Γ4 からもプロタゴラス批判は読み取れる Gottlieb (1994) "PNC and Protagoras"
- Paula Gottlieb (1994) "The Principle of Non-Contradiction and Protagoras: The Strategy of Aristotle’s Metaphysics IV 4” Proceedings of the Boston Area Colloquium in Ancient Philosophy 8, 135-50.
Γ4 (Γ5以降ではなく) と『テアイテトス』第一部 (sec. Reading B) を関連付ける論考.
I. 序論
アリストテレスは論証不能なはずの PNC を Γ4 で示そうとする.この奇妙な議論を理解する補助線を引くのが本稿の目的である.Γ5 冒頭では PNC とプロタゴラス説の成否が連動すると論じられるが,本稿は,Γ4 からプロタゴラス論駁が始まっていると考えることで,議論の奇妙さがかなり減じられると論じる.また Γ4 と『テアイテトス』冒頭の比較が有用であるとも論じる.
アリストテレスの戦略はプラトンの戦略を逆向きにしたものだ,というのが基本的なアイデアだ.プラトンは「プロタゴラス説を採ると PNC の拒否と通常の言語使用の困難に行きつく」と論じた.アリストテレスは「日常言語でなにか有意味なことを言えるとすると,PNC を受け入れ,プロタゴラス説を拒否しなければならない」と論じる.Γ4 には二つのヴァージョンが登場する:「PNC を拒否すると全てを拒否する必要がでてくる」(野心的でない),「PNC を受け入れるなら本質主義も受け入れねばならない」(野心的).
ただしプロタゴラスが Γ4 の唯一の論敵だというわけではない; プロタゴラスを念頭に置くと幾らかの側面がわかりやすくなるというだけである.
II. PNC といくつかのパズル
Γ4 では PNC は三つの定式化を受ける (cf. Łukasiewicz).うち二つをここでは問題にする: (1) 存在論的定式化と (2) ドクサ的定式化 (how one can intelligibly suppose the world to be).どちらを示そうとしているのかが最初のパズルになる:
- アリストテレスは一見 (2) に基づいて (1) を示しているように見える (cf. Irwin).
- だが,(2) が (思考が世界を反映するというアリストテレス的前提抜きに,反対論者にとっての) (1) の理由になりうるかは定かでない.
- だから,むしろ (2) を示そうとしていると考えるのが妥当と思われるかもしれない (cf. Code).
- しかしそうすると,Γ4 中間部の反本質主義に関する議論が説明できない.ゆえにやはり (1) を示しているのだ.
もう一つのパズルは,PNC を擁護する際,「ある A がある B に属しかつ属さない」と主張する論敵を出すべきところ,ほとんどの箇所で「任意の A が任意の B に属しかつ属さない」とする論敵と戦っていることだ.ふつうは混乱していると見るべきところだが,逆と対偶をはじめて区別したのはアリストテレス自身である (De Int. 7).
以上のパズルに応答するためには,『テアイテトス』のプロタゴラス批判を見るとよい.
III. プラトン『テアイテトス』151-183
『テアイテトス』では,プロタゴラス説をヘラクレイトス的流動説を結びつけることで,矛盾へともたらす.プロタゴラスによれば事物は人に現れるとおりにある (160c).ソクラテスは「現れていることは各人にとって (for that person) そうある」と定式化する (152c); これはトートロジーではなく,世界のあり方について各人は正しいということ (不可謬主義, cf. Fine; S.E., P. I.32).問題は各人ごとに現れが異なること.プロタゴラスはPNC 違反を避けるため,何ものもそれ自体でありはしないという見解に与する.
そして結果する不確定性がヘラクレイトス的な流動する世界の観点から記述される (154c-155d).プラトンは,感覚を世界と人の相互作用の結果とする理論を立てて,プロタゴラスの見解を支持する.だがこの場合,対象と人は相互作用と独立にあることになり,現れが誤る余地が生じてしまう.そこで理論を改訂し,対象も人も相互作用の結果だとする.石も動物も感覚の集積である (175b-c).この集積とその構成要素さえ不確定である; さもなくば過去や未来の経験について正しいことが保証されない.しかしその場合,PNC は成り立たず,世界は知り得ず,コミュニケーションは不可能になる.
IV.「自己論駁」論証
『テアイテトス』171a でプラトンは「非常に些細な含意」をプロタゴラス説から引き出す: プロタゴラス説をある人々は偽だと考えており,ゆえにプロタゴラス説は偽である.これと PNC より,プロタゴラス説は自己論駁的である.
この論証はプロタゴラス説の詳細を捨象しているため,フェアーかどうか異論がある (McDowell, Burnyeat, Bostock).まずプロタゴラスによれば,事物は特定個人に相対的にのみしかじかである.ゆえに,反対者にとって世界が確定したあり方をしていても,プロタゴラスにとってはそうではない.――だが,プロタゴラス説が「現れる通りに現れる」というトートロジーでないなら (pace Bostock),この場合プロタゴラスにもアクセス可能な確定した世界があるはずだ.ゆえに,やはりプロタゴラス説は自己論駁的である.プロタゴラスがラディカルな流動説に応じるとしても,やはり PNC に違反する.――このようにして 151-183 の議論全体を含む形で自己論駁論証を拡張できる.
要するにプラトンの戦略は,プロタゴラス説の真理を保証するための必要条件を示し,相反する現れに関して PNC 違反を妨げるが,結局は PNC 違反に導き,日常言語においてプロタゴラス説を主張不可能にする,というものだ.したがってプラトンによる批判は究極的には PNC 違反に向けられる.これがアリストテレスの議論の出発点である.
V. アリストテレスの戦略
Γ4 はプラトンの戦略と多くを共有する.実際,議論は『テアイテトス』を逆に辿ったものである: アリストテレスはまず,何か有意味なことを言うよう反対者に挑戦し,そこから PNC へのコミットメントを引き出す.さもなければ実体と本質を捨てることになるという (1007a20-23).
Γ4 では PNC 違反は変化と結びつけられてはいない (実際ヘラクレイトス自身の説も PNC 違反からは切り離される (Γ3, 1005b25)).むしろ不確定性に集中している (cf. Tht. 183b).アリストテレスは『テアイテトス』183 の極端な立場と戦っているのだ.
VI. PNC の拒否
アリストテレスが示そうとするのは,もしPNC 反対論者が PNC を完全に拒否するなら,その人は何かを反対の属性の主体 (subject) として同定し得ないし,したがって彼の見解の事例を挙げえない,ということだ.(二つでなく) 一つの主体を同定しうるなら,少なくとも一つの属性があり,それが属しかつ属さないのだと認めねばならない.それゆえ,何か理解可能なことを言うためには,PNC を認めねばならない1.
もちろん反対論者はラディカルな流動を認めるという選択肢を持つ.この場合 PNC は成り立たなくなる (アリストテレスの言い方では,全てが付帯性である).しかしアリストテレスによれば,このとき反対論者は付帯性すら持ちえないs.何かが属性を持ったり持たなかったりするためには,その属性が完全に不確定な性質のものであってはならない.PNC を完全に拒否すると,任意の性質が当の性質であって,当の性質でないのではない,と言えなくなる.全てが一つになる,ないしは何一つほんとうに一つではなくなる (Γ4, 1007b26). is は is not と別のことを意味していなければならない.PNC の否定を述べるためには何らかの確定的性質が必要だが,PNC を受け入れない限り確定的性質は得られないのだ.完全に不確定な世界はそもそも世界ではない (cf. Γ4, 1007b26-29).
VII. PNC と本質主義: 論証の野心的なヴァージョン
以上述べたとおり,PNC の否定は本質主義の否定を含意する.さらにアリストテレスは,PNC の受け入れはアリストテレス本質主義の受け入れを含意すると述べる: 付帯性を受け入れるなら,その確定した担い手,したがって実体と本質を受け入れねばならない.
議論はこうである: PNC の反論者は καθ᾽ ἑνός に意味表示するのみならず ἕν を意味表示する必要がある (Γ4 1006b16, cf. 1007a5).しかるにこの ἕν (例えば人間) は本質を同定する定義と結びついている.―― 反論者の取りうる選択肢は,アリストテレスが述べるように,三通りである: (1) ἕν を意味表示する,(2) καθ᾽ ἑνός な (付帯性の) 意味表示しかないと論じる,(3) καθ᾽ ἑνός な意味表示と ἕν の意味表示の区別を拒否する.このうち (1) を採ると本質主義に至る.(3) を採ると全てが一になる (白い・教養ある・人間である,が区別できない).
(2) を採る場合については Γ4, 1007a31-b17 で論じられる.曰く全ての意味表示が単に καθ᾽ ἑνός なものではありえない (APo. I.22 に以降の議論の興味深い類例がある).様々な付帯性には,それらを統一する主体 (実体・本質) がなければならない.
このアリストテレスの議論には,以下のような反論を考えることができる: Top. I.4 は本質と非本質的必然的属性を区別しているが,Γ で示せているのは後者の必要だけだと思われる (Striker).これに対しては二つのことを問わねばならない.第一にそもそもアリストテレスの議論は必然的属性と区別される意味での本質へのコミットメントを要請する意図のものなのか,第二にそうだとして議論は成功しているか.'ὅπερ' という言葉づかいからして,第一の点には肯定的に答えるべきである.第二の点については,確かに必然的属性のことしか示せていないが,論証を補う資源をアリストテレスは持っている.すなわち,必然的属性は本質から説明され流れ出るものである.ゆえに実体が統一・説明の役割を果たすためには,瑣末な本質的属性 (e.g., 自己同一性) 以上を有していなければならない.
より深刻な反論はこうである: アリストテレスの議論が示しえているのは実体・本質・付帯性があると考えなければならないということだけだ.これに応答するため,元々のパズルに戻る.
VIII. パズルの解決
元々のパズルは以下の通り.
- なぜドクサ的原理 (2) を擁護する論証に基づいて,存在論的原理 (1) を認めなければならないのか.
- 中間部の反本質主義的議論はどういう意味があるのか; なぜ PNC を拒否する者は特定の世界観にコミットすべきなのか.
- なぜ PNC の対偶ではなく逆を相手取っているのか.
各々に次のように答えられる:
- 「現れるとおりにあるのだ」と考える人に対しては,PNC を拒否すると事物が理解可能な仕方で現れなくなるという論点は有効となる.
- アリストテレスはプロタゴラスが要請するとおりの世界に反論者をコミットしており,その世界が理解不可能だと論じている.
- アリストテレスとプラトンが正しければ,プロタゴラス主義者は PNC を全面的に (across the board) 拒否しなければならない.
IX. 結論
もちろん PNC の反論者は意味のあることをなす・言うことを拒否できる.しかし拒否した場合にも,アリストテレスは第三者に何が PNC にかかっているかを明らかにすることはできる.プラトン・アリストテレスがプロタゴラスに帰している見解が一纏まりであると示すことは,彼らに課せられている重荷だと思われてきた.しかし興味深いことに,現代のプロタゴラス主義者であるポスト構造主義者は,実際にパッケージ全体を受け入れている (cf. Sturrock 1979).これがなぜかを示すためにプラトン・アリストテレスは様々な試みを行った.ラディカルなプロタゴラス主義が魅力ある理解可能な選択肢だと考えられている限りで,彼らの試みは精細な吟味に値する.
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あまり議論の筋道がわからない.Irwin 1988, ch.IX, §§98-106 が参照されている.↩