθέμενοι τό τε περιττὸν καὶ τὸ ἄρτιον καὶ τὰ σχήματα καὶ γωνιῶν τριττὰ εἴδη καὶ ἄλλα τούτων ἀδελφὰ καθ᾽ ἑκάστην μέθοδον, ταῦτα μὲν ὡς εἰδότες, ποιησάμενοι ὑποθέσεις αὐτά, οὐδένα λόγον οὔτε αὑτοῖς οὔτε ἄλλοις ἔτι ἀξιοῦσι περὶ αὐτῶν διδόναι ὡς παντὶ φανερῶν, ἐκ τούτων δ᾽ ἀρχόμενοι τὰ λοιπὰ ἤδη διεξιόντες τελευτῶσιν ὁμολογουμένως ἐπὶ τοῦτο οὗ ἂν ἐπὶ σκέψιν ὁρμήσωσι.

πάνυ μὲν οὖν, ἔφη, τοῦτό γε οἶδα. (510c1-d4)

ここの解釈には論争があるが,以下のことは明らかである: 数学的諸原理は ὑποθέσεις である.それらから数学者は定理を導出するのであり,それゆえ正当化されていないが,自明だと考えられている.したがって明らかに ὑπόθεσις はここで知識 (特に数学) の基盤となるものという意味を有している.

その上で ἀνυπόθετος な原理は次のように再導入される:

T53 τὸ τοίνυν ἕτερον μάνθανε τμῆμα τοῦ νοητοῦ λέγοντά με τοῦτο οὗ αὐτὸς ὁ λόγος ἅπτεται τῇ τοῦ διαλέγεσθαι δυνάμει, τὰς ὑποθέσεις ποιούμενος οὐκ ἀρχὰς ἀλλὰ τῷ ὄντι ὑποθέσεις, οἷον ἐπιβάσεις τε καὶ ὁρμάς, ἵνα μέχρι τοῦ ἀνυποθέτου ἐπὶ τὴν τοῦ παντὸς ἀρχὴν ἰών, ἁψάμενος αὐτῆς, πάλιν αὖ ἐχόμενος τῶν ἐκείνης ἐχομένων, οὕτως ἐπὶ τελευτὴν καταβαίνῃ, αἰσθητῷ παντάπασιν οὐδενὶ προσχρώμενος, ἀλλ᾽ εἴδεσιν αὐτοῖς δι᾽ αὐτῶν εἰς αὐτά, καὶ τελευτᾷ εἰς εἴδη.

μανθάνω, ἔφη, ἱκανῶς μὲν οὔ — δοκεῖς γάρ μοι συχνὸν ἔργον λέγειν — ὅτι μέντοι βούλει διορίζειν σαφέστερον εἶναι τὸ ὑπὸ τῆς τοῦ διαλέγεσθαι ἐπιστήμης τοῦ ὄντος τε καὶ νοητοῦ θεωρούμενον ἢ τὸ ὑπὸ τῶν τεχνῶν καλουμένων, αἷς αἱ ὑποθέσεις ἀρχαὶ καὶ διανοίᾳ μὲν ἀναγκάζονται ἀλλὰ μὴ αἰσθήσεσιν αὐτὰ θεᾶσθαι οἱ θεώμενοι, διὰ δὲ τὸ μὴ ἐπ᾽ ἀρχὴν ἀνελθόντες σκοπεῖν ἀλλ᾽ ἐξ ὑποθέσεων, νοῦν οὐκ ἴσχειν περὶ αὐτὰ δοκοῦσί σοι, καίτοι νοητῶν ὄντων μετὰ ἀρχῆς. διάνοιαν δὲ καλεῖν μοι δοκεῖς τὴν τῶν γεωμετρικῶν τε καὶ τὴν τῶν τοιούτων ἕξιν ἀλλ᾽ οὐ νοῦν, ὡς μεταξύ τι δόξης τε καὶ νοῦ τὴν διάνοιαν οὖσαν.

ἱκανώτατα, ἦν δ᾽ ἐγώ, ἀπεδέξω. (511b2-d6)

プラトンによれば,ὑπόθεσις すなわち数学の基礎的テーゼは,より高次の原理への踏み台であり出発点である.上昇する問答法の務めは ὑπόθεσις から ἀνυπόθετος な原理へと遡行することであり,後者はもはやプラトンが理解する文字通りの意味での ὑπόθεσις とは呼べない.こうした上昇において問答法は,当時の数学者に欠けていた数学的対象の「知性的把握」(omprensione noetica) を得る.反対に,下降する問答法は,ἀνυπόθετος な原理から,可知的形相のみを用いて (図示などに頼らずに) 全ての帰結を導く.

R. VI の ἀνυπόθετος な原理とは,したがって,踏み台・出発点ではない万物の究極的原理であった.アリストテレスも Γ3 で ὑπόθεσις ならざる原理を ἀνυπόθετος と呼んでいるが,そこで ὑπόθεσις とはプラトン的な意味ではなく,むしろ個別科学の原理である.最も強固な原理が ἀνυπόθετος なのは,個別科学の原理ではなく任意の〈あるもの〉の把握に必要な原理だからだ.最も強固な原理について過ちえないのは可知性と ἀνυπόθετος なことによる,すなわち,あらゆる知識を可能にする必要条件であることによるのだ.

アリストテレス的 ὑπόθεσις が個別科学の原理を意味することは APo. I.2, 72a14-24 からも明らかである.ὑπόθεσις は (a) 論証不可能であり (b) 学ぶ人が既に持っていることは必要ではない.特に (b) は ὑπόθεσις と公理とを分かつ: 公理はあらゆる知識のアプリオリな条件である.他方 θέσις は学ぶもの,つまり個別科学の論証不可能な原理である.例えば算術を学ぶ際に算術の原理を知っている必要はないが,諸公理は既に知っている必要がある.

なお ὑπόθεσις はさらに (c) 肯定ないし否定言明である (i.e., 矛盾言明対の一方である).この統語論的性質において定義と異なる.この性質の解釈は割れている.ὑπόθεσις は存在命題だけだとするのが多数派である.だが ὑπόθεσις は矛盾言明対の一方であり,二項 (de secundo adiacente) の言明に限られない.また肯定・否定言明のモデルは述定的形式 (de tertio adiacente) である (72a13-14; Int. 5, 10).最後に,存在命題から定理がどう導出されるのか不明である.というわけで,述定的言明を排除するいわれはない6

定義についての問題は以下の通りである.一方で, ὑπόθεσις と違って肯定/否定言明ではない.つまり命題ではなく定義句として振る舞う.しかし他方で推論の無中項の原理であり,そうした原理は命題である.ゆえに,定義句ではなく,肯定/否定言明とは別種の命題,すなわち同一性言明として振る舞うのかもしれない (Colli 1955, contra Mignucci 1975).

定義については問題は残る.しかし ὑπόθεσις に関しては,その内実および公理との対比は明らかである.Γ3 (T50) の "ἣν γὰρ ἀναγκαῖον ἔχειν τὸν ὁτιοῦν ξυνιέντα τῶν ὄντων, τοῦτο οὐχ ὑπόθεσις" は APo. I.27 のこの区別の繰り返しに他ならない.語彙も一致する: ὁτιοῦν, ξυνιέντα と τῷ γνωρίζοντι, τὸν μαθησόμενον と ἥκειν.

要するに,最も強固な原理が ἀνυπόθετος なのは,個別科学の原理 = ὑπόθεσις ではなく全科学に共通な原理 = 公理であり,あらゆる学習の必要条件だからだ.

APo. I.2 と Γ3 の ὑπόθεσις を結びつけるこの解釈は,アレクサンドロスに遡る伝統的解釈と相違する (In Meta. 269.1-10).アレクサンドロスによれば,ὑπόθεσις は「論証可能であるが論証なしに受け入れられる」ものであり,最も強固な原理が ὑπόθεσις でないのは「それ自体で知られうる」からである.これは明らかに,ὑπόθεσις を論証不能な原理とする APo. I.2 と相違する.

しかしアレクサンドロス解釈は APo. I.10 に支持材料がある (76b23-34).そこでは必然的にあり・思われる事柄が ὑπόθεσις および要請と区別され,その上で,学習者が信じていれば ὑπόθεσις, 信じていなければ要請とされる.――〔だが〕こうした ὑπόθεσις および要請は ἁπλῶς でなく学習者に相対的である (ただしこうした二分は ὑπόθεσις にのみ可能である).この区別を元にすれば,I.2 と I.10 の見かけ上の矛盾は消え失せる.I.2 では端的な基礎措定,I.10 では人に相対的な基礎措定が語られているのだ.そして Γ3 で論じられている ὑπόθεσις は前者である.

Γ3 に戻ると,このようにして公理は哲学の学知に含まれるのである8.しかしどうして ἀνυπόθετος というプラトン的語彙を用いたのか.おそらくは単に公理であるだけでなく,最も可知的な公理であるからだ.すなわち,プラトンの ἀνυπόθετος な原理と同様,踏み台や出発点ではない「万物の原理」であり,暗黙的な至上の価値を持つのである.

4.4

アリストテレスは最も強固な原理を PNC だと同定する.それについては誰も欺かれ得ないからだ.論証は Γ3, 1005b23-32 にある.まず「p かつ 非p だと信じることはできない」というテーゼが論証すべきものとして提示される.論証は二つの前提に基づく:

  • (1) P と Q が反対の述語 (C) なら,Px かつ Qx ではありえない.
  • (2) p という信念 (Bp) と非 p という信念 (B¬p) は反対である.

ここからモーダスポネンスによって次が導かれる:

  • (3) x が p と信じ (Bxp) かつ x が p と信じない (Bx¬p) ことは不可能である.

暗黙的に以下が前提される:

  • (4) x が p かつ非 p と信じているなら,x は p と信じており,同時に x は非 p と信じている.

ここからモーダストレンスによって次が出る:

  • (5) x が p かつ非 p と信じていることはありえない.

形式化すると次の通り:

  1. C(P,Q)\rightarrow\lnot\Diamond(Px\land Qx)
  2. C(Bp, B\lnot p)
  3. \lnot\Diamond(Bxp\land Bx\lnot p)
  4. Bx(p\land\lnot p)\rightarrow Bxp\land Bx\lnot p
  5. \lnot\Diamond Bx(p\land\lnot p)

推論には論理的欠陥がない.前提 (1) は反対性の論理的性質であり,(2) 反対の信念に関するアリストテレス的定義は反対性を充足する9.(3) は自明に真と思われる.ゆえに (5) は論理的不可能性を表すものに見える.なおこの議論は循環はしていない.

だがどういう意味で最も強固な「原理」なのか.ἀρχή には認識の原理 (prinicipium congnoscendi),知識の始点ないし基盤という意味がある (Δ1, 1013a14-16).公理は ὑπόθεσις 同様,認識を可能にする限りで原理である.そして PNC が最も強固な原理なのは,それについて誤りえないからである.仮に PNC を受け入れず「無差別に」矛盾言明対の一方を選ぶことができたなら,任意のことを結論できてしまう.

こうして見ると,PNC が「諸公理の原理」である理由も分かる.PNC は認識の原理である限りで諸公理の原理なのだが,それは帰結として出てくるということではなく,論理的に誤りえないからである.例えば論理的観点からは PNC と LEM は相互に導出可能だが10,PNC の場合には論理的な誤りえなさを証明しうる.PNC は LEM の必要条件である (Γ4, 1008a2-7).したがって LEM について過ちうるのは PNC についても過ちうるときだけである.だが後件は成立しないので LEM についても過ちえない11.矛盾を真だと信じ得ないというアリストテレス的論証は,PNC の論理的優先性を確立しており,それゆえ「本性上の」知識の原理,すなわち全公理の認知的強固さの原理としているのだ.

Burnyeat 2001, p.136 (contra Bailey 2006) はプラトンアリストテレスの ἀνυπόθετος な原理の関係を次のようにまとめている:「プラトン主義者にとっての問答法は最高の学知であり,アリストテレスの第一哲学への彼らの対抗者である.アリストテレスが無矛盾律を「非基礎措定的」と言うとき,彼はプラトン的な善 (一者) ――『ポリテイア』で「非仮設的」と呼ばれていたことで有名なもの――を廃位させているが,それは単なる仮設の最初の例として『ポリテイア』で挙げられていた原理を支持してのことだったのだ」.

プラトン的善と ἀνυπόθετος なものの同一視の問題を越えて,善のイデアを無矛盾律に置き換えたという着想は魅力的である.それは単に Burnyeat の言うような R. IV の「単なる仮設」という論争的な点ゆえではない.プラトン的善は命題ではなく,ある抽象的対象たるイデアである.また οὐσία を越えていると同時に知られるものの〈ある〉と οὐσία の原因である.一方でアリストテレスの無矛盾律は実体の学知の公理の一つであり,全ての〈あるもの〉に帰属し (1005a22-23),その否定は実体と本質の否定を含意する.だが,善のイデアが認識対象に真理性を与え,認識主体に認識能力を与えるように (R. VI 508d10-e2),無矛盾律は世界を理解可能にし,世界についての学知を可能にする.善のイデアと同様,本質的に認識的な「善」でもあるのだ.


  1. 矛盾律 (i principi della contraddizione) と,その一種である無矛盾律 (quello di non contraddizione) とが区別されている.どういう区別なのかは不明 (たぶん §3 に書いてある.あるいは前者は排中律を含むか).

  2. 知らなかったがそういうものがあるらしい.以下の SEP 記事を参照: https://plato.stanford.edu/entries/logic-ancient/#StoSyl

  3. “Ma quello che più colpisce di questa interpretatione è la sua totale estraneità alla logica di Aristotele” (164-5). 仰る通り!

  4. 上記 SEP にはやや違うことが書いてある.要確認.

  5. これは PNC の否定より強い.ただしある前提が例外をなす限りでそれを含む論証が無意味になるとは言えるのかもしれない (ただその場合 CaB のような ad hoc な前提が問題になりうる).

  6. このあたりは全く同意見.

  7. 以降の原文は系統的に “APo. II.2” と誤植している.

  8. 原文の意味がよく分からない: “Aristotele si riallaccia all'esordio di Metaph. Γ3 […] cioè alla loro inclusione nella scienza del filosofo” (179).

  9. 不明.

  10. 不明.Cf. Cavini 2007b, 149n1.

  11. このあたりは混乱していると思う.ただおそらく完全に間違った筋ではない.