美的なものとは何か ステッカー『分析美学入門』3-4章
原書は Robert Stecker (2010) Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction, 2nd ed., Rowman & Littlefield. 思っていたよりずっと難しい.第1章は総説+各章の内容紹介,第2章は環境美学.第2章は話がいきなり具体的すぎて眼目がよく分からなかった.環境倫理学を勉強すると動機がよりよく理解できるのかもしれない1.
第3章 〈美的なもの〉について1――美的経験
1. 美的経験と快: 第一のカント的見解
カントは美的判断に4つの本質的特徴があると考えた (「美しいものの分析論」):
- 美的判断は主観的である (規則や概念の適用ではなく快の反応に根ざす).
- 美的判断は普遍妥当性を要求する.
- 美的判断は関心に基づいていない (利益 advantage から独立している).
- 美的判断は感覚のみならず想像力や知性を必要とする (自由な戯れ).
美的判断は快適さ (agreeableness) と 2-4 によって区別され,認識判断と 1 によって区別される.
美的経験は美的判断のこれらの特徴を備える.例えば音楽を聴く経験は,〔3〕当の音楽にとどまりつつ (音楽を離れて他の思想やイメージに向かうことなく),また〔4〕音構造の一貫性を期待しながら行われることで,快をもたらす.
カント的見解には次のような批判が可能である:
- 主観的普遍性は説明できない: 普遍性を説明するために「対象に自由な戯れと快を引き起こす力があるのだ」と主張してしまうと,判断は客観的になってしまう.一方,たんに規範的な主張だとするなら,その要求は正当化できない.
- カントは主観的判断 (純粋な美的判断) と認識判断の相互排他性を示唆するが,実際の美的経験には認識判断が組み込まれている (例:「美しい鳥だ」と判断する場合).
- 「構想力と悟性の自由な戯れ」という特徴づけは適切でない.「悟性」は《ブロードウェイ・ブギウギ》をモンドリアンの成熟したスタイルの一例というカテゴリーに入れる一方,構想力はこの絵をいつもと違う活き活きした楽しいものとして知覚する助けになる.ここにあるのは,「自由な戯れ」というよりは,概念に導かれる (concept-guided) 経験である2.
- 無関心性という特徴づけは,美的判断の認識的側面と折り合いが悪い: 鳥の経験と鳥に似せられた人工物の経験は異なる.
- 自然美の経験には「自由な戯れ」の高度な働きはないように思える.
2. カントによるもうひとつの説明
だが以上は自由美に関するカントの見解であって,彼はこれとは別に依存美 ("dependent" beauty) や快適なものについても論じている.
- 依存美は概念を前提する (KU §16).例えば聖堂の依存美を楽しむとはそれを (特定の時期・様式の) 聖堂として観賞することにある.芸術観賞もこれを要求する.
- またカントの美的判断には趣味判断と快適なものの判断とが含まれる.自然美の経験は後者の典型例だが,しかしわたしたちはそれを美的な経験と言うべきであると思われる.
自由美に依存美と快適なものとを付け加えると,外延的には美的経験をほぼ尽くすことができる.だが,これだけでは統一的理解にはなっていないし,またカントのよく分からない主張がそのままになっている.
3. 無我夢中
カント以後に,美的なものの概念の単純化が起きた.ショーペンハウアー (1788-1860),クライヴ・ベル (1881-1964),アラン・ゴールドマンはみな,無我夢中 (selfless absorption) という経験こそが美的経験だと主張する.彼らは:
- 〈自己・意志・実践的関心といったものの喪失〉から美的経験を捉え,
- 芸術経験を美的経験の典型例とみなし,
- そこから,〈美的経験には関心が伴っていない〉と考える (≠ カントの無関心性).
しかし彼らの主張には,各論的な曖昧さや形而上学的なあやしさのほかに,そもそも没入的経験は美的経験に限られないという共通の問題点がある.ゴールドマンはこの批判に応えて,美的経験の場合に注意を向けられるのは仮想世界だと述べる.だが,この主張は,建築や陶磁器の場合には妥当しないし,芸術領域外のことも説明できない.
また,自然経験・芸術経験が没我的状態を必ず伴うわけではない.強度の低いものがあるほか,関心を伴う美的経験もある (例: キノコ狩りにおける自然美の経験).
4. 感覚に訴える対象志向の快
一部の論者は,対象志向の感覚に訴える快 (object-directed sensuous pleasure) を強調する.それによって〈快適なもの〉/〈美的なもの〉のカント的な線引きは,〈たんなる感覚的快楽〉/〈識別 (discrimination, 経験対象の性質の選り分け) の快〉の間に引き直される.
この説には物語芸術の説明が難しいという問題がある.また,視覚芸術の場合にも重大な問題がある.いま,現れの幾つかの意味を次のように区別してみる:
- 現象的現れ (phenomenal appearance): 瞬間的に与えられる現れ.これに気づくには,特定の性質を微細に識別し,また大ざっぱな分類カテゴリーにもとづく見方をやめる必要がある.
- 真の現れ (true appearance): ものの本当の性質.トースターがキッチンに調和するか,数年間魅力を保ち続けるか,純白かクリーム色か,など.
- 性格的現れ (characteristic appearance): 対象の全体的性格.木が悲しそうに見える,トースターが機能重視に見えるなど.
絵画経験において私たちが通常興味を向けるのは真の現れや性格的現れである.だが,絵画経験は,現れを楽しむという点だけからは充分に説明できない.絵画経験の美的楽しみは,低層 (low-level) で知覚される特徴と,より大きな形式的デザインに再現される特徴との相互作用への気づきによってもたらされる.低層の特徴が性格的現れを帯びるのはその気づきの後であり,再現された世界への関心は,低層に基づく作品世界の現れ方に限定されない3.要するに絵画経験は現れの観察に留まらない.
この説に対しては,快適な知覚的経験と美的経験を混同しているというカント的評価を下すこともできる.だが,より理にかなった評価として,一部の美的経験が (今の人々に) 美的経験として理解されている理由を提示していると理解することもできる.
5. 二層説と最小説
ここまでの説は,美的経験全体をカバーしつつ統一的に理解することに成功していない.レヴィンソンの二層説 (the two-level conception) は,この点でかなりうまくいっている:
- 美的観賞とは,あるものの形式・質・意味に,それ自体のために注目し,かつ,それらのあいだにある相互関係に,そしてさらに,そうした諸特徴全てが低層で知覚される特徴のうちの特定の集合から現れ出る仕方に,注目することである.(Levinson 1996, p.6)
この説は,形式 (cf. ベルの無我夢中説)・質 (i.e. 感覚に訴える対象志向の快)・意味 (絵画経験におけるような.また cf. ショーペンハウアーやゴールドマンの無我夢中説) すべてを美的経験の対象としつつ,統一的に説明している.また芸術経験に限定されない.
だが,経験の質が構造的基盤から立ち現れる仕方をつねに把握しなければならないとは限らない.より小さな美的経験として以下が考えられる (最小説 the minimal conception):
- 対象の形式,質,意味ある特徴などに,それらを識別するような態度で (in a discriminating manner),そして,それら自体のために,もしくはまさにその経験に内在的な報酬 (payoff) のために,注意を向けることによって,もたらされる経験.
しかしこの場合,トースターのキッチンとの調和といった関係的性質を,美的経験のうちにカバーできない.このことを踏まえ,以下では次の二点を考察する:
- 対象やその性質や性質の美的経験は,果たして本当に,それ自体のために評価されねばならないのか.
- そうでないとして,「対象のもつ美的な性質に注意を向けていれば,美的経験だ」という説明は十分だろうか.
6. ある経験を美的な経験にするのは,どのような評価作用なのか
第一の問いについて.それ自体としてもつ価値は,道具的価値 (i.e., 手段としての価値,および単なる構成要素としての価値) と区別される.
同じものが両方で評価されることはありうる (e.g., 健康).また,無関心的に評価されることはそれ自体のために評価されることをおそらく含意するが,逆は成り立たない (無関心的に評価されるものは有益さによって評価されないため).
伝統的に,美的経験はそれ自体で評価されるもののグループに入れられてきた.これについては次のような反論がありうる:
- 美的経験がそれ自体で価値をもつなら,正の価値をもたねばならない.だが,負の美的経験もある.
- たんなる構成要素の美的経験がありうるのではないか.
- 美的経験は帰結ではなくそれ自体のために価値をもつ,という考え方は,進化論的観点と整合しない.
だが,どれも見込みがない.
- もう一つの反論: 内容の同じ観賞経験を,ジェロームはそれ自体のために評価し,チャールズは単にそれがもたらす利益 (e.g., 認識能力の向上) から評価しているとする.だが,同じ性質を知覚し,同じ構造形式や表現性質に気づいているのだから,ジェロームの経験のみを美的経験だとすることはできない.
だが,例えば素晴らしい作品を経験しない代わりに実験室で同じ利益が得られたとすると,ジェロームだけが残念がるだろう.美的経験には知覚的認識のみならず,なんらかの反応も必要なのである.
7. 美的経験とは,美的性質に注意を向けることなのか
第二の問いについて.美的経験とは美的性質に注意を向けることにほかならない,という考えがある (純粋内容志向説 purely content-oriented conception).前節ではこの考えを採る必要はないと論じたが,正しい考え方が一つだけとは限らない.
純粋内容志向説は良くも悪くも包括的である.この説の厄介な問題は,美的性質が反応依存性質 (responce-dependent property),つまり対象の状態のみならず,対象に人間が反応する仕方に依存する性質だと考えるときに生じる.詩の授業の試験準備の結果,美的経験を行わずに美的性質の存在を信じることはありうる4.
第4章 〈美的なもの〉について2――美的性質
「美的性質なるものはあるのか,あるならどう特徴づけられるか」という問いは,以下の問いに動機づけられる.
- 美的経験は反応依存的か.
- 美的性質は美的経験と独立に同定できるか.
- 美的経験と美的性質の一方なしに他方が生じうるか.
だがこれらに取り組む前に,通常どのようなものが美的性質とされるかを検討する.
1. 美的性質にはどのようなものがあるのか
〔ソネット73番の解説 (省略).〕解説にあらわれるタームは,読む体験の記述と,詩の性質の把握とを行う.「皮肉めいた」「機知に富んでいる」「鮮やかな」etc. は後者に属する.ゴールドマンはこうした美的性質とされるものを (非排他的に) 分類する:
- 全体的な価値性質 (general-value property): 美しい,醜い.
- より特定的な価値性質 (more specific-value property): 優美である,優雅である,機知に富んでいる.
- 気分を表現する性質 (expressive property): 悲しい,楽しい etc.
- 感情の喚起 (evocation of feeling) を指す性質: 力強い,気持ちをかきたてる etc.
- 力動的もしくは振る舞いに関する性質: のろい,弾むような etc.
- 高階の知覚的性質 (higher-order perceptual property): 鮮やかである,鈍い etc.
- 再現にかかわる性質 (representational property): 迫真的である,ゆがんでいる etc.
2. ある性質はいかなる原理によって美的性質に分類されるのか
美的性質とそうでない性質を分ける原理にはいくつかの案がある.
- 〈批評家が芸術作品の価値を判定するときに言及する性質〉.
- 批判: これは芸術的価値と美的価値を誤って同一視している (cf. 第二部).また,批評家が言及する性質だけで美的価値を網羅できる保証はない.
- 〈趣味 taste がよくないと識別できない性質〉.
- 批判: 上に挙げた諸性質は把握するのにふつうの能力しか要らない.
少なくとも,美的性質とは,〈美的な価値評価をする際に私たちが訴えるもの〉だとは言える.だがこの方針で説明するには,
- 説明が循環しないようにする必要があり,
- また,美的性質と価値評価の関係を説明する必要がある.
循環を避けるには,美的な価値評価をプリミティヴに取るか (この方針はあやしい),美的なものに言及せずに別のもので説明する必要がある.そうだとすれば,3章の美的経験の説明と同様に説明するのが最も有望である.どの説を使ってもよいが,内容志向説だけは美的性質に訴えているため使えない.
美的性質と価値評価の関係の説明には,以下のアプローチがある.
- 美的性質 =〈美的経験の原因となる対象〉がもつ性質.
- 批判: すべての性質が美的性質なわけではない (例: 微細構造).
- 美的性質 = 対象を精確に知覚し正しく理解するときにもたらされる経験の価値を指し示すために言及される性質.
- 批判: 価値評価を含まない美的用語もある.
むしろ次のように説明すべき.美的性質には,以下の三種類がある:
- 対象の美的評価で言及される,全体的な価値性質,
- 対象がその全体的評価に値するのは「なぜか,また,どのようにしてか」の説明で言及される,特定的な価値性質,
- その「なぜか,また,どのようにしてか」の説明で言及される,純粋に記述的な性質.
3. 反応依存性についての三つの説
- ある性質が反応依存的である ⇔ その性質の例化が,〈その性質をもつ対象には,人間に特定の反応を引き起こすという安定した傾向性がある〉という点に存する.
美的性質に反応依存性を (どの程度) 認めるかは論争がある (全く認めない説,ものにより認める説,全てに認める説).諸説を検討する.
- 「美的性質は内在的性質なので,反応依存的ではない.反応依存的ならば関係的だから」(イートン).
- 「美的性質のうち,高階の現れ方 (higher-order ways of appearing) は反応依存的でない」(レヴィンソン).
- 高階 := 同種のべつの性質を基礎にして現れる.
- レヴィンソンによれば,現れ方は傾向性とは異なり,直接知覚される.それゆえ反応依存的ではない.
- 批判: だが,そのような〈現れ方〉が,「対象が観察者にかくかくと現れる」という事実に付け加えて (対象や観察者のうちに) 存在すると考えるべき理由はない.
4. 反応依存性を認める説
反応依存性を認める説のなかで,理想的観察者 (適切な能力・知識をかねそなえた健常の観察者) の反応に訴える説を取り上げる.先ほどの美的性質の三分類の各々は次のように説明されるだろう:
- 対象が美的に優れているのは,理想的観察者が対象のより基礎的な性質を適切に理解し,それについて対象を十分に満足しつつ経験するときである.
- 対象が特定的な価値性質をもつのは,理想的観察者が諸特徴の理解によって対象に満足を感じつつ反応するときである.このとき当の諸特徴が特定的な価値性質の記述的内容となる.
- 対象が純粋に記述的な性質をもつことは,理想的観察者の価値中立的反応に存する.
このうち 1 は成功しているが 2-3 は失敗している.
- 1 は,美的性質が価値ある経験であること,および美的性質の主観的普遍性をうまく捉えている.
- だが 2 には,記述的内容を特定しようがない場合があるという問題がある.例えば「鮮やかな」に対応する記述的内容としての対象の客観的諸特徴は同定しようがない (「鮮やかな人物描写」と「鮮やかな色」を考えよ).
レヴィンソンは,「対象の客観的諸特徴ではなく,観察者に現れる全体的な印象 (emergent holistic impression) によって共通の記述的内容が確保される」と論じる (美的性質の印象説).
- この説の利点は,特定的な価値性質と純粋に記述的な性質とを,印象が価値評価を含むかどうかで区別するという仕方で統一的に説明できることだ.
- この説の弱点は,(1) 印象に関する説明不足,および (2) 理想的観察者における印象の多様性にある.
- 〈愉快さ〉などは印象説だけで説明できるが,〈けばけばしさ〉にはより情報を含んだ記述が可能であり,〈悲しさ〉などはあてはまる事物を示すことで説明すべきである.美的性質の理解に単一の筋道はない.
- 理想的鑑賞者の間でさえ印象が多様である場合,むしろそもそも美的性質が存在しないことになる (反実在論).
5. 反実在論
美的性質に関する反実在論を採るなら,「落ち葉が鮮やかだ」などと言うときに何が行われているのかを別途説明する必要がある.選択肢は三つある:
- 主観主義: それらは美的性質ではなく美的経験についての主張である.
- 表出主義: それは主張ではなく,経験や対象についての態度の表出である.
- 相対主義: それは経験対象についての判断ではあるが,判断の正しさは集団に相対的である.
主観主義
主観主義の最も単純なヴァージョンでは:
- 美的用語が用いられるのは個人的経験の報告においてであり,その報告は対象の傾向性の報告ではない (≠ 印象説).
このヴァージョンでも印象の理由づけに客観的諸特徴をもちだすことはできる.だが,理由づけに納得できない場合,究極的には話はそこでおしまいになる.このヴァージョンの問題は,考察を深めた結果第一印象が変化する場合に,もとの印象に欠陥があったと言えなくなることにある.そこで,次のことを認める,より複雑なヴァージョンを考える:
- ある反応は,他の反応より妥当性が低い.美的判断には,当の経験が妥当だという主張が含まれている.
このヴァージョンは判断の取り消しを訂正とみなすことができるし,意見の不一致を認めることもできる.だが,このヴァージョンにも問題はある――印象が妥当であるというだけでは,対象そのものを評価するという側面が捉えられない.次のような修正を考えてみる:
- 価値づけを行う美的用語を用いる人は,当の対象への賛同・非難をも報告している.
だが,賛同を示すというのは心理状態の報告にすぎず,対象の価値評価になっていない.そこで,主観主義者は次のような対応を取るのが自然だろう:
- なにかが妥当な印象かつ賛同する印象である場合,その妥当性によって賛同自体も妥当となる.(このことによって,判断の評価的側面が説明される.)
これに対して,結局得られているのは経験対象の評価ではなく観賞者の価値評価の評価にすぎないのではないか,という反論はありうる.だが主観主義者は,そもそも主観主義的説明である以上,対象への評価は反応と独立ではありえない,と応答できる.
表出主義
表出主義者は,美的判断を観賞者自身についての主張とみなすことを直観に反すると考え,それをむしろ感情や態度の表出だと考える (cf. 美的なことがらについての隠喩的な語り,美的経験に含まれるアスペクト知覚).
表出主義は,美的判断の評価的側面を賛同・満足・評価の表出と捉える.記述的側面の説明はより難しい: 表出主義者は記述的側面については主観主義を採るべきだろう6.
相対主義
相対主義は,(a) 美的判断が対象について「直接」何かを述べていることを認めつつ,(b) その主張の成否を集団に相対化する.
この立場は (a) の点で主観主義と異なるように見えるかもしれないが,実際にはそう違わない.結局は〈集団に属する個々の観賞者の経験を成り立たせる諸要素〉を介した判断になるからだ.主観主義は相対主義の一ヴァージョンとみなせる.
6. それぞれの案を査定する
では,どの説が正しいのだろうか.
反実在論全般に対する批判として,それは美的判断の規範性を説明できておらず,快適なものの判断と美の判断を区別できていない,というものがありうる.だが,これだけでは論点先取である――批判者は美的判断の特権性を別途説明する必要がある.
反実在論のなかではどれがより優れているだろうか.
- 洗練された主観主義と相対主義は似ているが,相対主義は判断を異にする集団がいくつか存在することを認めているという違いがある.集団ごとの感受性の違いが確立されない限りは,主観主義のほうがよさそうだ.
- 主観主義は表出主義より優れている (多くの哲学者はそう考えていないが).なぜなら,美的判断は主張・言明であるという論点が保持されているからだ.表出主義はこれを拒否するために議論が入り組んでしまう.
反実在論と実在論ではどちらが優れているのか.これは性質によるのではないかと思われる.
7. 未解決の問題
冒頭の問いの二つにはいまや次のように答えられる:
- 美的経験は反応依存的か.
- 答え: 〔しかり.〕美的性質は態度や価値評価と本質的に関わる.
- 美的性質は美的経験と独立に同定できるか.
- 答え: できない.
ゆえに内容志向説はうまくいかない.
3つ目の「美的経験と美的性質の一方なしに他方が生じうるか」という問いは未解決である.
- 美的でない性質を美的に経験できるかは,美的性質 (ないし (反実在論者にとっては) 美的用語) の境界をどこに引くかによる.
- 美的経験の外側で美的性質に気づくことはありうる.例: 自宅のキッチンに調和するトースターを店で選ぶとき.